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物語構成読み解き物語・19

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「坊っちゃん」は1906年の発表である。1905年に日露戦争が終わっている。日本の近代文学は実に、戦争勝利の産物だった。とりあえずロシアは白人である。白人コンプレックスが部分的にでも解消された。だったら文芸の分野でも白人の土俵で戦えるかもしれない。鴎外と漱石はその野望に燃えた。やがて日本はアメリカに負け、「近代文学」も三島由紀夫で終わる。漱石と三島がやけに強調される傾向があるのはそのせいで、近代日本のガムシャラな時代の最初と最期なのである。それ以降も文学は続くが、かっこ付きの近代文学はだいたい三島で終わりである。そして裏ではモンスターが成長していた。

モンスターとはすなわち手塚治虫のことで、三島の3歳年下の人物だが、文化理解力が極めて高かった上に、実力があった。この場合実力とは、文学者なら文章能力、漫画化ならば画力である。三島も漱石もなるほど天才と呼んでさしつかえない能力値を持っていたが、手塚の画力は当時の水準では他の漫画化に比べて抜きん出ていた。つまり漱石や三島よりもはるかに自信満々に仕事が出来た。以下は「ロロの旅路」という作品からワンシーン。美しい。

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そして体力的には両者を合算したよりもタフであった。漱石は「ファウスト」を元に「坊っちゃん」を書き、三島は「ファウスト」を下敷きにした「魔の山」の主人公を最後の作品に流用した。手塚は「ファウスト」を2回半漫画にした。だいたいそれくらいの体力差である。最後の半分というのは、作者逝去で未完になった。最初のファウストは若い頃の作品で原作を消化できていない。しかし2回めの漫画化「百物語」は驚愕の作品である。

手塚は、通貨発行問題を全く理解していない。三位一体教義にも無関心である。時間ループは日本はもともとそれだから抵抗感すらない。女性崇拝もただの日本の伝統である。
その伝統の女性崇拝を中心に、手塚はファウストを日本の津軽の話に組み替えている。メフィストフェレスは女性である。主人公は武士である。主人公は女性に満足すると魂を取られる設定になっている。しかし主人公はメフィストフェレス役に言うのである。「お前が好きだ。結婚しよう」
流石にメフィストも止める。「それを言うと、あなたは私に魂を取られる」。
情が移っているから最後には懇願しだす。「お願い、私のことを嫌いと言って!」。

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ところが主人公はそれを拒絶する。

「それはお前にたいする裏切りだ」
「人間は精一杯生きれればいいんだ」
「きみほど素晴らしい女は居ない」
「魂を受け取れ」

魂を受け取ったメフィストは、魔女の契約を破って魂を解放する。「どこへでも飛んでおゆき」。最終ページは見開きで、干物干している風景に、津軽ジョンガラ節の歌詞である。

もはや、「ファウスト」とは全く関係ない作品になっている。話で聞けば単細胞バカの不完全翻案である。しかし実際読むと、ド迫力に圧倒される。精一杯生きれればいいというのは、文字通りの意味で、死のうが滅びようが手塚は本当にどうでもよいのである。手塚はここまで捨て身で作品書いていたのである。

漱石は「昔の武士のように命をかけて」文学をやった。三島は切腹までしてみせた。だが手塚には彼らにはない「巨大な信頼」とでも呼ぶべきものがある。何に対する信頼なのか正直わからない。女性に対する、人生に対する、生命に対する信頼とでも言っておこうか。漱石や三島の危機意識は思想や行動を生む。だが信頼は子孫を生む。手塚を後継していった人々の膨大なエネルギーはアニメに流れ込み、今や世界に広がっている。

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わたしのしている作業は、精度の高い読解のためである。手塚のファウスト理解の精度は、低すぎて話にならない。つまり手塚は落第生である。だが死ぬ間際に、「ファウスト」「坊っちゃん」「豊饒の海」「百物語」どれを読むかという選択があれば、迷わず「百物語」を読む。原作にたいして無理解なままで原作以上の魅力を持つ作品を書いたのだから、西洋文化との対決という漱石以来のミッションは手塚で終わった。ちなみに百物語の掲載は1971年7月~10月である。

1969年
7月:アポロ11号月面着陸

1970年
11月:「豊饒の海」完結。三島由紀夫事件

1971年
3月:映画「ベニスに死す」公開
7月:「百物語」連載開始
8月:ニクソンショック(金兌換停止)

1972年
5月:映画「ゴッドファーザー」公開

このときが人類史最大レベルの変革時代だったのだが、それを表す言葉をまだ見つけられていない。


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