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コミュニケーション・サークル【貨幣・言語・音楽】

貨幣とはなんでしょう。コミュニケーションツールの一種です。では他にコミュニケーションツールはあるのでしょうか。もちろんあります。

以下の論考は、二次元に表記し、目で読み、耳で聞くことのできるものを対象に行います。コミュニケーションツールとしては絵画や踊りもありますが、読み上げることが不可能ですから扱いません。限定的な考察です。

男性言葉と女性言葉

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お昼になりました。ご飯を食べましょう。

男性「メシを食おうか」
女性「お昼にしましょう」

概して男性は即物的に表現します。「昼食だ」「ヒルメシ食おう」、ひどい例だと「エサ食おう」とか言ったりします。

対して女性は婉曲に、対象そのものの表現を避けて言語化します。「お昼にゆきましょう」「お昼を取りましょう」「ランチしましょう」等々です。直接的な「食事」と「食べる」を出来るだけ言わないように、言葉を選択してゆきます。

つまり同じ日本語を話していても、男性と女性ではかなり言葉が違うのです。違うポイントは、即物的か婉曲的かです。という話が貨幣論となり、最終的に人類文化全体にゆきつきます。以下長いですがお付き合いください。

色々な言葉

「男性言語」以上に即物的な言語もあります。たとえば電化製品取扱説明書です。どの家庭でも一つや二つあります。読んでみてください。出来るだけニュアンスを無くすように、一義的になるように書いています。誤解を生んだ表現したら、間違った使い方して危険だからです。そんな即物言語のきわみが法律用語です。刑法148条見てみましょう。

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第1項:行使の目的で、通用する貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造した者は、無期又は3年以上の懲役に処する。
第2項:偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入した者も、前項と同様とする。

ガチガチに明快なのが法律です。明快ですが読みにくいですね。長時間読んでいると苦しくなってきます。情緒もへったくれもありません。

「女性言葉」以上に婉曲な言葉もあります。

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「逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」

「昔はものを思わなかった」と言っているのですが、趣旨はそれではありません。「今は物凄くものを思う。そして思う内容はあなたのことだ、つまりあなたのことを物凄く思っている」ということを言いたいがために、昔はものを思はざりけり、と言っているのです。わざわざ理解しにくくしています。文芸作品は大抵そうでして、「文芸的なもの」ほど意味が何重にも重なります。

言葉と音楽と数字

男性言語女性言語

以上見てきた言葉の分類、実は明快な境界線はありませんが、視覚化するとだいたいこんな感じになります。これらの外側に数字と音楽があります。

男性言語女性言語2

数字は法律以上に一義的です。1と1.1は別の数、1.1と1.11は別の数、1.11と1.111は別の数、、、と無限に続きますが、無限に別の数です。言葉は元来多義性がありまして、法律なんかは多義的な言葉を強引に出来るだけ一義的に使おうとするのですが、それは努力でするのであって、言葉自体はどこまでいっても多義的です。逆方向に、どこまで婉曲に語れるか、と考えますと文学以上に多義的なのは音楽です。歌詞がついていれば喜怒哀楽くらいははっきりするのですが、器楽曲になると明快な意味はなくなります。

「いや、明快な意味がある」と言い張りたい方にお勧めです。ブルックナーという作曲家の交響曲第九番です。長いです。1時間程度かかります。なにやら深遠なことを表現しようとしているのは感じられます。でも「深遠」の具体的内容については何度聞いても皆目わかりません。断言してもよいですが、作曲者も具体的内容はわかっていなかったと思います。はっきりわかるのは「自分は1時間拘束された」ということだけです

しかし内容が明快でないゆえの利点というのもあります。昔、小泉文夫という民族音楽の研究者が居まして、

坂本龍一の師匠のはずですが、台湾の首狩族の研究をしました。連中は首狩りに行く前に声を出して気持ちをあわせます。2パートに分かれて、高い音と低い音、4度音程(ドとファ)を長く伸ばします。じっくり時間をかけて、完全にハモってから首狩りにゆくと、気持ちがきっちり合わさっていますからチームとして結束が固く、沢山首を狩れる。

ではハモっていないのに焦って出撃するとどうなるか。足並みがそろわず、逆襲くらって沢山首を狩られてしまうのです。ことほどさように音楽も重要なコミュニケーションツールの一種でして、局面の予測がつかない場合の対応能力は、カチカチの法律よりもむしろ高いかもしれません。気分さえ統一すればよく、局面ごとにあれこれ分岐を考える手間がありませんから。

そして実は、音楽は数字で出来ています。4/4拍子、16分音符、5度音程、、すべて数字なのです。歌曲の歌詞の部分は数字ではありませんが、器楽曲は全て数字でできていますね。だから音楽の向こう側は数字、数字の向こう側は音楽です。

