漱石徒然草・4
前回はこちら。
今までの論述でお気づきになられた方もいらっしゃると思うが、研究者は「野分」「門」「彼岸過迄」全て同じパターンで読解を間違えている。
単体ではポジティブにもネガティブにもとれる文章があるとする。文学なのであって当然である。どちらに読むかの結論は全体の構成から導き出される。ところが研究者はまずもって文章を全て逆に読み、その解釈をフィックスして全体の構成を考える。よって全体が見えなくなる。ワンパターンな間違いなのである。
研究者は「野分」はラストの白井の借金問題解決をポジティブにとらえている。しかし借金問題解決と同時に、高柳君に死の危険が迫っているのである。つまり借金は解決しているが、白井にとっても高柳にとってもネガティブなラストなのである。
次に「門」のラストを見てみよう。
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御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。
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これを、「問題が解決していない」と解釈している。作品全体を読まずに、この文章だけで判断せよというならば、それで間違いとは断定できない。昔読んだときには、私もそう判断していた。しかし全体を見ればはっきり間違いである。冒頭を見てみよう。会話の一部分抜き出す。
「御米、近来の近の字はどう書いたっけね」
「近江のおうの字じゃなくって」
「その近江のおうの字が分らないんだ。
この間も今日の今の字で大変迷った。」
この冒頭を参照すれば、「うん、しかしまたじき冬になるよ」の意味は明らかである。近、今を気にしすぎて字がわからなくなった宗助が、春が来た瞬間に軽率に喜ばず、また冬が来るだろうと達観できている。「うん、しかしまたじき冬になるよ」はポジティブな言葉なのである。研究者は真逆に理解している。
さらに前回の「彼岸過迄」想起いただきたい。
「敬太郎に須永という友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が大嫌で、法律を修めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義の男であった。少くとも敬太郎にはそう見えた。」
そして研究者は(文学の専門家とは思えないくらい単純に、かつ幼稚に)須永を退嬰主義と理解する。真逆である。敬太郎が不見識なのである。しかし一度誤解した文言を修正解釈できず、結果として全体構成の理解が破綻する。
以上三作品いずれも、両義的な文章を真逆に理解して、真逆の理解を起点に全体を解読しようとして脱出できなくなっている。どん詰まりである。
脱出するには表を作成するのが一番早いのだが、もうどうしても表を作りたくない、死んでも肉体労働だけはしたくない、断固として脳みそ一本で勝負したいというのならば、まずは言語の多義性を理解するべきだ。
絶望に崩れ落ちてもかならずしもネガティブではない。喜びを爆発させていても必ずしもポジティブではない。「そんなことは今初めて聞いた。教えられていない」と文句が聞こえてきそうだ。そうでしょうね。教育の不行き届きなことである。
昔の意地悪姑が嫁に、「まあ、今日はいつもの元気がないのね、心配だわ」と言うと、「いつもは騒々しくて嫌だ。これからそれでゆけ」という意味である。言語には多義性がある。意味は文脈の中でしか取れない。
では作品内のフレーズの意味を取ろうとする場合、どうすればよいか。全体の文脈を把握するより手段がない。全体文脈把握とは全記憶ではなく、全体構成の把握である。だから章立て表を作るのである。章立て表を作ると、作品内の特に多義的な言語の使用が、糸をほぐすように明快になる。
例として
参照いただきたい。
「静」→「動」→「静動一如」のロジックの流れを把握することによりはじめて、風に止まる小枝の意味が明快になる。明快な意味を導き出せなかった志賀直哉研究者たちが頭が悪いのか。そうではない。物事の整理方法を知らなかっただけであり、読解の方法論を持っていなかっただけである。章立て表を作ればどうということはない。
「章立て表」「登場人物一覧表」は、道具発展史で言えば打製石器レベルの原始的なものである。それでさえ、徒手空拳にくらべればかなりマシであり、効率的に読解できるようになる。
「読解の方法論」について真面目に考えるべきである。ここでは悪口ばっかり言っているが、蓮實重彦の「表層批評」は着眼点としては悪くはない。まずは対句を取る、などの基本的な作業を理解している。ただし本人のような視覚記憶能力を全員が持っているならば、だが。実際には才能のない人間も居るわけで、私もないのだが、そういう人間はとりあえず章立て表作るべきだ。作ってみれば一目瞭然、記憶の良い蓮實重彦も所詮は徒手空拳であると理解できる。章立て表から見れば彼の表層のすくい方も単なるザルなのである。人間の記憶なんてその程度である。
文学理論は読解効率について考慮されていない。優劣への評価がないからブラッシュアップもない。全てが空理空論である。まず目の前の作品をどうすれば徹底的に読めるようになるのか、そこから全てを考え直すべきである。作品にたいして説得的な解釈を、効率よく提示できるならばそれは優れた文学理論である。いくら勉強しても作品の中身を読解できないならば、その文学理論は使えない道具である。
次回に続く。
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