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10年Mac使いでしたがついさっきWindowsのパソコンを注文してきました。

およそ10年前、勤めていた職場が実質倒産し、準備する間もなく追い出されて一時的にフリーでWEB制作をやっていたことがあった。その時、僕はいっぱしのクリエイターになってやろうという決意を込め、少ない貯金から資金を捻出してMacを買った。

iMac 27インチ(mid 2011 モデル)。
確か吊るしの中間クラスあたりだったと思う。当時としては27インチのモニターは巨大だった。初めてデスクに設置した時は圧倒されたのを覚えている。

残念ながら僕にはフリーで仕事を得続けられる営業力はなく、今では半分派遣社員みたいな待遇の正社員としていわゆる「WEB土方」をやっているが、勝手に決意を込められてしまったiMacくんは9年以上にわたって自宅PCとして執筆にデザインに作曲に動画制作にと、趣味の活動全てにおいてバリバリ活躍してくれた。

しかし流石にガタがきていて、年々スペック的にも厳しくなり、最新OSのサポートからも外され……「まだ使えることは使えるんだけど」と思いながらも買い替えを決意した。まあPCは壊れてから買い替えても遅いから。

当然次もiMac。
そのつもりだった。

なぜなら今使っているiMacに何の不満もなかったから。いや、それは言い過ぎで、確かにストレージは遅いしCPUも時代遅れだ。でも少々我慢すればやりたいことは大体(全部ではないけど)できるし、ハードもOSもAppleなりの美学に彩られていて我慢を我慢と感じさせない「何か」があった。いや「何か」が本当にあったのか定かではない。しかし僕はそれを信じた。僕は10年の間にすっかりMac党になっていた。

しかしタイトルにあるように、現在の僕は数ヶ月の検討の結果、約10年ぶりにWindowsのBTOパソコンをオーダーしたところだ。実はそれがほんの数分前の出来事で、すこし熱に浮かされるように今この文書を書いている。

Macの買い替えにあたり、色々な現行機種を検討した。
もちろん最初は「どのMacにするか」悩んでいた。やはりまたiMacか。一体型は家庭用にはすごく便利だ。それとも、MacBook Pro 16インチか。これだけパワフルならノートでもいいんじゃないか、いざというとき持ち運べるし。いや、どうせ外部ディスプレイを使うならMac miniの特盛スペックのほうがお買い得なんじゃ……。とまあ、そんな具合に。

しかしそうする中で、どうしてもある種の違和感が頭から離れなくなった。どのモデルを選ぶにしても、どこかしら大きく妥協しなければならないことに気が付いてしまった。なんというか、「ちょうど良いモデル」というのが存在しないのだ。

iMacでもそれは顕著に感じた。そもそもiMacはなかなかアップデートされず、旧世代のCPUを積み続け、ストレージ容量もSSDだとMacBook Proより少ない。そのくせ、27インチのディスプレイはRetinaの5K。現状ではRetina非対応のアプリも少なくないだけでなく、現実的には擬似解像度WQHD (2560*1440)で使うことになるわけで、10年前のiMacと比べて作業領域が広くなるわけでもない。「画面表示がやや綺麗になる」だけでその代償としてGPUパワーも電力も余計食うわけで、高品質なディスプレイなのには違いないが、高解像度を求めないユーザーからするとコスパは極めて悪い。そもそもコスパ面で言うと、SSDやメモリを中心に、ちょっとカスタマイズしようとするとベラボーなお値段になるのがMacだ。

iMacに限らずすべてがそんな調子で、不安を感じない程度にスペックを盛ると手の出ない金額になってしまう。独身時代ならそれでも買ったかもしれないが、今では無理だ。要するにMacは金持ちが買う道具なのだと思った。

金持ちというのはよくない言い方かもしれない。言い換えるなら、「Appleの提示する未来を信じて、あまりリターンがなくてもその未来に先行投資できる人たち」だろう。

PCへのRetinaディスプレイ導入も、出入力端子のUSB type-C統一も、SDカードスロットやイヤホンジャックの廃止も、つまるところ「未来」なのだ。Apple製品は未来の形をしている。

確かに数年後には、世界がAppleに追いつくかもしれない。でも今はまだ、「未来」を使おうと思うとやっぱり不便だ。この状況でAppleに乗っかれるのはコストに目をつぶって周辺機器まで「未来」で揃えられる人だけなのだ。そうでなければ不満をごまかしながら使い続けることになる。

さらに言うと。
未来志向のAppleのことだ。世界が「未来」に追いついた時、しっかりそこで待っていてくれるだろうか。「未来のその先の未来」に駆け出してるんじゃないか。でもそんなのってユーザーが報われないじゃないですか!?

無論必ずそうなるとは限らない。Appleの「未来」には波がある。
事実、僕がiMacを買い、使い始めた数年間、比較的Appleの「未来」はおとなしかった。だからこそ僕は快適に使い続けることができたのだが、その後の数年間でAppleは大きく舵を切ることになる。ディスプレイの解像度をめちゃくちゃに上げ、光学メディアや古い端子を大胆に捨て去り、スペックを免罪符に価格を上げ続けた。

今の僕にはそんな現在のAppleのラインナップに納得し、彼らの敷いた道を盲目的に進むことはできない。僕はAppleを見限ることにした。いや、たぶんAppleが僕のようなユーザーを見限ったのだろう。でもどちらでも同じことだ。

慣れ親しんだMacからWindows機に乗り換えようと決断することは、正直言ってかなりの葛藤を伴った。

スタイリッシュでかっこいいMac。フォントのレンダリングが美しいMac。使っているだけでどこか優越感に浸れたMac。その世界から、あらゆるUIが鈍臭く文字もガタガタでUpdateがうざすぎるWindowsに移行する。そこには単に互換性やフォーマットなどの技術的な問題にとどまらない心理的障壁が立ちはだかっていた。都落ち。下方婚。妥協。諦め。ネガティブなイメージがつきまとった。

しかし前述の通り、Macを買うにも多くの妥協を強いられるのが現状なのだ。歪んだ虚栄心と執着を捨て去って「買い物」として検討してみれば……つまり飛んでいくお金と自分が得るPCのスペックや実用性を考えれば……今の僕には「脱Mac」がベターな選択だった。

さよならMac。

Macを買う予定だった金額でMacより1段、いや2段は高性能なPCを注文した今、僕の心は思いのほか晴れやかだ。

自分はスペックをとってクリエイティビティを捨ててしまったんだ、というような罪悪感にも似た気分に支配された瞬間もあった。けれどよくよく考えてみれば、僕が中高生の頃にWEB制作をはじめたのも、ど素人なりに小説を書いて発表していたのも、DTMや動画編集をはじめてニコニコ動画に投稿していたのも、結局のところWindows機でのことだった。

Macを使うようになってからの僕は本当に人生史上最高にクリエイティブだっただろうか?
たぶんそうではない。僕が僕自身の「未来」を信じ、無心に創作に耽った時期、過ぎ去りしあの頃、傍にいたのはいつもWindowsだったのだ。

そう考えると妙な郷愁と愛着が湧いてくるのを感じた。全然スタイリッシュじゃないし無愛想だけど変に取り繕ったりせず意外と懐の深い、古い相棒。今よりも少し純粋で夢見がちで、貪欲だったいくつかの地点の僕自身。いろいろなことが思い出され、今の気持ちを一言では言えないが、一言で言うなら、そう。すこしワクワクしている。そんなことを10年の時を共に過ごしたiMacで書いている。

深夜2時。眠い。

でも今夜はまだもう少し、眠れそうにない。

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