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横並びだった表が円になりました。女性言葉→文芸→音楽(歌)→器楽曲と、どんどん意味がなくなります。無義になります。一方で男性言葉→法律→数字と、どんどん一義的になります。両者は頂点で出会います。一義の極みが無義、無義の極みが一義です。面白いですね。「ゼロと無限大はお隣さん」みたいな話になります。これを「コミュニケーション・サークル」と呼びます。人間の二次元のコミュニケーションはこのサークル上で発展してゆきます。

度量衡、貨幣、暦

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音楽の話の続きですが、2/4拍子ならば2拍すれば小節線が来ます。小節線をまたぐと1拍目が再び始まります。こういう計算を「~を法とする計算」と言いまして、暦や時間などはこの計算方法です。1時間は60分を法とする計算です。61分は1時間+1分ですね。時計上の表示では、ただの1分になります。

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ですから、数字世界と音楽世界の境界には、暦と時間が来ます。暦法時法と呼んでおきます。音楽と暦法時法の境界線にあるのは、ジョン・ケージという作曲家の4分33秒という曲です。

曲なのですが、演奏しません。ピアノの蓋を閉じて4分33秒沈黙するだけです。全然楽しくありません。

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しかし音楽の本質の洞察という意味では優れています。音楽が音楽である限り逃れられない要素は特定時間の拘束です。ブルックナーでは内容理解にかかわらず、1時間の拘束でした。そのことを抉り出して表現しているという意味では、優れています。時間が8分50秒でも同じことです。仮に無音音楽と呼びます。

音楽の中でも歌曲と器楽曲の間に、ヴォカリーズ、スキャットが来ます。声を器楽的に使う曲です。歌詞はありません。でも器楽曲でもありません。

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スキャットのサンプルはこちら。先ほどの首狩族の4度音程もスキャットと言えます。

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法律と数字世界の境界も見てみましょう。こちらは度量衡が来ます。長さと体積と重さの単位です。法律は国家が決めるものですが、暦法時法も度量衡もたいてい国家が決めます。強大な権力で統一しないと、結局全体が不利益をこうむります。秦の始皇帝が代表です。

もっとも現在ではメートル法は国際機関が設定しています。暦もほぼ西暦一本です。。仏滅暦やイスラム暦なんか使っているところもありますが、日本のように元号使っているのはほかにありません。度量衡もアメリカがヤード・ポンド法使っています。地味に日本とアメリカは世界から孤立してるようです。

貨幣進化史・簿記

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ようやく貨幣の話にゆきつきました。数字でのコミュニケーションのうち、暦法時法と度量衡に挟まれた部分に貨幣が来ます。時間と空間に挟まれている、と理解してよいです。

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貨幣は最初は商品貨幣でした。米なら米を1升を単位として、この商品は米3升分、こちらは10升分と計算します。そのためには1升の量がだいたい決まっていないと使い物になりません。度量衡は商品を貨幣化するための前提なのです。

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しかし米でも数年でダメになります。持ちがよいのはなんといっても金属です。というわけで貨幣の主役はだんだん金属になりました。これですと腐りませんので安心です。薄い黄色の場所が一個上にきました。しかし金属貨幣も弱点があります。鉱山枯渇で増産ストップです。物の生産力は技術の発達につれて増えてゆきますから、本来カネが増えないとバランスしません。生産力が増えて貨幣が十分に増えないと、貨幣が希少になりすぎてデフレになるのです。最近のデフレで日本がどれほど国際的地位を落としたか想起ください。せっかくの生産能力が生殺しになるのですから、良くないに決まっています。

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だからデフレを避けるために、人類は紙幣を発明しました。最初は兌換紙幣でした。薄い黄色がまた一個上に来ました。金何グラムのかわりに、お札で何円という換算です。お札を銀行に持っていけば金と交換してくれました。

金の分だけお札を発行すると、見かけ上お金の量が2倍になります。しかしそれでもお金が足りない。生産能力が有り余る。金の2倍お金を発行します。見かけ上お金の量が3倍になります。しかしそれでもお金が足りない。生産能力に比例して、どんどん倍数が増えてゆきます。

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かくて最終的に不換紙幣になりました。金属の裏付けなし。ただの印刷した紙です。不安なようですが、発行元に信頼さえあれば大丈夫です。もうこれで鉱物の採掘を気にせず思う存分通貨を増やせます。薄い黄色の場所がまたひとつ上に。ここで発展終了でもよさそうなものですが、人間の進歩というのは止めようのないものです。紙でも流通速度が遅いと、もっと早く流通させたいと思うのです。流通が早いのと、流通するものが多いとは、実は同じ意味ですから。見かけ上の流通量が増加しますから。

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それで現在貨幣は、主に電子信号になっています。薄い黄色の場所がまたひとつ上に。振り込まれる給料も、差し引かれるカードローンも、なんのことはない電子信号です。電子信号自体は目に見えませんから、私たちはそれをWEB上の、あるいは印刷した帳簿で確認します。

