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「三四郎」あらすじ解説【夏目漱石】1・美禰子

「坊っちゃん」は都会から田舎に教師が赴任します。「三四郎」は田舎の学生が上京します。つまり「逆・坊っちゃん」です。実は「坊っちゃん」の再利用は三度目です。
「坊っちゃん」の続編として「野分」を書きました。「坊っちゃん」のキャラ配置をそのまま流用して「虞美人草」を書きました。そして逆・坊っちゃんの「三四郎」です。これらは「坊っちゃん作品群」と呼ぶべきです。ネタのポテンシャルを極限まで絞り尽くす漱石さんの粘着力はすごいですね。

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あらすじ

福岡県出身の学生小川三四郎は、上京して帝大の文科に入学します。同郷の野々宮さんを頼って訪問した時、池の畔で入院中の女性を見かけます。野々宮さんの知人の妹でした。
三四郎は一目惚れしますが、女のほうは気があるのかないのか、思わせぶりな態度に終始します。野々宮と競争させようとさえします。悪女です。
三四郎が悶絶しながらも一線を越えられないでいると、彼女はあっさり別の男と結婚します。青春の半年間の恋でした。(終)

ヒロイン美禰子

ヒロインの名前は美禰子です。ルビがないと読めません。「みねこ」と読むそうです。「禰」という漢字は「みたまや」と辞書に載っています。しかし今度は「みたまや」の意味がわかりません。とりあえず画像のリンク貼っておきます。

https://search.rakuten.co.jp/search/mall/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%82%84/

まとめると「美禰子(みねこ)」とは「美しいみたまやの女性」という意味になるようです。まとめてもやはり理解不能です。禰宜(ねぎ=神職)の禰ですから神道関係の雰囲気ですが、いくら考えてもきりがありませんので、別ルートから考えてみます。

こちらの女性は峰不二子という名前です。

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名字と名前を入れ替えて、富士美禰子と書いてもだいたい同じ意味です。「三四郎」のヒロインは「里見美禰子」です。これもだいたい同じです。高嶺から里を見下ろしています。三四郎が報われない恋をするのも納得ですね。彼女の正体は富士山です。

数遊び

(注意:明治41年時点での標高計測数字は3778だったようです。以下考察無意味となりました)

下手な数遊び入れ込んでいます。「三四郎」のフルネーム「小川三四郎」。「小川」の漢字を横に倒すと、「三三三四郎」になります。彼の個人番号は3334です。

峰不二子、もとい里見美禰子の個人番号はもちろん3776です。富士山の高さです。両者の差は442です。

ところが三四郎と美禰子の間に二人の友人が介在します。
同郷の野々宮さんの妹、野々宮よし子。こちらを野々宮四四子とよみます。個人番号44になりそうです。しかし計算合わないので440とします。ここは説明していて苦しいです。
大学の友人、佐々木与次郎。こちらを佐々木余二郎と読みます。個人番号2です。よし子と与次郎足すと442です。三四郎の3334と足すと、3776になります。つまり三四郎は、よし子と与次郎の強力を得るとヒロイン美禰子と互角になります。下手な数字合わせです。感心しません。

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佐々木与次郎を「佐々木四二郎」と読みたくもなります。しかし佐々木は「零余子」というペンネームも持っています。余りゼロという意味です。零余子も余零子も一緒ですから、「余二郎」が変化して「余零子」に、また「零余子」なったと解釈すべきです。なにしろゼロですから、「零余子」が書くのは中身もなにも無いペラペラ文章なのですが、その「零余子」の雑誌掲載文が一騒動起こして、三四郎は恋に破れました。たった2ですが、それがゼロになると三四郎の番号では美禰子と互角にならない。最終的には三四郎が「零余子」、つまりゼロ人間と誤解されてしまう悲惨さです。

もっとも上手な数合わせもあります。三四郎の恋敵の野々宮さんです。物理学者の野々宮さんは、運動会で200mのタイムを記入します。25.74秒です。砲丸投げの距離も記入します。11.38mです。単位違いますが無理やり合算すると37.12です。3712と解釈すると、3776に64足りません。野々宮さんのフルネームは「野々宮宗八」です。8では二乗しないと64になりません。ところが別の箇所で野々宮さんは二乗という言葉を口にします。

「光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力のほうは半径の三乗に比例するんだ。物が小さくなればなるほど引力のほうが負けて、光線の圧力が強くなる」

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実際運動会シーンでは美禰子は野々宮宗八を絶賛します。元来の恋の相手なのですが、当て馬三四郎を煽り立てるがごとく野々宮賛美の言葉を連ねます。自分と同じ数字を作ったからです。興奮したのです。

三四郎にくらべて野々宮の数遊びのほうがまだしも出来がよいですね。なぜか主役を食っている。野々宮宗八=水島寒月=物理学者寺田寅彦ですから、黒幕はおそらく寺田です。自分の分だけきっちり考えて、師匠の漱石に教えたのでしょう。もっとも当時はオリンピックでさえ短距離の記録は小数点以下1ケタです。電子計測器ありません。ですから運動会ごときで25.74秒というタイムを記録するのはありえません。本作の設定は不自然すぎますね。
三四郎にも、もっと良い数字合わせ方法が有るのかもしれません。私はこれ以上思いつかない。いずれにせよ「三四郎」がタイトルです。中でやたら数字が出てきます。数字の物語です。言い換えれば経済小説です。

(上記のごとく富士の標高調査中です、、、その後間違いが確定いたしました)

