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「ジュリアス・シーザー」あらすじ解説【シェイクスピア】

ジュリアス・シーザーことユリウス・カエサルが輪廻転生して織田信長になったと、私はかなり本気で信じています。ブルータスもセットで一緒に明智光秀に転生したのです。便利なセット転生です。途中時間がかなりあきます。どこかの国のどこかの歴史で探せば、同じセットあるかもしれません

あらすじ

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ローマ内でシーザーの人気が高まります。勢いに乗って王様になってしまおうと考えたシーザー、民衆の前で王冠を捧げられる、というセレモニーを企画しますが、王冠を拒否した時の歓声が非常に大きく、その場では断念します。

異常な事態なので天変地異が頻発します。しかしシーザーは恐れず、王位につこうと画策しています。

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高潔なブルータスは、ローマの共和制を存続させたく、愛するシーザーの暗殺を決意します。

暗殺は成功、しかし暗殺後のアントニーの演説が効果的でブルータス一味は窮地に追い込まれます。

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最終的にアントニーとブルータスは、戦争で勝負をつけます。早すぎる突撃、錯誤による自殺など、不運が重なりブルータスは敗北、自殺します。

章立て

物語を解析するには、まずは章立ての整理です。ところがこれが死ぬほど面倒でした。一応五幕構成ですが、当時の劇場には「幕」がそもそもなかったようなのです。舞台装置も能と一緒で最低限。観客は最低限の装置で想像をたくましゅうしてもらっていたようです。演出上の都合ではなく、経費の都合です。

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最初の全集(ファースト・フォリオ)でも五幕で書かれています。

https://internetshakespeare.uvic.ca/doc/JC_F1/complete/index.html

(さすがシェイクスピア、こういうのがネット上で活字で全部揃っています。英米圏のこういう努力は素晴らしいですね)

がしかし、この五幕の分け方自体が全然あてになりません。そもそも幕がないんだし。私の見解では間違った分割をしています。(これは無論シェイクスピアの責任ではありません。死後出版社が適当に分割したのだから作者は被害者です)

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現行のバージョンでは5幕18場あります。しかしこの18場の物語の章立て構成を、どうこねくり回してもきれいに整理できません。半年くらい唸っていましたが、無理でした。意を決して、省構成を見直しました。

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結論です。こうなりました。
原則として、

1、場所が屋外か屋内かで分割する。
2、全員退場がない場合には同一シーンとみなす(4-2と4-3)。
3、全員退場がある場合も、対称となる章を参照してまとめることがある(5-2、5-3および5-4、5-5)

こういう整然たる構成になる、ということは作者シェイクスピアの頭の中はこうなっていた、と解釈するのがよいです。

「作者がそう考えていた、という物的証拠はないだろう」と研究者から異論が来そうです。

はい、ありません。でも良い芸術作品というのはこういうものです。それなりの美しさをどこかに持っているものなのです。そしてこのように構成見通せないと、作者の戦略も見えてこないのです。

対称構造

全体は鏡像構造で組み立てられています。3-1のシーザー暗殺シーンを中心に対称になっています。しかし対称の厳密さは粗密があります。

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粗い対称としては、例えば1-1と5-4&5-5です。

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1-1の祭りの日、ブルータス派の二人は道行く平民を誰何します。お前の職業はなんだと。一人はぐずぐずと返事を引き伸ばします。

5-4ではルシリアスという人物がブルータスの身代わりになって降伏します。敵から誰何されて、私はブルータスだといいます。誰何されて答える、というだけのひじょうにゆるい対称です。

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一方で1-2と、5-2&5-3は少しタイトに対称になっています。

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1-2では王に即位したいと焦ったシーザーが、王冠イベントを実行、時期尚早すぎて失敗します。拒絶すると歓声が起きるのです。失敗がこたえてシーザーは泡を吹いて卒倒します。

一方5-2、5-3では焦ったブルータスが早すぎる突撃命令を出します。実際には勝った歓声をキャシアスが負けて取り囲まれたと錯誤して自害し、倒れます。

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1-3と5-1はルーズすぎて説明不能です。上手くいっていません。

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2-1と4-2&4-3では、ふたたびタイトな対称になります。

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2-1ではブルータスは仲間と密談し、ブルータスの妻ポーシャは恐怖で情緒不安になります。しかし事態が切迫しているのでブルータスは十分フォローできません。

4-2&4-3では妻が死んだニュースを聞いたブルータスが、情緒不安になってキャシアスに当たり散らします。
両方ともルシアスが眠るのも共通です。

ところが次の2-2と4-1のペアはさほどタイトでないので省略。方針決定しか共通項がない。

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次の2-3と3-3のペアはそれよりはタイトです。

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2-3は修辞学者アテミドラス、3-3は詩人が登場します。
前者は自分の忠告が届かないことを気にし、後者は自分が政治家でないことすら伝えられません。

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最後の2-4と3-2にペアもタイトです。

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2-4ではブルータスの妻ポーシャが不安を感じて、召使いのルシアスに、ブルータスの様子を見てこいと促します。そこに占い師がシーザーに危機を伝えるために登場します。
3-2は作中最も有名なシーンです。最初群集は、「王になろうとしたから、シーザーを愛しているから殺したのだ」というブルータスの演説に納得します。安心したブルータスは、シーザー側近だったアントニーにも追悼演説を許可します。こういうところがブルータス甘いです。高潔ともいいますが。