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見てきたようにどんどん非現物化してゆくのが貨幣の歴史です。現物から離れてゆき、最終的に電子信号になりました。帳簿でしか確認できないものに進化しました。つまり貨幣の本質は帳簿なのです。それにそもそもこの「コミュニケーション・サークル論」では、二次元情報しか扱えませんから、コインは扱えません。説明のためだけにで記載しています。議論上では帳簿がお金だ、となります。ビットコインで使われているブロックチェーン技術などは、履歴がお金にひっついています。つまり帳簿を組み込んだお金です。大層進化しております。

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貨幣世界と暦法時法の間にあるのが利率です。利息は昔からあるもので、帳簿つける人間には昔から実在していますが、帳簿の習慣のない人間にはなにやらわかりにくいものです。最終的には経済は、金額ではなく利率だけを気にするようになります。MMTなんかが言っているのもそういうことでして、インフレ率とは利率ですから、進化といえば進化です。

サークル4

これら貨幣を逆の位置にある音楽と比べてみましょう。上に行くほど抽象的になります。歌曲は歌詞がありますから、言語と近いです。物品貨幣やコインもそうです。器楽曲は抽象的です。暦法時法に近いです。不換紙幣や電子信号もそうです。両者は暦法時法、つまり時間システムで出会います。

一覧表にしてみました。

音楽と貨幣

実際このように対応するかどうかわかりませんが、どうも兌換紙幣とスキャットが似ています。両者は非常に中途半端な存在です。実体と抽象の狭間にあります。

無音音楽と利息

同じように左右対応するのが、利率と無音音楽です。これもまとめてみました。縦横入れ替えています。

利率は単位時間あたりの利率のみが決まっています。期間は未定です。現場では期間と元本を当てはめて計算します。利率というのは「時間の密度」です。だって高金利の借り入れしたら濃密に働かなきゃ返せませんから。無音音楽は逆に、実際の時間の量のみが決まっています。時間の密度は未定です。この二つが暦法時法を挟んでいます。少々神秘的な雰囲気です。

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実は無音音楽を有益に使いこなせる人物過去に居ました。上杉謙信です。戦闘はじまるまえに、将兵に沈黙を義務付けていました。体を動かさず、一言も口を利かず、30分程度同一姿勢を保てと命じていたのです。先ほどの首狩族はスキャットでしたが、これはより徹底したバージョンですね。なるほど強かったはずです。首狩族以上に、全員の気持ちが揃ったはずです。

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もう一人無音音楽を使いこなせる人が居ます。宮崎駿です。ラピュタではこのシーンで無音になります。もののけのシシ神シーンも、風立ちぬでの菜穂子死去シーンもほとんど無音です。本当に音楽使いの上手い人です。音楽使いの腕が極限に達すると無音になるのです。観客全員が息を呑んで画面に釘付けになります。

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彼ら二人と対称の位置に、高利貸しが居ます。利率に超敏感な人たちです。ソロスさんなんかも似たようなキャラだろうと思います。憎まれることが多いですが、どの分野でも天才は居るものです。彼らが居なければ、謙信も宮崎駿も存在できません。対称の存在だからです。

「無音音楽」と「利率」の最大の対称な要素は、「信頼」です。上杉軍は沈黙の時間の共有によって、気持ちが合わさった。つまり他人同士が信頼しあった。「利率」世界の住民は、他人を信用しないことが仕事になります。そうしないとあっという間に破綻する。両者は信頼関係のあり方が対照的です。

魏志倭人伝

魏志倭人伝に「無文字唯刻木結縄」、つまり「文字はナシ、ただ木を刻み縄を結う」とあります。この結縄こそが原初の「帳簿」です。原始社会では貨幣がありません。リアルタイムでの決済が難しいです。物品での取引決済は、商品運搬の手間がありますから、高頻度でタイムラグを伴います。ですから一時的に貸し借りを記録する必要あります。無文字社会ではその記録が結縄だったと考えられます。

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雁(カリ)を一羽もらいました。おいしく頂きました。雁1羽の借りです(駄洒落です)。

借りを記憶するために仮に縄を一個結んでおきます(駄洒落です)。

返済するには、雁を狩りしなければいけません(駄洒落です)。

つかまえて返すと、縄を解きます。
この縄が2次元になると帳簿になります。

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文化人類学や、先ほど褒めたMMTなどでは、物々交換経済が貨幣経済に発展したことに否定的です。しかしどう見ても間違いです。学会というものはどうせ本気で学問してるのは20%でしょうから、間違った場合にズルズルいっちゃうのです。反論すると「ではその関係の論文全部に目を通したのか!」とか怒られる。そんなヒマは一般人はありませんから黙ってしまうのですが、間違いは間違いです。

昔、口の悪い人が「文化人類学はサル学の一種だ」と言っていました。「発展しなかった社会の研究は、我々発展した社会にとって、さしたる参照にならない」という意味です。たとえばインド洋のセンチネル族は、現代でも外部との接触を拒絶しています。

訪問すると矢を打ってきます。敵対的です。だから今日まで原始生活です。コミュニケーション不能ですから、進歩できない。では友好的な部族はどうなったか。コミュニケーションできますから進歩します。今日の我々になりました。そして進歩した我々が観察するところの未開部族の連中は、コミュニケーション能力が不足している種族です。我々の祖先とは違った特性を持つ種族です。

