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「夢」解説【黒澤明】

数年前、20代女性数人にアンケートしたところ、全員同じ回答でした。「宮崎駿はカリオストロ以降全て見ている」「黒澤明は名前は聞いたことがあるが見たことがない」「小津安二郎は名前も聞いたことがない」。諸行無常です。

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鑑賞で一番してはいけないのは、無駄な神格化です。黒澤の欠点をすべて明らかにすれば、彼の良さが見えてきます。良さも確かにあります。世界中の映画人が尊敬した、彼にしかない良さがあるのです。

「夢」は1990年の黒澤明監督の映画です。黒澤は徹底的にこだわった映画作りをします。しかしだんだん人気がなくなって収益はあがらなくなりました。一方予算は減らせません。採算取れないお荷物に成り下がっていたのです。でも世界的知名度は物凄くありましたから、海外の資本に働きかけて映画を撮影する作戦に出ました。

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ソヴィエト連邦で撮影した「デルス・ウザーラ」は、黒澤がいつもの身勝手さを発揮して大量にリソース使ったせいで、ソヴィエト監督の映画を2本つぶした計算でしたが、アメリカのアカデミー賞で外国映画賞取りましたから、ソ連政府としては十分採算取れました。

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その後ジョージ・ルーカス(スターウオーズの監督)の働きかけで「影武者」を撮影、カンヌのグランプリを取りました。

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カンヌはフランスにある都市ですからその縁でフランスから出資を受けて「乱」を完成、

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その後スピルバーグ監督の取り成しでアメリカから出資を受けて「夢」を作りました。

8章構成

「こんな夢を見た」とはじまる短編が、8つ連なっています。はっきり言って、打率が低いです。
A:超一流の映像作品、見るべし
B:十分優れた作品
C:並みの作品
D:見る価値ナシ

と分別した場合、

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8本中Aクラスは3本のみ、Bのトンネルを入れても半分しか見るに耐えるものがない。黒澤は世界的名監督なので、ついつい「理解できない私が悪いのかな」と思ってしまいますが、権威に負けてはいけません。黒澤はもともと、打率は低い人なのです。

成績悪いほうから見てみましょう。

D:見る価値ナシの「3:雪あらし」と、「7:鬼哭」

「3:雪あらし」は冬山で雪女に会うが脱出できる、というだけの話です。短く作ってくれれば気にならないのですが、ダラダラ続くの退屈します。タルくなります。昔の映画監督作品ほぼすべてがそうでして、どうしても今のペース感覚で見ると退屈します。つまり映画の語り口も進歩したのです。コッポラのゴッドファーザーでさえ、おそらく若い人には「もう少しペースが速いと良いのだが」と感じると思います。どうしようもない世代的な壁です。一応特殊効果が売りの作品ですが、今日の視点からは特殊でもなければ効果でもありません。

「7:鬼哭」ですが、これまた特殊効果が非常にダサいです。俳優の演技も大げさで見るに耐えません。放射能で鬼になった人間たちが、角が痛むといって泣きます。私だって子供のころ「泣いた赤鬼」の話は好きでしたが、大人の見る映像作品ではありません。

黒澤明は東京生まれですが、父は秋田県出身です。そう、この鬼はナマハゲなのです。「泣く子はいねえか」と子供を脅かすお祭りです。

余談ですがナマハゲに良く似たトシドンというキャラが、鹿児島の祭りには出てきます。ほぼニューギニア民族衣装です。列島の北と南の辺境にこういうキャラが居るということは、つまりこれらは古い縄文系のお祭り、縄文キャラということです。

というわけで、民俗学的、文化人類学的には大変興味深い存在ですが、娯楽としての映画にはなっていません。なんで大の大人が「泣く子はいねえか」と脅かされなければならないのでしょうか。しかもスローペースで延々と続きます。昭和文化というより縄文文化です。古過ぎる文化なのですね、二千数百年程度。

C:並みの作品、「6:赤富士」、「8:水車のある村」

「6:赤富士」は原発事故で日本滅亡、という話です。可もなく不可もなくです。富士山爆発シーンのくだらなさは壊滅的ですが、井川比佐志(背広おじさんです)の演技はよいです。どうも黒澤と相性が良いようで。

「8:水車のある村」は、長すぎて退屈します。笠智衆のセリフは発音不明瞭にしてテンポ遅すぎです。聞き取れません。黒澤作品は全部、セリフの聞き取りづらさがガンです。発声が明快な黒澤映画はひとつもありません。

