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物語構成読み解き物語・1

文学は昔から好きだった。でも映画も音楽も好きだった。結局文学オタにはなれなかった。オタになるレベルまで、そこまでは文学を楽しめない性質だからである。これは今でも変わっていない。本物の文学好きではない。自分でもニセモノと思う。ではなぜネチネチとした作品解析を継続しているか。それは私が一番理由を知りたい。

カラマーゾフだけは大好きで何度も何度も読んでいた。読むたびに違う小説になったからである。高校生で最初に読んだときは「暗い夜の津波」だった。数年経って次に読んでみると「グロテスクな闘争物語」だった。「あれ?こんな話だったかな?」。さらに1年くらいたって読むと「フワフワとして抽象的な神話」になった。次の回は「ギャグ満載のドタバタ喜劇」になった。読むたびに違う顔になる。

印象が変わる原因の半分は自分の記憶力の貧しさにある。1年あいだをおくとあらかた忘れている。しかし原因の残り半分は作者にある。良い作品なのである。言語には元来重層性がある。京都人が「まあ賢い」と褒めるときは、「ずるいやつだ」と非難する時である。しかし露骨に裏、というのも一流ではない。カラマーゾフは自然に、色々なニュアンスが重なっている。素晴らしいことである。

何度も読むうちに、ある日ゾシマ長老が僧院で5人の信者の女性と話しているシーンがカギを握っていることに気がついた。というのは誇張で、カギを握っている気がうっすらとした。そこを突っ込んでゆくと、どこかに到達できる気がした。もちろんどこにはかわからない。しかし探求してみようと思った。ドストエフスキーの秘密を発見できるのじゃないかと思った。何度も何度も読み返し、登場人物を表に書き出して考えた。しかしいくら時間を使って、すっきりした答えが導き出せなかった。

だんだん「そもそもきれいな構成なんかなにもないのじゃないか」という気がしてきた。自分の勘違いだという疑念が強くなった。確かだと思ったカンを信じられなくなり、これは無理だとあきらめて、数年間放置していた。
ところがある日思い立って保存していた登場人物表を弄った。すると不思議なことに、あれほど考えて出なかった答えがスッキリ出た。このときは驚いた。

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整然たるキャラ構成である。天才の考えつくことは常人とは違う。しかし表が出来てみれば当たり前という気さえする。超名作が棚からボタ餅方式で自然発生するはずがない。なんらかの作者の大戦略があるはずである。それがカラマーゾフの場合には、登場人物キャラ配置戦略であった。これくらいの中身がなければ、あれくらいの傑作になるはずがない。


ともかく時間はかかったがドストエフスキーのキャラ戦略を見抜けた。とうとうカラマーゾフを征服したと思った。ブログに書いて発表した。なにしろカラマーゾフは世界文学の最高傑作である。その作品の中心的工夫を読み解けた。つまりカラマーゾフの研究は、完全にではないがほぼ終わった。
最高傑作の研究が終わったということは、言い換えれば文学研究もほぼ終わったということになる。なんと画期的なことだろう。その時はそう思った。さようなら文学研究さん。こんにちは退屈な日常さん。自分の偉業に自分でうっとりした。映画の主人公のような気分だった。

1年後、ブログのアクセスを見てみた。1年間で2ページビューだった。「あれ、私なにか勘違いしているな」と、やっと気がついた。


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