簡単に表現します。
「未開部族の観察からは物々交換経済の有意な発展可能性は観察されなかった!」「いやだから未開なんだ」

だいたい私の子供のころでも、お隣に塩やら酢やらを借りに行くことはありました。現物には現物で返しますから、物々交換です。ただしタイムラグがあります。「物々交換経済がリアルタイム決済」と考えるから間違えるのであろうと思います。タイムラグがあるから刻木結縄が必要なのです。

「それはごく少量の交換だ。物々交換ではやはり大規模交易は無理だ」と反論来そうです。貨幣もない時代にトラックやタンカーが開発されていたという誇大妄想は、おやめいただきたいと思います。

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今日でも神社にゆくと注連縄(しめなわ)があり、茅の輪くぐりがあります。神社の本質は「市」、交易所ですから納得ゆきますね。しかし結縄も弱点あります。日付がないのです。日付のある結縄もあるのかもしれませんが、詳細な記入はちょっと無理と思われます。

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しかし暦法時法の発達を背景にして、結縄はやがて大福帳に発展します。それがさらに発展して複式簿記になります。複式になってを資産状況をリアルタイム把握できるようになります。貨幣は度量衡と暦法時法に挟まれた存在です。「度量衡=資産状況」を、「暦法時法=リアルタイム」に把握できるのが帳簿です。空間と時間、両方の状況をできるだけ精度高く表現できるように発展していったのです。

旅人

実はリアルタイムの物々交換もあるにはありますが、おそらく旅人に限定されます。「わらしべ長者」という昔話があります。平安末期には書物に書かれていますから、それ以前の成立です。旅人のリアルタイム交易の話です。

無一文の男が藁にハエだからハチだか結び付けます。そのまま歩いてゆくと泣いている子供がいます。大泣きしているので大人もあやしきれません。そこで藁をあげると面白いので泣き止みます。お礼にミカンをもらいます。なおも歩いてゆくと喉が渇いて困っている人が居ます。ミカンをあげると渇きが収まります。御礼に反物をもらいます、、とだんだんと豊かになってゆく話です。

当時の人々が考えた「原初的な経済活動のありかた」を端的に表現できています。昔話の世界をより知りたい方はこちら。

わらしべ長者の交易では、貨幣は発生していません。リアルタイムの物々交換では貨幣は必要ないのです。貨幣は度量衡(物理的大きさ)と暦法時法(時間)に挟まれた存在ですので、リアルタイム物々交換のような時間が存在しない交易では出番が無い。タイムラグが貨幣発生の条件です

タイムラグ交易と、旅人限定のリアルタイム交易の中間地点にあるのが「富山の薬売り」です。薬売りは旅人です。薬箱を置いてゆきます。お金はもらいません。1年後再訪します。使った薬があったなら、その分だけお金を徴収して、使った薬は補充しておきます。そしてさらに1年後再訪します。

富山の薬売りを武器を持った怖い人に取り替えると、取税人になります。お代官様になるのです。同じように一年ごとに襲来しては、同じように取立て業務を遂行します。富山の薬売りは実に、国家の原初形態の残滓のような存在です。

支配者の条件

薬売りと代官様の、カバンの中身を想像してみましょう。いずれも住所、氏名、置いてきた薬箱の種類(ないし徴収すべき税金)、いつ回収すべきかの日付のデーターなどを持っています。ようするに、帳簿を持っています。それが良い悪いという議論は措いておいて、大体社会の支配者は帳簿を持っています。時々正式の支配者よりも良い帳簿を持っている商売人とか居ますが、その場合商売人が実力者で支配者は飾りです。モノと時間をよりよく管理できるのですから。

モノと時間の中間に貨幣があります。同時に帳簿があります。貨幣を使うものと、帳簿を使うもの、両者を分けるのは単純に、帳簿の知識です。知識があるものが支配者になり、ないものが貨幣だけの世界に生きます。今日ほとんどの人は未だ兌換紙幣の世界に生きています。通帳使いながら、頭の中は兌換紙幣で考えています。しかし帳簿は(発達程度によりますが)昔から利率を扱えるのです。

イギリスと日本で見る紙幣

日本で関が原の合戦が起きた1600年ころ、イギリスにはシェイクスピアが居ました。大衆演劇の名作を残しました。その後イギリスで経済革命が起きます。金匠手形(ゴールドスミス・ノート)というのが発生します。要は民間発行紙幣です。
解説はこちら。

だいたい1640年ごろとされています。シェイクスピアとゴールドスミス・ノートは勿論関係あります。コミュニケーション・サークルの一番下、言語の部分が人間の活動の根源です。言語活動が活性化すると、数字のほうもつられて活性化します。だいたい紙幣なんぞ紙に書いた数字と文字ですから、識字、言語の普及がなければ成立できません。