内容もひどいもんです。現代文明を否定します。電気もない村の話です。その村の自然な生活を肯定しています。というメッセージが電気を大量に使う映画で発信されるのですから、正気の沙汰ではありません。矛盾とか整合性とかの概念がそもそも欠落しているものと類推されます。この資質は宮崎駿さんにきっちり受け継がれます。負の遺産というやつです。

しかし良いところもあります。踊りが良いのです。
頭に色とりどりの紙をつけているだけですが、スピード感、色彩感覚すばらしいです。黒澤の最大の資質はここでして、絵画的な美しさを力強く動かす事ができます。たいていきれいな映画は動きが少ないです(小津安二郎映画ご覧ください)。動きの良い映画はどうしても画面が汚くなります(深作欣二映画ご覧ください)。黒澤映画では綺麗さと力強さが、運がよければ両立します。しかし元来難しいことに挑戦しているので、どうしても打率は下がります。踊りというのは映画の重要な要素なのですが、物語を切る傾向はあるのであまり使われません。この水車のある村のダンスシーンは良い出来です。(こちらの映像は発色が悪く、効果があまり出ていませんが)

B:十分優れた作品、「4:トンネル」

戦争から帰ってきた隊長が、トンネルで全滅したはずの自分の部下に出会います。重い話です。自分だけが生き残った隊長が涙ながらに、「お前たちは死んだんだ」と言います。

黒澤明は戦争に行っていません。父が陸軍関係者で、徴兵免除してもらったようなのです。ようはインチキです。黒歴史です。そしてあの戦争で生き残った人たちは、終生「自分だけ生きのびて申し訳ない」という思いを抱えます。罪の思いを抱えて戦後の数十年を生きるのです。黒澤のそんな魂の叫びがこの作品です。「同級生たちよ、もう夢に出てこないでくれ」と泣いているのです。

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導入として犬が出てくるのですが、これは絶妙です。素晴らしいです。凶悪な歯や目の感じがヤバいです。実は狂犬病なのではないでしょうか?むちゃくちゃ危険です。うっかり噛まれたら人生アウトです。と疑ってしまうくらいきっちり妥協なく演出できるのが黒澤です。

A:超一流の映像作品、「1:日照り雨」、「2:桃畑」、「5:鵺」

「1:日照り雨」は「キツネの嫁入り」を見るという話です。日が照っているのに雨が降るのを、あべこべなので昔の人は神秘的に感じてキツネの嫁入りと言ったのです。ここの踊りは、超一流です。ゆっくりとした動きと、静止する時間。神秘的な感じが見事に表現されています。これこそが芸術です。

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「2:桃畑」は、桃の精と交流する話です。ワンシーンご覧ください。奥の部分のみ照明が当たっています。

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「照明」というのは、日本映画というか、日本文化最大の弱点でして、なんでかというと東洋絵画は水彩なので、強いコントラストが表現できない。それが伝統なのでゴッドファーザーのような強いコントラスト表現が苦手です。たとえば小津安二郎の映画も、照明はたいてい問題外のゴミです。人物が部屋に入ってくると(多方向からライト焚いているので)影が複数出来たりします。うんざりします。だからここでの黒沢の「奥のほうだけ光」の照明は、評価されてしかるべきです。

桃畑のもうひとつの良さは、雅楽を使った踊りです。踊りそのものとしては面白いものではありませんが、音楽と視覚の協調としては素晴らしいです。黒澤は宮崎駿やコッポラほどは音楽使いが上手くありません。でも彼らより絵の才能がありますので、上手にはまると充実した時間になります。このシーンも見るたびに、小学校に入る前の時間に引き戻される気分がします。

「5:鵺」はゴッホを描いていいます。画家を描いた映画作品それなりにありますが、その中で最高のものがこれです。なぜなら黒澤がとことんゴッホが好きだからです。好きでたまらない気持ちが溢れているからです。

主人公はゴッホの絵を見て、絵の中に入っていきます。ゴッホの絵は、客観的に鑑賞するものではなく、中に入るような気持ちで、いうなれば体験するべき作品です。立体的で、感情的で、生命力に溢れています。そんなゴッホの最上の映画化がこの方法です。
ゴッホを演じるのは名監督、マーティン・スコセッシです。長々と登場させず、いかにもゴッホ、ゴッホの内面のそものを表現できています。特殊効果としてはよろしくないです。よろしくないですが、黒澤の愛情がはるかに上回っていますので、素晴らしい作品になっています。

