坐禅をする理由

坐禅をする理由は実物に当たるためだ。実物に当たるとは言語化する以前の状態でいること。人間は言語化することで悩む。

人に馬鹿にされて悩むこともその典型だが、そもそも馬鹿というのはただの言語であって実態を伴っていない。

じゃあ別に坐禅をしなくても、普段の行為を言語化せずにおればいいじゃないかと思うかもしれないが、そもそも'"なにかをする"ということは必ず言語化を伴う。なにかをするということはそこに目的が生まれるわけで目的というのは作為であり言語だ。

しかし、坐禅というのはなにもしないことだ、なにもしないことであり目的は一切なしなのだから言語化は伴わない。つまり坐禅をしている最中は、実物に当たっているということになる。

そしてその実物に当たるという経験によって人間は満たされていくのではなかろうか。

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