ほとんど同時期1610年に日本でも紙幣が発行されます。「山田羽書」と言いまして、伊勢の商人たちが発行したものです。つまり「伊勢商人」=「ゴールドスミス」です。

「伊勢屋、稲荷に犬のくそ」というフレーズがあったくらい、江戸は伊勢商人の跳梁跋扈する土地でした。三越も伊勢から江戸に出てきています。今流行りの「江戸を造った男」河村瑞賢も伊勢の出身です。家康も本能寺の変の後、伊賀を経由して伊勢から三河に逃げています。徳川の前の北条も、初代の早雲の旧名は「伊勢新九郎」です。江戸市民にとって伊勢参りは娯楽のひとつでした。江戸の本体は伊勢だったのではないでしょうか?貨幣の本体が帳簿であったように。

現地に行ってみるとわかるのですが、伊勢は塾というかカルチャースクールがやけに多い印象です。それでもって田畑が地形的にほとんどない。交易でメシを食うしかないから、知的に発展する。メシという言い方がきつければ、交易で生活するしかないから知的に発展する、と言ってもよいです。

のちに本居宣長を輩出した松坂も伊勢の近くです。彼の弟子の半数は武士、半数は平民でして、趣味で国学やる平民が大量に居たのです。そんな土地で本邦初の紙幣が発行されたのは、必然のなりゆきです。大きな神社があったおかげもあって、長い年月かけて知的に発展したのでしょう。古い神社の効用と言えます。

「もっと古い出雲大社はどうなんだ」となりますが、出雲から発生した知的な重要な要素が、「出雲の阿国」です。彼女がちょうど日本におけるシェイクスピアに該当します。年代もまったく同じ1600年ごろです。もっともその後歌舞伎が色々変更されまして、今では男性専用になりましたから、阿国の演じたものがどんな歌舞伎だったのかわからなくなっているのですが。

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「シェイクスピア→金匠手形」というセットと、「出雲の阿国→伊勢の山田羽書」というセットが、全く同時期に日本とイギリスで発生している。それほどまでに言語と貨幣は深い関係があります。音楽も関係あるのですが、こちらはやや反応が遅れます。イギリスの場合パーセルという作曲家が当時の代表ですが、彼の「シャコンヌ」が1680年作曲、数十年後ですね。順序としては通常言語の発展→貨幣の発展→音楽の発展となるようです。

年表

先ほどの帳簿と貨幣の話想起ください。言語世界では、作者シェイクスピアや、その台本を読める人間が支配者階級です。観客は読み上げているセリフを聞くだけ。帳簿のわからない、貨幣のみを使用している人々と同じですね。音楽の場合も、スコア(総譜)を書いたり読んだりできる人と、音を聞くだけの人。社会にはヒエラルキーがあるのです。ありますが基本である通常言語の使用が活性化すると、ゆくゆく数字(貨幣)や音楽の使用も活性化します。

「国語」の開発と国民国家システム

以上のことを考えますと、「国民国家」というシステムがなんのために存在していたか、だいたい見えてきます。国土の領域を区切り、内側の国民に「国語」を注入し、情報密度を上げる。密度が上がれば紙幣発行も可能になりまして、より経済的に豊かになれる。独自の国歌を共有して、一体感を味わえる。情報密度の向上が国民国家発生の目的です。逆に言います。言語情報が十分行き渡らない状況で、紙幣を発行しても上手く行きません。コミュニケーションの基本はあくまで通常言語です。基本がしっかりしていないのに応用をすればコケます。たとえばジョン・ローの事例です。

ルイ15世のフランスは、財政に困ったあげくスコットランド人のジョン・ローに経済政策を任せました。ジョン・ローはエコノミストとしては天才でした。少々天才過ぎたのです。金属貨幣から紙幣へとフランス経済を転換しようとしたのですが、当時のフランスの言語状況はそこまで識字率が上がっていませんし、国民を代表する文芸もまだ育っていません。南半分では「オック語」という、方言というより別の言語を話している始末です。そんな状況で全国統一の紙幣経済というのは、いくらなんでも早すぎました。今日我々は貴金属硬貨ではなく紙幣を使っていますからローの考え方は近代化としては正しい方向でしたが、手順が前後したのです。

日本の場合、江戸時代にほぼ国民国家の条件は備わっていました。行届いた基礎教育、紙幣の発行、発達した商業。しかしなにしろ国際的なイベントからは物理的距離の有り過ぎる国でしたので、のんびりしてしまって幕藩体制がそのまま存続しました。しかしペリー来航してすぐに近代国家に転換できたのは、江戸時代の知的充実があったからで、国民国家としての完成度は、おそらく世界最高でしょう。

ただ江戸中期でアラビア文字を導入できていればと思います。残念です。縦書き文化だったのでハードルが高かった。和算は物凄く発展しました。しかし使いにくい漢数字使っていたせいで、一般人にわかり易くならなかった。そこがおそらく西洋と大きな差がついた原因です。

