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物語構成読み解き物語・21

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「人間失格」が「天皇の人間宣言」に対応しているという説が、なかなか広がらない。

読み解きとしてはかなり簡単で難易度が低い方である。作家とか研究者でも気づいている人は多いはずだし、気づかなくても一度聞けば、文学好きならだいたいの人が簡単に理解できるのではないか。

大庭葉蔵=天皇ということを認めることと、11/3のアメリカ大統領選挙=不正選挙ということを認めることは、だいたい同じことと思う。大規模な選挙不正があったことは明らかなのに、一部の人々は頑なに認めようとしない。それによって暴力を振るわれるのならば仕方がない。でも明らかにそうでない人々も認めていない。なんなんだろう。証拠不十分とでも言う気か。しかし不十分な証拠では物を言えないなら、人文系で発言できることなんてなんにもなくなる。より精度の高い証拠を探すことは出来るが、完全な証拠は人間には収集不能である。政治学者も経済学者と同レベルだったのである。近代史屈指の大事件に対して、なんにも反応できない。存在意義ゼロである。

自分の読み解きの原動力のひとつに、経済学者への怒りが元来ある。景況悪化しているのに悪化していないと言い張る。あるいはさらなる増税を提言する。財政破綻寸前だと煽る。そんな緊縮派、増税派はたいてい日本語がまずい。対してツイッター上で面白いことを言っている経済クラスタの人々は、経済知識以前に文章が上手い。本人たちはしっかり勉強したから自分は分かるのだと主張するが、実態は文章が上手→思考がスムーズ→正しい経済理解、という順序なのだろう。だって増税経済学者も勉強は十分しているのである。でもまともな思考能力を喪失している。正しい文章の感覚がないから、いくら勉強しても身にならないのである。
そして悪いことに思考能力の喪失は政治学者も共通だったようだ。今回の大統領選挙への反応でそれが明らかになった。それはそうだろう、言葉を最も集中的に扱う文学分野が、読解にたいして興味がなかったのだから。法学部は知らないが、大学の文系ほぼまるごと文学部から流れ出た毒に汚染されているのではないか。

話戻して、大統領選と違って大庭葉蔵=天皇のほうは、こう言ってはなんだがたかが小説である。一応売れた小説だが、70年以上前の作品である。我々の生活に直接かかわる可能性は、まったくない。しかも難易度が低い。ある程度文学読んでいれば、絶対に理解できるはずなのである。おそらく読んだ人々に十分理解はしてもらえているが、なぜか認めたくないというか、話題にしたくはないのだろうと思う。ではなぜそこまで話題にしたくないか。肝心のところは未だに全部ナゾである。ゴロゴリ左翼の人が嫌うのはよくわかる。天皇擁護だからである。しかし保守でも無視する。さっぱりわからない。わからなすぎて恐怖に感じる時がある。

この恐怖もまた、私自身が読み解きをしている原動力ではある。どうも昔から言語が他人様と違うのである。明快に意見を主張すると発言がきつすぎると怒られる。ソフトに言うと何言っているかわからないと怒られる。国語の授業は中学生のころから、大幅に間違っていると思っていた。間違っているのだが一応点を取るために妥協して「多分これを正解としたいのだろうな」と類推して答えを書いていた。そのころから違和感は十分にあったのだが、年とともに違和感嵩じて恐怖感に変わってきた。日本語話者で、日本語しかできなくて、日本に住んで、他の誰とも隔絶された言語環境に居ると感じることが多いと、恐怖感が段々増大してゆく。恐怖感に押しつぶされそうになる。

ところが読み解きを発表すると、ほんの少しだが自分の正当性を主張することが出来る。恐怖感は若干減少する。今数十個の読み解きを公表している。たいして読まれているわけではないが、自分の精神は随分安定した。読み解き続けている限り、自分の生存圏が少しずつ広がってくる感じがある。おそらく天才作家たちも程度こそ違えこんな気持だったのだろう。思想家とか作家、詩人など、有ってもなくても良い文章を大汗かいて生産している人々はみな、どこか恐怖から逃れようとしているように、私には思える。自分という存在なり世界なりが不安で不安で、恐怖から逃れようと別世界を創作しているのではないか。ヤマアラシの針、スカンクの屁、レッサーパンダの直立ポーズが、文豪にとっての作品なのではないか。少なくとも自分にとっても読み解きはその傾向がある。
そういう恐怖感が非常に強かったのが、太宰である。簡単に絶望して簡単に自殺をする。しかし怖いので刃物は使わない。

1928年12月10日 カルモチン自殺未遂
1930年11月28日 田部シメ子とカルモチン自殺未遂、田部は死亡
1935年3月18日 首吊り自殺未遂
1937年3月下旬 小山初代とカルモチン自殺未遂
1848年6月13日 山崎富栄と入水自殺

注意すべきは、太宰の最初の自殺未遂はカルモチンであり、助かっている点である。つまりカルモチンを飲んでも助かるという自覚がおそらく太宰にあった。田部と、あるいは小山とカルモチンを飲むとき、太宰は考えたはずである。
「多分両方死ぬだろうが、どっちか一人が助かるとしたら、絶対俺だろうな」と。
親族の方も居られるから書きにくいが、太宰の本質は連続殺人犯ではないか。自殺しているようで、本当は他殺をしたいのではないか。エロスが強すぎてタナトスに引かれすぎる。外見はひ弱なのだが内実は生命力過剰なのである。人格としては褒められたものではない。しかしそういうヤバい人間だからこそ、敗戦で打ちひしがれている日本に貴重な作品を残せた。戦場では超人的な働きをする人に限って、平和になると周りのお荷物になると言うが、太宰はまさにそれである。最高のタイミングで生まれてきて執筆活動をした。死んだのもまた最高のタイミングである。

翻って考えれば、読み解き程度で安心できる自分のスケールの小ささが、情けなくもあるが、また幸福でもある。さらに言えば、現在の経済学者、政治学者の愚劣さは、連中の言語能力の低さに支えられているもので、もしも彼らが太宰的な文章能力を身につけると、洞察能力は爆発的に上昇するが、小市民としての生活上の問題は大きくなりすぎるだろう。文章能力は低すぎると問題だが、高ければいいってものでもなさそうである。なかなか難しい。

安定しきった小市民に歴史の大変革や国家財政が分かるはずがない。でも太宰のドロドロ人生も送りたくない。つまり私は、経済学者および政治学者と、太宰治との中間地点に居るようである。中途半端な自分に嫌気はさすが、だからといってどちらかに振り切れたい気持ちは全くない。


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