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「様々なる意匠」あらすじ解説【小林秀雄】

1929年(昭和4年)、社会主義の雑誌「改造」での懸賞評論入賞作品で、小林秀雄の出世作です。

あらすじVer.1

マルクス主義者のみなさん、文芸評論に介入するのうざいのでやめていただけますか。(終わり)

表と裏

タイトルは一応「様々なる意匠」となっています。意匠とはデザインのことです。当時批評界隈で流行っていた、印象批評、写実主義、象徴主義、マルクス主義などなど、いろんな派閥を観察してゆく、という趣旨です。
しかしそれは表の顔です。裏の顔は明らかに、マルクス主義者への徹底攻撃です。よくぞ「改造」に出したものです。攻撃方法は小難しい言葉遣いです。

マルクスはドイツの経済学者、哲学者です。ドイツの哲学関係は全て小難しくわかりにくい言葉で書かれています。原文読めませんが翻訳読んでの判断です。当時共産主義者が大量発生して、あらゆる方面に攻撃を加えていました。連中は「マルクスの翻訳」言語で攻撃していたはずです。非常に難解で、理解できないので反論不能だったはずです。そこへ登場したのが小林秀雄です。マルクス主義者以上の悪文で、マルクス主義者でさえ反論不能にしてしまう。毒を持って毒を制す作戦です。なかなかエグいバトルです。
というストーリーで私は理解していますが、調べたわけではないので自信はありませんあしからず。とにかくマルクス主義攻撃しています。あまり理論的とは言えない攻撃です。悪文すぎてバレていませんが。

あらすじVer.2

1、文芸批評だって簡単ではない。難しさがわかっていない連中が多い。連中を観察してみよう。
2、基準を当てはめて批評するのが流行っているようだが、そもそも自分が作品の中に入れていないのならば批評しても無意味だ。
3、「プロレタリヤにための芸術」を作れと言う。芸術家は自分の中にメカニズム持って作っている。外から押し付けても出来はしない。
4、「理論が正しい以上、現実が間違っている」とマルクス主義者は言う。しかし感じたままを空気読まずに素直に表現するから詩人は成立するのだ。
5、マルクスいわく、世界を支配しているのは商品だ。しかしマルクス主義も今日では商品だ。そして脳みそをマルクス主義に支配されている人たちは、自分たちがマルクス主義という商品に支配されているから、世界を支配しているのは商品だということを忘れてしまう。(終わり)

無茶な理屈

特に問題になるのは5ですね。どう考えても理屈になってません。文章が難解すぎて発表当時は理論破綻に誰も気づかなかったと思います。一応本人も気にしてバルザックの話を持ち出しています。マルクスはバルザックが好きだったそうで、敵の足元ひっかけようという作戦です。バルザックの名前は、2、4、5と出現します。勝負への伏線張っているのです。5のバルザックの話題は以下です。

1:バルザックは「この世はあるがまま」と悟ります。それが彼の人間理解の根本です。(人間理解の根本、ということを伝えるために、小林は「人間存在の根本的理解の型式」と表現します。おわかりのように無駄に難しく長くしているだけです)

2:バルザックが「人間喜劇」を書く。ということをバルザック的視点から見れば、バルザックが書くことも「人間喜劇」の中に含まれる。

3:実際に「人間喜劇」を書いていると、「この世はあるがまま」という人間理解のことは忘れてしまう。

外から人の流れを観察して得た知見は、人の流れの中に入って周りの人と押し合いへし合いしていると背景に遠ざかる、という意味ですね。これをマルクスにも応用するのが5で、こちらでほぼ作品終わりですので、決めのマルクス主義者批判になります。

しかしですね、中に入った時には外から見れなくても、できるだけ外からの視点も維持しなきゃいけないんですね。現在なら経済議論しながら会社づとめの人は結構居ると思います。会社で3万円の経費の使い方で大騒ぎしながら、自宅で「政府は真水で100兆出せ」のツイート、小林から見ればコミカルでしょうが、そういう人が現代社会にはぜひとも必要なのです。
日常生活送りながら資本論の事も考えられる連中が、当時も居たでしょうから、小林の理屈はまるで成立していません。しかし当時の保守論壇には役に立ったのでしょうね。意味不明なので反論しづらいですから。

以下あらすじVer.3のかわりに、現代語訳つけます。かなりの意訳です。意訳しないと文意がつながらないのですが、ここまで意訳しても前後とつながっていない箇所がかなりあります。まとまっていない。「とぎれとぎれの罵声」が本作の本質なのかもしれません。