長期的には漢数字のような不便な代物はどうしても打ち捨てられる傾向にあります。それが寂しいという人も居ますが、現に我々だけでなく西洋人もアフリカ人も、アラビア数字(という名の実態はインド数字らしいですが)をメインに使っています。ですからもはや抵抗できない状況です。諦めるよりほかありません。「漢数字が滅びるほどなら、やがて日本語も滅びるのではないか」と危機感を持たれる方も居るでしょう。しかし日本語は変容はしてゆきますが、滅びることは考えづらい。フォーマットにおける上位互換、下位互換という概念を導入すれば明らかです。

フォーマット

フォーマットの上位互換、下位互換は、音楽から考えるとわかりやすくなります。今日Youtubeで歌舞伎の音楽聴く人はそんなに居ません。忠臣蔵の筋くらいはだいたい知っていますが、歌舞伎の鑑賞自体お金持ち女性でないとあんまりしていないと思います。それはなぜか。音楽の敗北です。
伝統的邦楽はだいたい敗北しています。二年前近所の盆踊りを身に行きましたが、「恋するフォーチュンクッキー」で皆さん踊っていました。「カモンカモンベイビー」って、あれは本当に盆踊りなのでしょうか?ご先祖の霊に理解可能とも思えません。ボンジョビで踊りところもあるようです。

日本の伝統音楽は5音音楽です。西洋音楽は7音音階です。1オクターブに音が7音ある。5音音階と7音音階が戦うと、後者のほうが戦力豊富ですので必ず勝ちます。なんちゃら音頭はいずれは負ける運命なのです。実際西洋音楽の音階構造はすでに世界スタンダードになっています。しかし逆に言えば同じ7音音階で、かつ西洋音楽より音階構造が複雑ならば、生存競争に勝てるということです。

実はインドとイスラムは、7音音階で、かつ4分音、つまり半音の半分の音程を使いこなせます。つまりインド音楽とイスラム音楽は、西洋音楽の上位互換なのです。たとえば以下のビデオご覧ください。


主役二人の歌をお聞きください。自分の耳には自信がないのですが、明らかに半音より狭い音程を使いこなしています。蠱惑的です。ヘッドフォンでの大音量鑑賞をお勧めします。別に4分音さえ得心いただければ聞かなくてよいのですが。日本の「漢字かなまじり文」というのは、要はこれです。インド音楽です。世界の標準はフェニキュア文字の末裔のアルファベットで、簡単ですのでマスターしやすい。だから社会に広まる力は強い。日本のひらかなは別系統ですが、特徴はこれに相当します。一方で日本は漢字も使います。漢字は複雑でマスターしにくく、一般社会に広まる力が弱い。ですから伝統中国では識字率は非常に低かった。一部エリートのものだった。しかし一度マスターしてしまうと、漫画のようなものですので、ハイスピードに読めます。年齢と共に読むスピードが上がったりする。便利な部分もあるのです。

要するにいいところ両取りできているのですが、弱点もあります。フォント開発が難しいようです。漢字が字数が多いので、識字率が十分に高かった江戸時代でさえ、出版は手彫り木版印刷でした。だから出版点数ではいまひとつだった。漢字かなまじり文の難しさがそこの点に集まっているようです。以下のようなフォントの開発が、これからの日本の課題です。読む速度が大幅に違うようです。

現在日本人が活字を読むメディアは、紙ではなく、主にスマホとPCです。いずれも横書きです。となると文章にアルファベットは自然に組み込めます。となると時間と共に文章中の英語の頻度は増えてゆきます。しかし漢字とひらがなはそのまま残ります。英文の上位互換言語の完成です。上位互換である以上、どれほど英語が世界を席巻しても生き残れます。もしかしてカタカナだけは廃止の方向に行くかもしれませんけど。

いずれにせよコミュニケーション・サークルの下の部分、言語の充実という意味では、私たちは世界で有数の恵まれた状況にあります。この状況で「日本文化は滅びるのでは?」と心配するのは、貨幣の部分で「日本経済は破綻するのでは」と心配するのと同じくらい、無益にして有害です。

経典宗教

コミュニケーション・サークル考えてゆくと、文字を広めてゆくのが人類社会でもっとも重要なことであるという気がしてきます。気のせいではなくだいたい真実です。そして文字を広めてゆくことにもっとも貢献したのが経典宗教です

一般に経典宗教は救済のために存在していると言われています。言われていますが救済の実態についてはたいてい意味不明です。キリスト教はまだ「最後の審判」がありますので、審判に受かるために信仰するとなると納得ゆきますが、仏教の「解脱を目標とする」のは意味不明です。なぜって仏陀と直弟子以外は解脱できないんですもの。事態はひっくり返してみれば明快になります。経典宗教は救済のためにあるのではない。文字を広げるためにある。文字を広めるエサが「救済」であると。倒錯しているのですね。エサという言い方がきつすぎるなら、文字を広めるご褒美のお昼と言ってもよいです。

