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漱石作品と志賀直哉「暗夜行路」

志賀直哉の「暗夜行路」は、

漱石作品のうち、

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それから(1909)門(1910)彼岸過迄(1912)行人(1913)を下敷きにしている。志賀直哉は1914年から書き始めて、結局1937年までかかった。

内容は

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直近の「行人」の影響が最も強い。「彼岸過迄」および「行人」は漱石作品でも最下層に位置する失敗作である。志賀は漱石の弟子だけあってよく内容を理解し、きれいにブラッシュアップして作品にした。「暗夜行路」の完成に20年以上かかったのは、下敷きの完成度が低すぎたからであろう。日本近代文学は西洋文化の輸入作業の一環だったが、輸入しているうちに日本社会と西洋社会の不整合に気づき始める。不整合のひとつ(かつおそらく最大のもの)として「行人」で示されたのは、

1、日本はどうもやけに女性が強い社会である。
2、日本はどうも女性の貞操観念が甘い。
3、一方で可哀想な女性が多いのも事実である。男性が悪い。

という、当時としてはかなり大胆な見識である。今日の知識では、なるほど鋭い観察であったと素直に納得できる。しかし当時の漱石信奉者たちは意味がわからず「近代人の苦悩を描いた」で処理してしまった。「行人」も、後継作品の「暗夜行路」もである。例えば戦国時代のイエズス会資料には、「日本人女性は離婚しても名誉を失わない」とある。逆に言えば当時の西洋社会では離婚は女性にとってかなりハイリスクな行為であった。西洋と日本では男女関係が大きく相違していたのである。男女関係が大きく違うのに、恋愛ドラマ単純移入してもしかたがないではないか。そのことに当時気がつく漱石も素晴らしいが、さらに発展させて完成度の高い作品にした志賀直哉も優秀だ。彼らはなるほど感情的なキャラであるには違いないが、作品を自分の感情で埋め尽くすような泣き言専門家ではない。彼らが興味があるのはあくまで社会、日本社会および人類社会である。社会派なのである。

評論あるいは読解として「暗夜行路」の内容を説明できた文章は、拙稿以外に見たことがない。自慢ではない。パチパチとキーボード上の肉体労働をして、章立て表、登場人物一覧表を作成した結果である。構成読み解きすれば(時間と手間はかかっても)読解できるのが当たり前なのである。

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わかりやすく仕上げられた「暗夜行路」が読解できていなかった以上、はるかに難解な「行人」は、誰もなにも理解できていなかったことになる。夏目漱石の鋭い洞察力は、後継作品「暗夜行路」ともども「近代人の苦悩」と名付けられたゴミ箱に投げ捨てられてしまった。具体的な苦悩の内容は考えずじまいである。ここで漱石研究者を悪く言う気はない。実は漱石研究は、他の日本近代文学研究、あるいは海外文学研究と比べても、かなり進んでいる。

などは素晴らしい。日本近代文学全般の研究はかなりこころもとない状況だが、漱石研究だけに限ればロシア文学より上、文学研究の最高レベルに到達していると思われる。

「三四郎」で紹介した千種キムラ・スティーブンも素晴らしい。

彼らは気が遠くなるほどネチネチと本文を漁ってゆき、長い時間かけて作品を掘り込んでゆく。最終結論は私と違うのだが、態度は尊敬せざるをえない。
構成読み解きやるようになって数年間、色々評論解説のたぐいを読んでいたが、うんざりすることが多かった。評論家、学者は天才作家たちの能力値が自分以下と信じ込んでいる。だから作家が長い時間かけて書いた作品を、数回パラパラ読むだけで十分読めた気になる。どだい無茶である。しかし漱石研究家は流石に違った。まず漱石を尊敬できている。尊敬しすぎて不都合が少々発生しているのだが、尊敬心があるから根気よく読み込める。根気よく読めればなんやかんやいって、それなりの地点に到達してしまう。

一方で、吉本、柄谷、蓮見などの、まるでなにも実体がない漱石評論もある。一般の人々の目に触れるのは間違いなくそちらだろう。残念なことである。彼らの活動自体を否定する気はない。ただ実際にガッツリ読むという態度において、石原・小森・千種ににはるかに及ばないというだけである。ろくに理解もできていない作品を俎上にして延々とそれなりに面白い評論書けるのだから、連中の文章力は認めざるをえない。言い換えれば彼らのは作品の評論でも読解でもなく、それ自身独立した小説である。現代文の教科書としては、当て字満載の夏目漱石よりも良い教材だろう、嫌なことに。文学はどうしてもファッション的な要素があるものだから、彼らが市場で必要とされる理由もよくわかる。ただ夏目漱石の作品の理解とは関係ない。

と石原・小森を褒めておいて落とすのだが、実際に章立て表を作成してネチネチ読んでゆくと、彼らの読みでさえ不十分であることが明らかになる。上記「漱石激読」のamazonの紹介より目次を見てみよう。

III 前期三部作を激読する

第七章 『三四郎』――「ダブル」の魅惑
第八章 『それから』――無意識は隠せない
第九章 『門』――これでは悟れるわけがない

IV 後期三部作を激読する

第十章 『彼岸過迄』――心の探偵小説
第十一章 『行人』――女も男を読んでいる
第十二章 『こころ』――やっぱり、日本近代文学の頂点

残念ながらタイトル見ただけで読めていないことがわかる。良いところまでは確実に来ているが。以下「漱石激読」読んだ時気付いた、重要な間違いポイントのみ指摘する。

「それから」:「ニーベルングの指環作品群」と気付いていない。
「門」:最後のセリフのニュアンスを真逆に取りちがえている。主人公は少し悟れている。時間物語と理解できていない。禅語も洞察していない。
「彼岸過迄」:「軍産複合体」ということは理解できている。しかし松本一族の裏設定が洞察できていない。また田川の言うことを信用しすぎている。
「行人」:「サルカニ合戦」が読めていない。

ちなみに『三四郎』――「ダブル」の魅惑というのは、非常によい読みである。「こころ」は未解読だからコメント不能。それから~行人がまずいだけである。ただし、それから~行人が読めてない責任は、公平に言って学者20%、作者80%である。特に「彼岸過迄」と「行人」はなんぼなんでも出来が悪すぎる。読めたもんじゃない。この二作品に限り夏目漱石は二流作家である。加えて「それから」も知識がなければ読めない不親切さだし、「門」も一般読者に禅を考えろというのは無茶だ。という問題作品群に今回集中的に取り組んだが、「暗夜行路」先にやっておいたおかげでなんとか読解はできていると思う。ご批評を待つ。


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