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漱石に「ヒャッハー」なし

漱石に「ヒャッハー」なし

先日夏目漱石の「門」の読み解きをした。

一応漱石研究いくつも目を通した。いずれも最後の言葉「またじき冬になるよ」のニュアンスを取り違えている。ネガティブにとらえている。このセリフをネガティブにとらえてしまう人は、おそらく「ああ、春だな、嬉しい」くらい言って宗助が喜ばないと、ポジティブとは感じられないのだろう。それは今日の感覚である。

昔の日本人は威儀を重んじる。特に男性はそんなに軽薄に喜ばないのである。感情を表に出しすぎたら負けなのである。日本海海戦終了後の東郷平八郎のごとく、大勝利にも喜ばず、全く同じ表情のままというのが男子の理想であった。よって漱石自身、(時々炸裂していたにせよ)基本的には喜怒哀楽をあまり表さないことをよしとしていたし、小説の登場人物はさのみ喜怒哀楽を表さない。
ところが今日の我々は、ドストエフスキーも筒井康隆も普通に読むものだから、感情の起伏の少ない地味な表現を見るとネガティブなのであろうと思いこんでしまう。よって意味を取り違えて、全体の解釈が上手くゆかなくなる。

同様の経験を、「城の崎にて」でもした。

これも研究者は「ポジティブなだけではない作品」と捉えてしまうようだ。漱石以上に体面にこだわる人物、鎌倉武士の化石のような志賀直哉が、「ヒャッハー」と喜ぶはずがない。病気にならずに済んだだけで、内心本当はヒャッハーである。万々歳である。でも絶対に表面には出さない。軽薄な感情を出すと舐められる。舐められたら終わりだ(と彼は考える)。だから喜ぶ姿は書かない。

このあたり難しい問題であって、同じ日本人だから、「今日の我々と同じ行動様式」と思い込んで作品を読むと、大きく意味を外してしまう。確かに現代文で書かれている。しかし書いている人は現代人ではない。現代文を開発した人間である。現代文を開発した人間は現代人ではない。プレ現代人なのである。だから私達の感覚があてにならない。

紫式部と現代人の感覚が同一とは誰も最初から思わないから、平安女流文学ならかえって間違いにくい。漱石は中途半端なのである。のちの太宰や三島だと流石にこういう間違いは発生しづらい。しかし漱石、滋賀の世代は要注意である。封建時代に片足突っ込んでいる連中である。

禅問答に正解なし

「門」にもあったが、「草枕」でも禅問答的な部分があった。

「あの松の影をごらん」
「きれいですな」
「ただきれいかな」
「ええ」
「きれいな上に、風が吹いても苦にしない」

そして研究者は、「草枕」でも「門」でも、自分なりの解釈を書き入れていない。ところが両作とも禅問答が作品の核心なのである。となるとそこを欠落させては作品の読み解きが成立しない。つまり、研究者の既存の読み解きは読み解きになっていない。

気持ちは、わかる、よくわかる。どう解釈しても、(なにしろ禅問答、なんとでも解釈できるから)、「それは不正解である」と言われそうである。実際禅寺では言うようだ。真面目に考えるのが無駄に思える。
しかし、それでも一応作品の核心なのである。解釈しないことには作品の読解がそこで止まる。それに漱石と禅とは切っても来れない関係である。「F+f」とかは後付理屈で、思索の根源には仏教と漢籍がある。これまた今日の我々とは違う世界に生きる人であって、完璧には再現し難い。しかし使うて減るもんじゃなし、ちょっとは頭をひねってみたらどうか。考えずに漱石研究というのは、無理がないか。
どうせ正解がない世界である。ぎょうさん仮説を立てればよいのである。仮説はほとんど無駄になる。しかし「選択と集中」がどれほど有害か、皆様得心されていると思う。無駄に仮説を立てるのが、思考の第一歩である。

「草枕」も「門」も、私なりに一応の解釈は示したが、特に自信はない。なにしろ座禅なんかしたことがない。もっと深遠な解釈もありそうである。でも考えつかない。しかたがないからこれでよしとしている。妥協である。しかしなんにも解釈を示さずに「解説」とうたうよりはマシと思っている。


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