イスラム教も「文字を広めるために作られた」宗教ですね。ムハンマドはその気はなかったでしょうが、結果としてそうなりました。中近東の多様な言語、多様な文字を統合してひとつの世界にしたのは、イスラムです。ああいう教えに付随するものでなかったら、アラビア文字が中近東を統一することはなかったでしょう。私には理解する能力がないのですが、実際クルアーンを音読すると、その言葉の響きの美しさは、アラビア語話者にはたまらないものがあるそうです。つまり詩の魅力です。

「しかし、初期仏教では文字がなく、記憶に頼っていたはずだ」と言われそうです。確かにそうです。当時おそらくインドにはまともな文字はありません。仏陀の教えは詩の形で記憶され、伝承されていきました。「犀の角のようにただ一人歩め」みたいな。実際詩じゃないとなかなか覚えられません。耳の記憶力一本勝負ですから。しかしその後文字の広まりと共に仏教が広がる、という相互作用で拡大しまして、社会における便益としてはやはり文字を広めるものとして機能したと言ってよいです。仏教の守護者であるアショーカ王の作った碑文が、ほぼ最初のインドの文字資料となっています。

しかし幸福な相互作用の裏で刺客が成長しておりました。「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」などの物語のテキスト化です。仏教は思索は深いですが、物語性はほかの宗教と比較して弱い。ところで本屋に行って思想書と小説の冊数比較してみてください。まったく勝負になりませんね。人間の性質は思索より物語を求めます。思索に偏った仏教はやがてヒンズー教に征服されてゆくのです。

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最後に儒教ですが、これははなっから宗教的思索がありません。歴史教養と言語訓練で98%くらいです。残りの2%で若干宗教性がありますが。
儒教の中心経典は書経、別名尚書でして、これはショートショートな歴史物語です。ほかに春秋という事件の羅列のような面白くない書類がありまして、面白くないのでいろいろ注釈加えて物語化して味付けして楽しむシステムとっています。

伝統的にはさほど重要ではない書類とされていた「論語」ですが、20章構成なのですが、その中の「郷党第十」という1章のみ、若干ですが宗教的です。この章に細切肉を食べるべきとか、腐った肉は食うなとか、寝るときはゆったりした服を着ろとか、非常にゆるい衣食住の規定なのですが、他の宗教の食物禁止(仏教での肉食禁止とか、イスラムでの豚を食うなとか)や服装規定に相当するものが記載されている。ここの若干の身体的拘束と、尚書などの歴史物語性が、思索的にははるかに上にあった道教などを圧倒して、儒教が中国文明のスタンダードになった理由だろうと思います。ユダヤ=キリスト教のギリシャ諸宗教にたいする勝利、ヒンズー教の仏教にたいする勝利、儒教の道教に対する勝利、いずれも「思索性が低く、物語性が高い」のがポイントになっていますね。親しみやすく、広まりやすいほうが勝つのです。

以上まとめます。

1、社会の発展には文字の普及が必要である
2、文字の普及のための文章群を社会が必要とした
3、文章群は人を惹きつける魅力が必要だった
4、よってそれらの文章群には「かくかくをすれば素晴らしい状態に移行できる」と記されている

というのが社会のニーズから見た経典宗教の本質だろうと思われます。そして人々の識字率が十分上がった時点で、その役割を終えました。

経済の目的、閉じた世界

さらに論を進めます。経済の目的とはなんでしょうか。言語の目的とはなんでしょうか。あるいは人間存在の目的とはなんでしょうか。一般に「経済活動の目的は物質的、精神的に豊かさのためにある」とされます。これも倒錯した見方です。経済活動の目的はコミュニケーションそのものにあります。豊かさはエサです。エサという言い方がきつければ、ご褒美の昼食でもよいです。同様に言語の目的もコミュニケーションにあります。音楽も無論そうです。つまり人間の存在理由は、コミュニケーションにあります。物質的に豊かになるためにコミュニケーションがあるのではありません、コミュニケーションを拡充するために、物質というエサ、ないしご褒美の昼食があるのです。

なぜそうはっきり言えるか。人間は脳で考えます。人の考えを変えようとした場合、実は解説も説得も必要ありません。大きなハンマーで頭を強く打ちますと、以前の考えを放棄してくれます。正確には考える能力そのものを失います。もちろん良い子はそんなことをやってはいけないのですが、とにかく本人が考えていると思っていることは、脳が考えているのです。

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ところで脳はニューロンの集合です。情報の発信と受信能力のある細胞が集まったものです。つまり脳自体が内部でコミュニケーションを繰り返しています。そのような器官が物事を観察し、考察し、最終的に導き出す結論は、必ずコミュニケーションです。「我々は何の為に存在しているか」という問いに対して、脳という器官は「コミュニケーションのために存在している」としか答えられないのです。脳は内部でコミュニケーションを繰り返す器官ですから。つまり我々は、コミュニケーションという意味において閉じているのです。コミュニケーション・サークルも閉じた円です。

