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小松理虔著「ただ、そこにいる人たち」を読んで作業療法を考える

 この書籍はNPO法人クリエイティブサポートレッツの「表現未満、」プロジェクトの記録集ということで、一般の流通販路での購入は難しいかもしれないが、「表現未満、」公式ウェブサイトがあるようなので(http://cslsts.net/miman/)で一読できるかもしれない。

 私自身「存在を肯定する」作業療法の姿を追い求めているところがある。療法というからには強固なベクトルが存在していて、対象者の社会適応を目標に設定し、役割の獲得や意味の具現化を目指していく方向だったりする。それがかえってその人らしさを奪い去ってしまう窮屈さも持ち合わせているように思えて、もっと自由な療法の姿はないものだろうかと感じてしまうのだ。

 そんなふうに思う私にとって、NPO法人クリエイティブサポートレッツはとにかく個々の自由が融合したとても魅力的な場なのだ。知的障害の人たちと支援者として関わる人たちが過ごす日常の様子は、破壊的だったり、まったりとしていたり、すごく情熱的でもあったりし、一言での表現が絶対に不可能で、こんな場はレッツにしかない、という特異な印象を受ける。だけど、訪れた誰もが味わったことのない居心地の良さも感じる。

  そういうレッツに小松理虔さんが訪れ、ルポルタージュを書かれた記録集ということで、自分の関心事でもある「ただ、そこにいる人たち」の場に成立する「作業」(活動)の様相とはなにかがこの本を読むことで浮かび上がってくるのではないかと期待したのである。

 レッツは、知的障害のある壮(たけし)さんの母親である久保田翠さんが始めたものだが、本のなかにその経緯を語っている箇所があるので紹介よう。
 
  「ほんとうに、社会に居場所がありませんでした。だから居場所が欲しくてレッツを作ったのかもしれません。母親って子どもによって大きく状況が変わってしまう。私だってもともと全く福祉と関係のない人間でした。芸大では環境デザインを専攻していました。けれど、壮(たけし)の世話をするることで仕事を諦め、辞めなければなりませんでした。[略] 日本の福祉は、家族が崩壊して初めて福祉のサービスが受けられるシステムになっています。母親は夢を諦め、自分を犠牲にしなければならない。それが前提になっているんです。そこに母親の人権はありません。」p62

「レッツでは、利用者はどんどん街に遊びに行きます。街のなかに行かないと社会は変わりません。問題が起きないと社会は変わろうとしないんです。健常者とは違う目線や感じ方を持っている彼らが街に出ることで、あちこちに波が立つように問題が起きる。それによっていろいろな人が考えたり、見え方を変えたりする。だから問題を起こすのが彼らの仕事です。
 彼らのこだわりや行動がなんの役に立っているのかと言われれば、立たないですよ。けれど、どうしてもやってしまう水遊びや階段を下りること、石を箱に入れてカチカチ鳴らすことを表現だと思わねば、表現なんてないのと同じです。その人となりを表すものが表現であるはずです。自分を表す方法としての表現を大切にしていこう。そのことが、その人の存在を認めていくことになる。レッツは、そんな考えを大事にしています。」p58

 「子どもの人生は子どものものです。親にも家族にも人権があるんです。壮の人生は、壮と友人たちで考えればいい。壮だって、私とは行けないけど、スタッフと旅行をしました。親は離れていいんです。」p62

「ただそこにいる」場は、自然的に生まれる場ではなく、むしろ世の中の価値への意識化とそれに対する問題意識のうえに立ち上げられる場であることに気づく。

 小松さんは、レッツに居合わせる感覚の下記のように表現している。

「ぼくたちは、ただそこにいるだけでは「価値がない」とされる社会に生きている。経済的な行為をしたり、誰かの役に立ったりしなければ存在価値を認めてもらえない。[略] (レッツでは)ただ、そこにいるだけでいい。そのメッセージはぼくにも届く。ぼくは、この場所では、ただいるだけでいいからだ。そしてその言葉は、ぼくのなかにもある「生きにくさ」をやさしく抱きとめてくれるだけでなく、同時に、ぼくいかに「存在価値」のような概念にまみれているかを鋭く突きつける。」pp14-15

 さて、利用者のツチヤくんのある日の作業(活動)の様子。

「ツチヤくんという、とにかく水が好きで、ダメだといってもポケットに水を忍ばせたり、下着だけ濡らしてしまったりと、ものすごく水にこだわりを持っている。目の前のツチヤくんは、思い切り水浴びをしていて、とてもいい顔をしていた。[略] そばにいた女性スタッフのフキ子さんが言った。「すごい研究熱心だなぁ。ツチヤくんは、水に濡れることに対する飽くなき探求心がすごいんですよ」と」pp22-23

  小松さんはツチヤくんの様子とフキ子さんの表現に「すごく心打たれ」て「表現未満、」について次のように書いている。

 「4歳の娘のことを思い出していた。彼女は、毎朝着替えを用意するとき、いつも「スカートがいい」と要求してくる。今日は外遊びがあるからズボンにしなさいといっても聞かない。幼稚園に行くのも、「明日はズボン履くからお願い」といってスカートを持っていくのだが、いざ次の日になってみると、また「スカートがいい」と泣きじゃくる」p25

 「あっと気づいた。彼女がどうしようもなくスカートをはきたいと思っていること。どうしてもスカートにこだわってしまうこと。それって「表現未満、」に近いものでは?と

 理由も意味も打算もない。どうしてもそれにこだわってしまう。彼女にとってそれはスカートだったのかもしれない、そう思ってみた。すると、スカートしか履きたくない娘こそ、わが娘だと思えてくる。スカートを履きたいと思うことは、「わがまま」ではなく「彼女らしさ」のように思えてくるのだった。[略] その延長戦上に、妻にも、父や母にも、というかぼくにすら、そういう「表現未満、」があるのではないか」p26

 世の中の価値を作り出す立場である大人や健常者という立場は、自分たちの価値のフィルターを通して作業(活動)の良し悪しを裁定してしまうところがある。フキ子さんも最初は、ツチヤくんの行動を叱ってしまっていた。しかし支援会議のなかで、久保田さんから「水を浴びて困るのは、実はフキ子さんではないか」と指摘を受け、自分の価値を押し付けていたことに気づいたという。「表現未満、」は、意味も役割も見出しずらい、他者には迷惑と受け取られがちな、だけどその人が溢れ出るような作業(活動)であったりする。

 作業療法としても、現在は自己決定が重視され、パターナリスティックであることは良いこととはされないので、他者との葛藤状態にあることを問題ととらえ、本人や環境の調整を行うことにはなると思う。それは多くの人にとっては(多数派にとっては)、ベストな答えとなっていくだろう。しかし、その時に、レッツが照らす親の人権、支援/被支援の関係の再考、世の中の価値への再考、ツチヤくんの作業(活動)とツチヤくんの現れる世界の肯定性、といった様々な問題群がどこかに行ってしまうのだ。作業(活動)のなかにある意味や役割の逸脱性のなかにこそ、世の中に問うべき問題群があることにもっと関心を寄せることが大切なのではないかと思われる。

  

 

 

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