構成戦略

「こんな夢を見た」といえば、夏目漱石の「夢十夜」です。漱石の「夢十夜」は実は、ガチガチの構成を持った緊密な作品です。黒澤の「夢」と同じく個々の作品には出来不出来がありますが、全体としては強いメッセージ性を持っています。
黒澤は確実に、漱石の「夢十夜」を意識して、下敷きにしています。

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漱石の「夢十夜」はこのような対称構造になっています。10章構成です。

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黒澤の「夢」はこちらです。

1:日照り雨:踊り
2:桃畑:踊り
7:鬼哭:苦しみまわる踊り
8:水車のある村:踊り

最初の2章と最後の2章は、踊り、ないしそれに準ずる動きをします。

はさまれた中間部分は、
3:雪あらし:死の危険
4:トンネル:死者との邂逅
5:鵺:死者との邂逅
6:赤富士:死の危険

と対称構造になっています

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1章2章、7章8章の踊りは、生への希望、生の本質という意味となります。
それが証拠に、花の扱いも、

1:日照り雨:草の花
2:桃畑:桃の木の花

7:鬼哭:木のように巨大化した草の花
8:水車のある村:小さな花

となります。生を花で表現しているのですね。

小さな花こそ生の本質という考え方は、夏目漱石の「すみれほどの小さき花に生まれたし」という句から来ているのかもしれません。

表04 - コピー

ところがこのままでは「夢十夜」といっしょで、個々の話がバラバラになります。構成的すぎて流れがなくなるのです。そこで流れを作る工夫もしています。

2-3間、4-5間、6-7間を共通の要素で結んでいます。
黒澤はよく「天才的な部分があるが頭が悪い」と悪口言われていました。しかし頭は良いのです。しばしば混濁して整合性を失ったり、縄文化して「泣く子はいねえか」を連発しすぎるだけなのです。すくなくともある程度以上は漱石の「夢」が読めています。

関係者の証言によると、黒澤明は編集をするさいに、通常は一度試写するところを、映写機をつかわずいきなり現像済みフィルムを手にとって編集していったそうです。
ということはつまり、黒澤明は撮影したフィルムの大体の内容を把握できていたということです。把握できるのが当たり前と思うかもしれませんが、黒澤はマルチカメラ・マルチアングル撮影がトレードマークの人なのです。
つまり、俳優たちの演技をシーンごとに個別に撮影してゆくのではなく、あらかじめ複数台のカメラをスタジオにセットしておき、俳優たちにはワンシーンまるごと演技をさせ、あとで複数台カメラで撮影したフィルムを編集してゆく、というスタイルです。何度も撮影しなおす手間がなくなりますから、コストを抑えられます。演じるほうも舞台の芝居のように連続して仕事をできますから、流れに乗れます。以前からそのスタイルはありましたが、黒澤はその手法を大々的に取り入れたことで有名です。黒澤最大の美点はこういうことでして、映画の撮影技術のあくなき探求があったのです。もうCG全盛の現代には通用しませんが。

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話し戻って編集ですが、マルチカメラで撮影したフィルムを、試写もせずに手で持って確認しただけでつなぎ合わせる、これは黒澤明が視覚情報に関しては超人的な記憶能力を持っていたことを意味します。
「夢十夜」を読んだ黒澤は、おそらくすべてのシーンを視覚情報にして記憶、記憶した視覚情報を元に分析、構成を解析して「夢」を組み立てたのだと思われます。記憶力のない私と違って、エクセルで章立て分析しなくても理解できるのです。
ただ視覚記憶系は往々にして論理性、整合性は弱くなる傾向はあります。耳を使わないですから。

それでもこの「夢」は、バラバラの物語の集合ではなく、それなりにまとまった話であるのは確かです。幼年で始まり、老人で終わる、嫁入りで始まり葬式で終わる、生で始まり死と邂逅しながら生に戻る物語です。

タルコフスキー

実は「夢」のすべての章は、ソ連の映画監督、タルコフスキーの映画が下敷きになっています。タルコフスキーは1986年に死んでいます。「夢」はその4年後、1990年の映画です。両者の関係は黒澤が1910年生まれ、タルコフスキーは1932年生まれ、22歳差です。

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前述の「デルス・ウザーラ」撮影中に両者は親しくなりました。下世話な話で恐縮ですが、黒澤さんは実はそっち系の嗜好もあった人ですが、タルコフスキーと寝たのかどうかまでは定かでありません。親子ほども年の差がありましたが、実際タルコフスキーを「私の息子」と呼んでいたそうです。それくらい親しい関係です。ですから息子の追悼映画を作ったのです。