「路線のいろいろ(様々なる意匠)」

疑いは知恵のはじまり、知恵がはじまれば芸術はおわり(つまり疑いは芸術のおわり)。(アンドレ・ジイド)


たいていの事にはそれなりに難しさがあるもので、批評だって簡単なものではない。人間は言葉で思考するが言葉には魔力があって、良い言葉は悪い言葉を動かし、悪い言葉は良い言葉を動かして、そんな連動力が言葉の力の源泉なのだが、連動するものを分析するのだから文芸批評は難しい。
本稿では問題提起および解決はしない。文芸批評家が活動上の都合で無視する事実のみを指摘する。なぜ彼らは路線が必要なのか。裏口から状況を推察してみよう。


詩人も小説家も創作を願う。しかし批評家は違うので話が難しくなる。
「批評家は好き嫌いで評価している」と批判される。しかし「特定の基準を決めてそれで評価する」のも同じように簡単なのだ。好き嫌いだろうと、特定の基準使おうと、批評が生き生きとした物になればよいのだ。それにこの二つは元来別のものではなく、同じ事の二つの側面である。金を貯めれる人が金を好きになり、金が好きな人が金を貯める。両者は相互依存的関係で、好き嫌いも基準も裏表なのである。
そして同じものを二つの側面に分割できる以上、実はもっと細かく分割もできる。批評はどんどん精密にできる。しかしそういう精密さと、その批評の人を動かす力は、実は全然相関がない。恋文研究家が恋愛しても、研究の成果ってわけではないだろう。研究と実践は違うのである。

かつて主観批評や印象批評が批判された。批評の方法論が悪いと言うより、礼儀が悪いとか、批評としての出来が悪い、などが批判要素だったと思う。ボードレールも印象批評をやっていた。読むとドワーッと持っていかれるくらい凄い内容である。それは彼の好みやら基準やらが凄いわけではなく、彼の情熱が凄いのである。批評と言うよりほぼ独白である。批評は自意識と分けられるものでないことをボードレールは悟っている。批評とは自分の夢を疑いながら語ることなのだ。

だから批評に元来普遍性などない。そもそも芸術家が普遍性を狙ったことが古来あったか。彼らは例外なく個体を狙ったし、個々を完全に語ろうとした。ゲーテは国民的で、個性的だったから優れていたのだ。人間性の真実は個体の中にしかないし、批評も同じだ。最高の批評は個性的なのだ。個性的だから独断的とは言えないのである。

人はついに、その人でしかありえない。人は様々な真実を発見できるが、発見した真実を全て所有はできない。頭の中の真実と、所有して血肉になった真実は別だ。人は環境を作り、環境は人を作る。血肉になるのは環境と一体化したその人そのもの、宿命としての真実のみである。だから最高の芸術家は身を捧げて製作する。

芸術の純粋は、科学者の言う水の純粋とは大きく違う。芸術には豊穣さがある。その豊穣さから色々な側面を抽出できる。1回では抽出は終わらない。何度も抽出を繰り返して作品を全て見尽くしたと思ったら、さらにまた新しい見方が出現する。そんな繰り返しは、結局鑑賞者自分自身の内部の解析なのだ。果てしなき解析の末に、ようやく作者の宿命のようなものが掴めてくる、そしてはじめて批評が可能になるのだ。

批評の基準は持っても良い。良いのだがこういう手間と時間と粘り強さがなければ駄目だ。バルザックは人間喜劇を書いたように、批評家も(バルザックをも含む)作家喜劇を書かなければならない。膨大な個別理解、個別描写の手間が、元来批評には必要なものなのだ。


今日の批評界最大の派閥はマルクス主義文学である。マルクス主義は政策的価値観なので一見単純に見えるが、人間の精神は単純ではない。

プラトンが「共和国」で詩人を追放したように、マルクスは「資本論」で詩人を追放した。政治的情熱が詩的情熱を追放したわけだが、だからといって人間の心の中から詩的情熱がなくなるわけではないから、一時的なものであって永続性はない。

「プロレタリヤのための芸術」も「芸術のための芸術」も、両方意味はない。国家のために闘うのも、己のために闘うのも、同じように苦しいではないか。
イデオロギーは人間の意識に基礎を置いているのではない。マルクスいわく、「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」のである。外界があるから意識がある。つまりイデオロギーは外界、現実を基礎に置いている。
プロレタリヤ作品のイデオロギーが人を動かすとすれば、それはイデオロギーが正しいからではなく、作品に血が通っているからだ。血が通ってない作品を評価するのは、血の通っていない人間、二流人間だけだ。

