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漱石とコンラッド

漱石のメモからコンラッド関係の部分。図書館で借りてきて調べた。

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「斷片 明治三十八年十一月頃から明治三十九年夏頃まで」

意志の文学・Typhoon参考

1)and danced with the daffodils
2)Imitiation
3)Throught-reading

○Wn Archer : Anatomy of Acting 中にactorのactスル件genuine feelingを生ずる を引きけり(2)Imitiationの例なり

Typhoon. 寡黙にしてhumourなき船長が航海中暴風雨に逢う有様をかく。暴風雨中に船室内にてChinese cooliesが自分の賃金を床に落として互に争って奪い合う。非常に豪壮なものなり

To-morrow. 16年間息子の行き方が知れぬ、父は広告をしてさがす。明日帰る明日帰るという、遂に息子が帰ると真の息子と思はない矢張り明日帰ると言うて居る。息子はちっとも気にしない漂流物である。親の膝元にも二週間とは居れない女をLoveしても二週間とは続かない、頗る小説中に出てきそうもなき男である。それだから親父が自己をrecogniseしないのですぐに帰ってしまう、然し金がないそこでそこに居るBassieという女から金を貰って帰る。Bassieは此おやじが息子に娶せる積りの女である。此の女はおやじと夫から自分の盲目のおやじの大声をあげて罵る父とよりほかに男を見ないから、Harry(息子)としばらく話しているうちに多少其人を恋ふ様になるそれにもかかわらず息子は去る。おやじは厄介者を逐っ拂ったと言う。女ばかり妙な心地する。

Conrad

Youth. 船火事の話
Heart of Darkness. 蕃地へ行った船長の物語り。Indianに襲われたり抔する、そこにKurtzと云う人が居る。エライ男である病気で死ぬ、船長が遺書を携えて其の恋人を訪ふ。夕暮の景色、恋人の愁嘆をよくかいて御仕舞。
The End of the Tether. 老船長が娘(遠方に居る)の家計をたすける為に自分の船を売って雇われて他の船長となる。同時に目がわるくなる。然し娘の為に眼が見えるふりをして居る。30度以上航海をした所を渡るのだから大抵見当がつく。又Malay人の心ききたる者を使って之を信用して勤めて行く。所が船の持主が借金に困って船を浅瀬へ乗りあげて沈没させて保険金をとらうとする。自分の上衣に鉄を入れてcompassをくるはして船長の思う様に船が向かはない遂に暗礁に乗りあげる、船長は船と沈む他はboatでのがれる。船長の手紙が娘にとどく。死んだら届けてくれと頼んだのをlawyerが届ける娘は下宿屋をして貧乏して居る。此手紙を見て非常に感ずる所で御仕舞。

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原文のカタカナをひらかなに修正した。実際読んでいる証拠になる。漱石の知識ではアフリカ原住民もIndianになってしまう。To-morrow. は読んでいないが他は読んだ。

Typhoonは経済小説である。嵐の中で船室の苦力のお金が床に散らばり大騒動になる。誰のお金かわからなくなる。最終的に船長は均分して全員に分配するという大岡裁きを見せる。つまり、戦争経済では社会主義的になる、という意味である。

The End of the Tether(万策尽きて)も経済小説。かつてblogに書いた。

コンラッドを鑑賞できている以上、漱石は経済にたいして興味が十分あり、十分思索もした。その割には幸田露伴に比べると見識は落ちる。紙幣の本質がさほどわかっていない。露伴が優れすぎているだけかもしれないが。

メモの明治39年だと猫、坊っちゃん、草枕、二百十日までである。以降の作品は影響受けている可能性がある。二百十日や坑夫をコンラッド「闇の奥」の影響と見ることは不可能ではないが、虞美人草の金時計の赤い宝石、および三四郎の「偉大なる暗闇」のほうがより「闇の奥」らしいと思う。いずれにせよ現代日本人は漱石の内容も十分読み取らず、コンラッドの内容も十分には読み解けていないのだから、なんのことはない五里霧中の状況である。漱石はコンラッドと同じく、社会と経済という問題を十分考えた。もしも漱石を「近代人の自我を描いた作家」とするならば、すなわち近代社会への理解がなければならず、近代社会とはすなわち資本主義社会であるから、経済への理解なくして漱石の理解はできないはずである。もっとも今日の経済の議論から考えれば幼稚なレベルだから、少しの勉強で漱石程度の経済論は十分理解できる。問題はむしろ、漱石の文学手法を理解できなかったことにあるだろう。

全ての作品がそうとは言い難い。しかし一部の優れた作家の、一部の優れた作品は、一般人の想像を絶するほどに高密度で重層的に組み立てられてる。そのことを文学に携わる人々の殆どが、十分認識できていないようである。おそらく天才をナメているのだろう。「闇の奥」は明らかにそういう作品だし、「三四郎」も明らかにそういう作品である。

もっとも漱石も、肝心の「闇の奥」のキャラ配置戦略は十分読めていないような気がする。三四郎での列車女とよし子と美禰子の配列はよく出来ていたが、「闇の奥」由来ではない気もする。ドスト由来かもしれない、他の作家かもしれない。もちろんオリジナルの可能性もある。偉そうに書いているが、実は私も自信があまりない。


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