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物語構成読み解き物語・5

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次に読み解きなにをやろうか色々探った。もはや精神は「文学好き」モードから離脱した。ただの「解析好き」になっていた。ウチはほんまは、中身はどうでもええどすねん。小難しゅうて人がわからんのを解読するのが楽しみどすねん。堕落とも言う。

日本文学で一番重要で難解というと、三島由紀夫の「豊饒の海」である。やってみようと思った。いかにも難しげな雰囲気が魅力的に見えた。そしてその時「豊饒の海」を初めて読んだ。我ながら恐るべき不勉強である。過去に文学研究の終わりを実感してしまった人物が、その数年後に三島の代表作を読み始める。宿命的とも言えるそそっかしさである。

読み始めてすぐに、「これはニーベルングの指環だな」と気づいた。こういう断定速度は自慢じゃないが一流である。そそっかしさなければ断定なし。ネットで調べると連載当初からそういう声があったらしい。しかし真面目に対応関係調べている文献がない。文学研究家は中身に興味がないのである。なかなか徹底している。

運がよいことに、「指環」のDVDが安く手に入った。見てみた。つまならくて死ぬかと思った。数年経った今でも例えば「ジークフリート」の第一幕、第二幕は鑑賞の仕方がわからない。ひたすら間延びする。「ラインの黄金」もだいたいつまらない。「神々の黄昏」も途中ダレる。以上を簡潔にまとめるとあらかたつまらない作品である。これは本当に娯楽なのか。下手な労働よりヘヴィーである。無料の翻訳を元にストーリー解析していった。

解析結果としては、凄い作品だった。通貨発行という問題に正面から挑んでいる。なんでデフレ日本でこの作品が話題にならないのだろうか。しかし考えて見れば理由は簡単である。つまらない上に長過ぎるからである。

構成ははっきり甘い。複雑な内容を組み立てる構成能力が、ワーグナーには備わっていない。作曲家のくせに交響曲が苦手な人である。しょせんは誇大妄想系キャラである。自制心もないのに構成感覚あるわけない。でも意欲作である。給付金だの消費税だの財政再建だの現代の議論の根源がある。

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経済学者、官僚、政治家、マスコミ、現代のエリートのかなりの割合が、災害や貧困で困窮した人々への愛情を完全に喪失している。いいたかないけど、人でなしである。どうしてそうなってしまったのか。

「指環」で冒頭の設定を見よう。ラインの黄金を指環に鍛え上げると、世界中の富を集めることができる。ただし、その指環を持つものは愛を諦めなければならない。アルベリヒはその道を歩む。効率至上主義。生産性至上主義。現代のエリートたちも同じである。どんなに頑張っても賢くなっているわけでも、立派になっているわけでもない。ひたすらアルベリヒになっているだけである。自己目的化した利益追求作業である。

まるで文学がたいして好きでもないのに読み解きが自己目的化して、勝手に解析して勝手に喜んでいる人物のようだ。いかん自分にかえってきた。だいたいワーグナーからして人にたかりまくってオペラ作り続けてあまりにも身勝手なのだから、愛なき貨幣経済を非難している暇があったら己の利己的な人格反省するべきだ。つまり私が他人の作品や読解を批判することも間違っている、いやいかん。

おそらくワーグナー自身もこのような壮大なブーメランを痛く感じており、だからこの自己破産的な物語を書いたのであろう。ニーベルングの世界の立て付けは、必然的かつ自動的に16時間かけてゆっくり内側に倒れて行く。残飯に惹きつけられるゴキブリの如く、私もその匂いに惹きつけられただけなのかもしれない。もっとも私には実際に見にゆく金も時間もやる気もないが。

実際にはこんな作品をオペラハウス(しかも専用の!)で鑑賞できる暇人は、金持ちだけである。バイロイトは正装が義務付けられている。舞台のこっちがわでも向こうがわでもヴォータンとアルベリヒが大集合である。つまり自分たちを見るための番組である。醜悪なようだが、自分を客観視しようと努力している点は評価できるとおもう、作曲家ワーグナーも、観客たちも。


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