優れた芸術はたいてい現実性を持つ。人間を現実への情熱に導かないならそれは芸術ではなくただのマニュアルである。マニュアルは既に動いている人間には動き方を教えるが、座っている人間は動かせない。動かすのは強力なイデオロギーやら、強力な芸術でないと無理である。だから社会運動家が「運動のために芸術を利用せよ」と言うのはそれなりに合理的だ。芸術にはその力が有るのだから。彼らは芸術家に「プロレタリヤ社会実現の目的意識を持て」と命令する。実際芸術家は、元来目的意識を持っている。しかしそれは運動家の期待と違って、各人の芸術創造の理論なのである。各人の創造理論を持つ連中に外から目的意識押し付けても、毒にも薬にもなりはしない。

「時代意識を持て」ともよく言われる。マルクス主義文学の論議に多い。時代の物語を作りたいのだろう。だいたいどんな時代でも時代らしさはあるものだが、それは「時代らしさ」ではあっても時代そのものではない。生きた時代の物語が成立するとしたら、それは時代の渦中で生き生きと行動できているからだろうと思う。ところがここで「局所麻酔によってしか内部感覚はわからない」という逆説がある。局所麻酔で無感覚になると「普段はここに感覚あった」ことを認知できる。つまり時代に無感覚になることによって認知できるのが時代意識ではないか。「時代意識を持て」と言われると逆に時代の物語はなくなるではないか。時代意識とはつまりは自意識のことなのである。だから「時代意識を持て」という意見には意味がない。

「芸術のための芸術」についてだが、昔の芸術家は無論こういうことは考えない。小理屈こねるようになって言われるようになった言葉である。近代のスタンダールは「自然は芸術を模倣する」と言ったが、芸術が自然を模倣するから自然が芸術を模倣するのであって、もともと自然から借りて、それを返しただけで、スタンダールは間違っている。「芸術のための芸術」なんて言うことは一種の衰弱で、自然が芸術を捨てたというだけだ。世捨て人は世を捨てた人でなく、世から捨てられた人なのだ。そして社会が衰弱したら芸術など存在しない。

以上まとめると「プロレタリヤのための芸術」も「芸術のための芸術」も両方信用ならない。意識でテンションを上げようが下げようが、無意識の心臓の鼓動ペースは同じだ。井原西鶴が現存すれば、「当世芸術家気質」みたいな作品書いて、滑稽な諸君を上から目線で茶化してえがくであろう。


芸術はこの世を離れた美の国を作るためのものではない。人間情熱の表現である。だから作品がどれほど神がかろうと、人間臭は残る。芸術は常に人間的な遊戯なのである。天平時代の彫刻は確かに非個性的だが、だからといって非人間的というわけではない。天平の人は個性という近代的概念を知らなかっただけで、それでも彼らは心を込めて作ったから、我々も彼らの心を感じることができる。

芸術を考える上で対象化されるとすれば、作品の発する情報と、情報によって喚起される自分の心と、二種類しかない。
実証的美学者は、作品の発する情報を重視するから、芸術が世に出現する法則を正確に説明できる。つまり外部環境を説明する。
観念的美学者は自分の心を重視するから、芸術構造を精密に説明できる。つまり内部構造を説明する。

しかし芸術家にとっては作品は、作品の発する情報でもなければ鑑賞者の心でもない、生きた実践だ。作品は彼の歩みの中の通過ポイントでしかない。通過ポイントへの世間の感想は作者にとってどうでもよい。通過ポイントに価値がありそうに見えるのは、世間が価値付けるからで、本人にとって価値があるのは歩みそのものだ。

水は昔から存在するが、H2Oという表記は新しい。そのように芸術家はつねに新しい形を創造しようとする。といって新しい形そのものが重要なのではなく、新しい形を作る創造過程が重要なのである。その創造過程は芸術家の秘密のブラックボックスである。そのブラックボックスこそが命だと考える人々にとっては、「写実主義」「象徴主義」など意味がない言葉である。

人間は神から言葉を与えられた。しかし人間は言葉の理論を捨てて、社会的なツールとしてしまった。おかげで人間は社会関係を作れたが、同時に言葉の魔術性が人を支配するようになった。詩人はその魔術を扱う。だから詩人は魔術の構造の理解から始める。

海は青いと言われる。品川の海を写生しようとした子供が青くないと言い出したら凄いのだが、そんなことはまず起きない。「海は青い」という概念洗脳が、実際見た品川の灰色の海という事実に打ち勝つ。このように子供は言葉の概念と言葉の対象の間をさまよう。そのさまよいの経験が大人になるという事である。これを言葉の実践的公共性と呼ぶ。
いまひとつ論理の公共性というものもある。「理屈が正しいのだから現実が間違っている」のたぐいである。この二つの公共性を把握して子供は大人になる。しかしこの二つの公共性を拒否する人間が居る。詩人である。詩人は子供のままなのである。月が15センチの大きさに見える。間違っているのだが確かにそう見える。そう見えることをそう見えると堂々と言うのが詩だ。