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1:日照り雨(狐の嫁入り)は、

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「ノスタルジア」のラストシーンのオマージュです。閉じた空間であるはずの廃墟の中に雪が降ります。

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2:桃畑には桃の精が主人公から垣間見れます。

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「惑星ソラリス」の、ソラリスで実体化した子供にそっくりです。

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3:雪あらしの雪女

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こちらも「惑星ソラリス」のシーンに似ています。主人公の妻です。

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4:トンネル、犬が印象的ですが、

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「ストーカー」に登場する犬も印象的です

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5:鵺、画家(ゴッホ)を主役に据えています

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画家を主人公にした「アンドレ・ルブリョフ」と同じです。

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6:赤富士、核爆発で逃げ惑う人の群、

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「サクリファイス」で逃げ惑う群集と共通です

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7:鬼哭、核戦争後の世界です

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これも「サクリファイス」での核戦争後の悲惨な世界と共通です

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8:水車のある村、ラストシーンは水の中で藻が揺れる映像です。

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これは実は「惑星ソラリス」そのままなのです。

とここまで書いて、代表作である「鏡」を参照していないのが不自然に思われるかもしれませんが、参照しています。全体構成です。

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これが「鏡」の章立て表です。前半と後半が鏡像になっています。だから「鏡」という題名なのです。この前後対称構造は「夢」と共通ですね。

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細かく章立てするとこうなります。むちゃくちゃ入り組んでいます。これは幼年時代→少年時代→成年時代の推移を出来るだけ自然に、スムーズにするための工夫です。しかしこれではわかりにくくなっているだけのような気もします(実際「鏡」は難解で知られる作品です)

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そこで黒澤が天国なり地獄なりに居るタルコフスキーに向けたアドヴァイスというか回答が、先ほどの表です。共通項を作ってつなげることで、話の流れがスムーズにつながるのではないか、こちらのほうがより良い方法ではないか、といいたかったのだろうと思います。それが実際成功したのかどうかの評価は、ちょっと置いときます。

以下妄想ですが、ひょっとするとタルコフスキーは、漱石の「夢十夜」を知っていたのかもしれません。
と言いますのは、黒澤が「夢」のエンディングで使った水草シーン、
元ネタは「惑星ソラリス」の水草シーンですが、
さらにそれの元ネタが、溝口健二の「武蔵野婦人(1951)」の中にあるのです。

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こちらも水草シーン、ソラリスとまったく同じです。モノクロですが。そしてタルコフスキーは黒澤と同じく溝口に私淑していたのですが、芸風からはむしろ溝口よりの人ですね(後述しますが、移動カメラ系です)。

と考えると、ストーリーでの「漱石夢十夜」→「タルコフスキー鏡」→「黒澤夢」の対応と、
水草シーンでの「溝口武蔵野婦人」→「タルコフスキーソラリス」→「黒澤夢」の対応が、
日本→ソ連→日本とまとめられる。国際協調を歌った映画、という解釈も成り立つような気がします。タルコフスキーが漱石の「夢十夜」を知っていたかどうかが鍵で、そこの証拠がまったくないのがこの仮説の難点ですが。

黒澤明の政治力

タルコフスキー最後の作品は、「サクリファイス」、核戦争を扱うものでした。その後チェルノブイリの事故が起きます。「サクリファイス」はだから、予言的作品とも言えます。

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黒澤明はそれを受けて、タルコフスキー追悼の作品の中に、核問題を入れ込みました。そしてその作品に、アメリカの映画人スコセッシに出演してもらい、製作はスピルバーグです。

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当時はもちろん冷戦中、アメリカとソ連が核兵器で脅しあっている状態でした。だからそうしたのです。

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なんのかんの言って、たいしたもんでした。「なぜ(同世代の多くの人は死んだのに)自分は死なずに生き残っているのか」と、日々考えていたのだと思います。生き残ったのはなにか意味があるのだから、与えられた役目で最善を尽くそうと。それは映画を使った国際協調だと。

キツネの嫁入りを目撃した幼年時代の主人公は、死んだ人々(兵隊さんや、ゴッホ)との邂逅を経て、最終的に水車村での「生きることは楽しい」という状態にたどり着きます。それをどう受け止めるかは見る人それぞれですが、彼なりの人生の旅が描かれている、一貫した流れのある作品です。


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