と書きますと、一部の人は「そんな馬鹿な理屈」と眉をひそめますが、一部の人は「ハハハ、そうかもな」と鷹揚に笑います。後者は体に仏教が染みたタイプの日本人です。上記考察は仏教の考え方に近いのです。仏教は元来唯心論です。

上限値の向こう側

やや哲学的な話になってしまいました。簡単にまとめます。人間の存在目的はコミュニケーションをひたすら拡大することです。そのためにコミュニケーション・サークルを充実させてゆく、その一環として貨幣の発展があります。では発展の上限値はあるのでしょうか?貨幣では考えにくいので、言語と音楽で考えて見ましょう。

今日ではYoutubeが音楽鑑賞の主流だと思われます。タダで無制限に聞けます。アップロードされた音楽はエンドレスに増え続ける。となると上限値を決定するのは聞く側の時間です。
人類全体が1日8時間程度Youtubeを流しっぱなしにして音楽聴くと、ほぼ上限値といってよいでしょう。それ以上音楽情報が流通するのはちょっと難しい。つまり量的には明快に上限が決定されまして、これが人類の音楽コミュニケーション能力の現状の限界値です。それ以上になるには、質的向上、つまり多くの人が音楽の発信者にならなければならないのですが、正直ハードル高いでしょう。現在は量的にそこまで行っていませんから。

言語も同じように判定できます。読者の利用時間がMAXに達すれば、量的な拡大は終了です。江戸時代に二宮金次郎というキャラが居ました。勉強熱心で外を歩いているときも本を読んでいました。だから明治以降、偉人と認定されてその姿が銅像になって全国の学校に広がりました。しかし、今となってはザコキャラです。

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鉄道のホーム行ってみてください。ほぼ全員がスマホで文字を読んでいます。電車の待ち時間でさえ活字を読んでいる。時々熱心になりすぎてホームに転落、そのまま電車に轢かれる人も居るくらいですから、二宮金次郎なんぞもはや軟弱。寝る前も読み、朝飯食いながら読み、朝ホームで読み、会社で上司の目を盗んで読み、狂ったように活字漬けです。つまり音楽と異なり、日本社会での普通言語の量的な拡充はそろそろ限界値と判断できます。

となると質の向上が求められるのですが、これも順調です。言語の質の向上の最短距離は気に入ったテキスト購読と自分なりの文章作成ですが、SNSで多くの日本人が慢性的に取り組んでいる状態になりました。これはおいおい結果が出るでしょう。つまり、想像できないほどのハイグレードな社会の誕生です。

では貨幣はどうなるでしょう。

貨幣は物理的要素を消失しながら、その正体である帳簿に近づいていっています。依然多くの人は、貨幣を物理的存在と思い、思うからこそ財政危機のデマに踊らされています。悪いことに中央銀行の紙幣発行のシステムも、依然金本位制の制度を引きずっているそうです。この件知識がありませんので、はっきりと言えませんが、制度の再設計必要かと思います。

今後少しずつ、貨幣や帳簿、経済についての一般の知識は充実してゆくだろうと思います。コミュニケーションサークルの言語が充実してゆくのに、数字、貨幣が充実してゆかないということは、ありえないことだからです。SNSで多くの人が大量に文章を作成しているということは、多くの人がシェイクスピアの立場、出雲の阿国の立場に立っているということです。いずれ、貨幣、帳簿についても、多くの人がその立場に立つでしょう。音楽のスコアを多くの人が見るのは最後になるでしょう。

男女と時間

サークル7

このサークルは、一番下に男性言語、女性言語があり、一番上に暦法時法があります。私たち人間は、残念ながら限界のある存在です。一定時間しか生きられない。時の流れに逆らえない。その中で、よりよくより充実した時間の為に、このサークルの内容は充実してゆきます。変えられない一点、時間のギリギリ直前まで、コミュニケーションを濃密にしてゆくのです。充実の歩みが止まった時は、それすなわち人類という種族の黄昏の時となります。

言いたかったことは以上ですが、コミュニケーション・サークルの観点から、いくつか実際応用への提言を掲載しておきます。

1、貨幣の量は大量に増やさなければならない。多くの人が寝てもさめてもスマホで活字を読む時代になったからである。

2、次のステップは確実に帳簿的知識の充実になる。義務教育で取り組むべきである。少量でもよいから小学3年生時から社会科の時間に組み込むのが妥当。

3、日本語最大の弱点は、フォントにある。横書きでアルファベットに親和的なフォント開発に金を惜しむべきではない。

4、独自言語を発展させ、独自通貨を流通させることを志すならば、日本は元号制度を維持すべきである。

5、歌舞伎、文楽などをどうしても保存したいならば、音楽を西洋音階に書き換えるべきである。そこまでする意味はないと考えるが。

6、SNSの発展によってナショナリズムの時代になったが、ナショナリズムが実行可能な国、独自の文芸を大量に持つ国は実はそんなに多くない。日本は極端に恵まれている。つまり恵まれてるがゆえに妬まれる立場にある。自覚すべきである





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