全くの間違いと確定しました。残念です。しかしなんか数値設計ありそうなので、そのまま掲載しておきます)

椎の木

最初に三四郎が美禰子を目撃したのは、池の畔です。看護婦に伴われて、「これは椎」と樹木の種類を教えてもらっていました。ところでシイノキに関係する登場人物が、いま一人居ます。三四郎の実家の小作人、新蔵です。

新蔵は毎年冬には年貢米20俵持ってきます。正直ものですが、癇癪が強いので時々女房を薪で殴ります。5年前から蜂を飼いはじめました。椎の木にミツバチがぶら下がっているのを、酒を吹きかけて捕獲、生け捕りにします。それから徐々に増やしていって今年とうとう地主の三四郎家にはちみつ献上したようです。三四郎の母は焼酎と混ぜて毎晩飲んでいます。お母さんいけるくちですね。

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新蔵がミツバチを増殖させるのは、美禰子が(当時の女性に珍しく)自前の銀行口座持っているのと対応します。デフレが続いてわからなくなっていますが、銀行口座の預金というのは昔は増殖してゆくものだったのです。両者は癇癪が強いのも一緒です。

美禰子は作中で三四郎に30円貸します。恋に破れた三四郎は全額返金します。しかし新蔵の小川三四郎への年貢は毎年20俵ですから、10円だけ返金するのがこの場合最適バランスだったのかもしれません。いやごっちゃにして考えすぎかも知れませんが。
田舎では地主と小作ですから立場は三四郎が上です。都会では美禰子のほうが立場が上です。共通のキャラが田舎と都会で主客転倒する、ことを表現していますね。上手なしくみです。
小作人新蔵を背景に置くことで、美禰子が「賢い暴力的キャラ」というのも上手に暗示できています。美禰子本人が薪をブンブン振り回すと雰囲気台無しで恋愛小説として成立しなくなります。「虞美人草」では美貌の悪女、ヒロイン甲野藤尾が、宝石付き金時計振り回して「私の言うこと聞け」と支配欲むき出しにしますので、残念な完成度になっています。今日の分類ではヤンキーお姉ちゃんですね。まるで恋愛小説になりません。本作の美禰子はキャラとしては藤尾を流用していますが、本質を裏で書いていますので、表での雰囲気はよくなっています。

母からの手紙の対応人物は、他にも居ます。

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病院に来い来いと言う、勝手キャラの野々宮よし子は平太郎に対応します。平太郎は父親孝行です。みかげ石で父親の供養塔を建てました。三四郎に来い来いと言っているようです。勝手キャラです。よし子も嫁に行きません。父が大事なのでしょう。ちなみによし子の兄、野々宮宗八は実験のため、水晶で糸を作り、雲母を計測しています。石族ですね彼らは。新蔵=美禰子の樹木族とは路線が違います。

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一途に三四郎の嫁になりたいと念願するお光(みつ)は、美禰子に一途な三四郎と同じです。98円騙し取られる角三は、すなわち広田先生なのですが、それはまた後ほど説明します。
「坊っちゃん」でも手紙の使い方は上手ですが、本作では非常に効果的です。作中の手紙はテキストの中のテキストですので、戯曲における劇中劇のようなものです。劇中劇はシェイクスピアの「ハムレット」が代表ですので、ご参照ください。作中でもハムレット劇が上演されます。

もっともシェイクスピア劇で「手紙」というと「ベニスの商人」になります。

「三四郎」ではベニスの絵の話題が出ます。これまた意識しているのかもしれません。

回帰

数字あそびはショボいですが、手紙と現実との対応は見事でして、全体として本作は素晴らしい仕上がりです。「草枕」と互角の驚異的な内容密度、それでいて本作のほうがはるかにリラックスして楽しめます。人気作品なのは納得できます。末尾の回帰シーンの印象深さも「草枕」と互角です。

「草枕」では、最初の方に出てきた「天狗岩」という言葉が、最終章で回帰します。作中時間は数日間ですが、長編小説の終わりのような、万感こもる感慨があります。「三四郎」も同じです。三四郎は別れの直前に、作中の美禰子との時間を思い出します。大いなる回帰です。漱石は回帰の天才ですね。他にこんな作家は居るのでしょうか、あまり居ないと思います。三島の「豊饒の海」の本多のラストの月修寺の参道登り、「劫初よりこの日この時この場所に」というあたりはそんな雰囲気ありますが。

話戻ります。最終的に美禰子との恋に破れたと感じた三四郎は、教会の前で美禰子を待ちます。美禰子に借りたお金を返すためです。金の切れ目が縁の切れ目です。教会から賛美歌が聞こえてきます。寒空の下で待ちます。以下名文です。小説家として以上に、詩人としての資質が豊かだった夏目漱石の特徴がよく出ています。皆様文学の時間をどうぞ。

「三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。
かつて美禰子といっしょに秋の空をみたこともあった。所は広田先生の二階であった。田端の小川の縁にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊
(ストレイ・シープ)。雲が羊の形をしている。
忽然として会堂の扉が開いた。(引用終)」

わずか半年間の、失意に終わった、それでも美しかった青春の体験を三四郎は回想します。二人で同じ空の雲を見た、かけがえのない時間でした。通して読んでここに至ると圧倒的な充実感があります。美禰子は雲が好きなのです。正体は富士山だからです。ついでに言うと飛行機も好きです。上昇志向というやつですね。


次回に続く。数回書きます。


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