「世に一つとして同じ樹はない、石はない」という言葉があるが、同時にそれを同じように表現することもまたない。自然界のニュアンス同様言葉のニュアンスも無限である。バルザックが人間喜劇を書いたとき、おそらく思ったのは、全ての人は異なっており、かつあるがままだったことだ。全てが神秘であると、全てが明瞭であることは同じことだったのだ。自然は神秘であり、明瞭である。また言葉は神秘であり、明瞭なのである。

理論で自然を捻じ曲げることは不可能だ。見たところを信じるしか詩人はできない。つまり写実主義も、前述の「公共性」の外にある。現実を受け入れることは詩人の仕事の前提でしかなく、作業の困難さはその上に夢を作ることにあるのに、前提を否定して詩作ができるはずもない。

「写実主義」と対称に使われる言葉は「象徴主義」である。象徴と比喩と記号に区別はない。上等な記号が象徴だと言う人もいるが、上等下等の判断は人の勝手でしかない。
1849年ポオが死ぬ。その本質主義はボードレールに受け継がれ、マラルメに至って頂点に達した。その流れを象徴主義と呼ぶ。しかしそれは精密な理論で行われた言語上の唯物主義である。ベルリオーズやワーグナーが音楽でやった効果を逆用して、文字を音のように実質的なものとみなし、音楽的な効果を出そうとした。もっとも言葉と音楽は違うから、うまくいったりいかなかったりだが。
そんな意図を考えない他人から、作品の効果が朦朧としているから「象徴主義」と呼ばれている。しかし作家たちは直接的に、忠実に表現しようとしただけであり、朦朧と見えるのはただの結果である。象徴主義者は象徴性を求めたのではなく、実は写実性を求めていたのである。象徴は作品の効果についての表現であって、作者の実践についての表現ではない。その上じっくり読めば内容も象徴的ではない。

小説は社会の問題の証明ではない。可能性である。良い小説は生き生きとしていて、時間が経って読んだ時の感情が冷却すると、問題解決の可能性が見えてくる。作品本体が生き生きとしているほどその可能性が大きい。象徴的価値などは、その可能性の一部にすぎない。

詩人は霊感ではなく、意識的に活動している。人間には制作過程と成果の効果は別の世界だ。意図と効果を隔てる深淵は、やはりブラックボックスで言語化不能なのである。


マルキシズムの認識論は、当たり前のことを言っているだけだ。マルクスの唯物史観における物とは、精神でも物質でもない。それなりに人間存在の根本理解ではあるが、人々の常識生活を特に便利にしない。

バルザックが「この世はあるがままだ」とみなす。そして「人間喜劇」を書く。バルザック本人の書くこと自体が「人間喜劇」の一幕である。人間喜劇の一幕に参加していると、上から見ていた「あるがまま」という考えは薄れる。外から見ると中に入るとで、違ってくるのだ。こんな理論と実践の関係が、マルクスにもある。

こういう意見は笑われるのかもしれない。しかし実際にマルクス観念学は、実践でも理論でもなくなっているではないか。商品は世を支配するとマルクスは語る。マルクス主義は既に商品である。そしてマルクス主義者は「マルクス主義」という商品の中に浸りきって、「自分はマルクス主義という商品に支配されている」ことを忘れている。

最後に二つの路線について述べる。「新感覚派文学」と「大衆文芸」である。
観念論の崩壊によって「新感覚派文芸運動」が発生した。積極的ではない。衰弱として現れた。形式主義の一種だが、象徴派とは違う。象徴派はロマン派音楽に影響を受けて、文学的観念の弱小を嘆き、精錬した結果観念に比べて文字が貧弱だと発見したのである。新感覚派はアメリカ音楽の影響を受けているが、アメリカ音楽はロマン派音楽と違って、文学的観念を与えない。観念が弱小だから、文字が相対的に強力に見えるだけである。

「大衆文芸」は娯楽として扱われる。これほど直接的な娯楽のある時代に文字での娯楽は拙劣だ。それでも大衆文芸は繁栄する。それは物語という昔からの形式が強いからだ。

これで重要な路線は見渡した。軽蔑するためではなく、路線を信用しすぎないため、つまり適度に信用するために路線を見渡した。(終わり)

だいたいこういう内容だと私は理解していますが、ご疑念の方は原文お読みください。



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