アントニーはブルータス一派が居ないことをいいことに、群集の心を徐々に反ブルータスに持ってゆきます。作中最も有名な箇所です。

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主な発言は6回あります。

1、ブルータスは公明正大。だが実際にはシーザーは王冠を三度拒否したではないか。
2、公明正大なブルータスは裏切れない。だから暴動に向かわせるわけにはゆかない。だから遺言状があるが公開できない。
3、ああ、シーザーの遺体、彼らが切り刻んだ体。
4、公明正大を名乗るひとたちがこれをやった。
5、ところでシーザーの遺産は市民全員に75ドラグマ遺贈
6、あと庭園を公共の場として利用してよい。こんな人物は二度と現れないだろう

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最終的には群集は、ブルータス一味の家を焼き払え、と興奮します。

シェイクスピアは群集の愚かしさを実に端的に表現できているのですが、アントニーの組み立て能力、というかシェイクスピアの演説組み立て能力もたいしたものです。

1、遺言があると気を引くことを言う
2、シーザーの死体に注意を向けさせ、感情に訴えかける
3、市民全員に遺産が分け与えられると伝える
4、庭園も使って良いと伝える
5、すると「公明正大なブルータス」という言葉が、ペロっとひっくり返って反語表現になる。

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ブルータスの悪口を言えない状況で、群集のブルータスへの心証を悪くするには、これしか方法ありません。どう「公明正大」を反語にするかに注力した組み立てです。言葉の多義性そのものにドラマを賭けているのです。

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対称ネタに戻りますと、状況を聞きたがっているポーシャと群集、説明する占い師とアントニーが対になっています。

暗殺シーン

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そして暗殺シーンのみは単独で存在しています。作品の中心に位置します。暗殺直前にシーザーは、

1、占い師を馬鹿にし
2、アテミドラスの書類を無視し
3、メテラスの請願を拒絶します。

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実はシーザーは、自宅を出る前に神官の占いも無視しているのです。だから暗殺された、というのが本作での組み立てです。このドラマでは「言葉の人」を悪く扱うと、政治権力を喪失するのです。

そして暗殺後、アントニーの演説に興奮した群集は、3-3で政治家のシナと勘違いして詩人のシナを殺してしまいます。この時点で大衆の政治発言権は喪失します。「言葉の人」を悪く扱ったからです。

ブルータスの敗因

ではブルータスはどうだったのか。ブルータスも最後の決戦でチャンスがありました。でもキャシアスが勘違いして早々に自害してしまった。戦力があらかたなくなりました。原因は前日のブルータスとキャシアスの諍いです。奥さんをなくして殺伐としたブルータスがキャシアスにからみます。詩人が闖入してきて、両者仲良くせよと諭しますが、ふたりとも馬鹿にして詩人を追い出します。これでブルータスの負けは(物語的には)確定しました。シーザーのように、大衆のように、言葉の人を追い出したからです。

両者はとりあえず仲直りするのですが、それをもっと十分自覚的に行っておけば、戦場での精神が安定しますから、ブルータスは早すぎる突撃命令を出さず、キャシアスは過誤による絶望と自殺をしなかった。結果、戦闘にはブルータスが勝利したでしょう。

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その時闖入してきた詩人は、詩人のシナとは別の人です。作者が政治と言葉が影響しあうことをこの作品の主題にしていることを納得いただけるのではないかと思います。

言葉=演劇=政治

シェイクスピアは劇作家ですから、シェイクスピアの考える言葉の最たるものは演劇の脚本です。つまり政治とは演劇であり、演劇とは政治であり、両者は相互作用しながら存在しています。演劇は無論、虚構です。そして政治に演劇性がある以上、政治も虚構なのです。アントニーの扇動演説の虚構性思い出してください。この作品中最大のシーンです。では作者はそのことに否定的か? 否定的ならこんな作品は書きません。中心部の3-1、シーザー暗殺直後のシーンを見てみましょう。名文です。

ブルータス:諸君、ひざまずこう。ひざまずいて、我らが両の腕を、シーザーの血潮に浸そう、肘までどっぷり。われらの剣を真紅に染め、そして、広場に歩み出て、朱に染まった短剣を頭上にかざし、さけぶのだ「自由、解放、平和はまさに蘇った」と。

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キャシアス:よしひざまずけ。血に浸せ。これより後、今我らが演じつつあるこの情景が、いかに多くの時代にわたって、いかに繰り返し演じ続けられることになろうか、いまだ生まれざる国々において、いまだ知られざる言葉によって。

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ブルータス:そしていくたびシーザーは、舞台の上で、いたずらに血を流し続けることになろうか。今ポンペイの石像の足元に、ふたたび塵に還って横たわる、このシーザーは。
(引用終わり)

虚構である言葉が本作の政治闘争の決着要因になりましたが、ここで作者は演劇の永遠性も同時に称揚するのです。本作の主題はここです。演劇の虚構性と永遠性が、背中合わせになっているのです。世界文学史上有数の才能だけのことはあります、たしかに。


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