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ヱリ子さん日記2022年10月「東京と風土、しゃぶしゃぶのマナー」

「Identification」
10月某夜
 夢を見た。私は東京の小さな事務所で、ドイツ国内での土地所有者の登記をしているらしかった。複数の国々が国境線をできるだけ遠く遠くへ引こうとした結果、今は領土の所有権が危うい情勢に入っているらしく、改めて所有者を明示するために登記が流行している。その混乱に便乗して、日本の富裕層たちがドイツ国内の土地を入手し、今、私が登記の手続きをしている。というのが夢の中の設定らしい。眠っている私はなぜかそのような背景をすでによく踏まえていて、ネット上の画面に2、3件の登記を連続で入力している。他国の領土を分捕る手伝いのような変な仕事をしているのに、わたしはグローバルなイマドキの仕事を新しく覚えている、といった薄っぺらい自負と小気味よさでそれをこなしている。にしても、なぜドイツ。手続きが終わると、登記簿にはISBNコードのようなハイフンつなぎの長い番号が表示され、この番号の付与が唯一無二を示すID、つまりアイデンティティになるようだった。
 私の書いた小説が落選したとき、「時代は確実に変わっています、一人出版社でもISBNコードを取得できます。やりたければ、知人を紹介することもできます」と言ってくれた人がいた。ISBNコードを取得する。それは、出版物として唯一のアイデンティティを獲得するような意味合いを持つようで、素敵だと思えた。ISBNコードは欲しいと思えたのに、マイナンバーがちっとも欲しくないのはなぜだろう。ISBNがあれば、出版界という宇宙の中の好きな場所に、レジャーシートを広げるみたいにして領土を持てるように思えるが、マイナンバーは誰かが決めた規格サイズのレジャーシートの上に、列になって並ぶための番号に思える。本当にそうなのかは全くわからない。それに、たとえマイナンバーが嫌でも、戸籍にさえ自分が載っていなかったらわたしはとても悲しい。
 夢はこの後も見ていたが、次のシーンはこの登記とは何ら脈絡のないもので、知人の男性が性的なニュアンスなく赤子のように私の膝に寝そべっていたので、夫にどう説明すればいいのかなと思いながら、ひとまずその頭を抱いていた。でも、次にその男性に会うときも、私はきっと夢のことは忘れて平然としてるだろう。私の見る夢は、とてもいい加減なのだ。


「グランドハイアット」
10月某日
 グランドハイアット東京で鉄板焼きを食べた。雨傘をコンシェルジュに預けると、案内係がわたしの椅子を引いて座らせ、後ろ髪をよけてエプロンを着けてくれて、さっそく気後れした。それに、荷物カゴにやたらたくさんの荷物を置いていて恥ずかしい。鞄から水筒がはみ出しているのも。色々と勧められたけど、わたしは一番安い、というか追加料金なしの豚肉のコースを頼んだ。何しろ、バリウムを飲んだすぐ後なのだし。
 久しぶりに夫の扶養に入ったので、4年ぶりの人間ドック受診の後、ここで無料で食事ができる。なぜか、Amazonのクーポン券までもらえる。たいていは国保に入っているのだが、こうしてたまに夫の扶養に入ると、わたしの福利は急に向上する。社会の矢面から離脱するとなぜかアメが降ってくるとは、なんたるディスパワメントよ...。恵まれた話だとは思うけど、正直意味は分からない。そういえば、年下の超高収入の男の子は、結婚相談所に登録すると、二十人くらいの適齢期の女性が密集している料理教室に男一人で放り込まれ、その中で一番好みだった子とゴールインしたらしい。でっかいアメの威力は凄い。破壊力という意味でも。
 料理人は鮮やかな手つきで食材を焼いてゆく。鱸にバタークリームみたいな板が載せられ、それがジュワジュワ溶けだしている。わたしと、それに両隣の男性たちにも、同じものが供される。うんまい、うんまい。そして次は、豚肉だ。綺麗な赤いお肉が、野菜とともに丁寧に料されてゆく。しかし豚肉の左右では、ホタテ、白身魚のトリュフ包み、黒毛和牛が次々に並び、わたしは何だか焦り始めた。急に瀟洒なビルが両隣に立ってしまった民家の矜持で、豚肉を待つ。結局、五島列島産の八ミリ四方ほどの塩の結晶を乗せてその豚肉を食べると、信じられないくらい美味しかった。あーうんまい、うんまい。

吹き抜けが気持ちいいテラス席に移動して、デザートのシャーベットをいただいた。子宮検診で、軽い病巣のあるその辺りをグジャグジャいじられたからか、お腹が痛くて気が滅入ってきたところへ、身なりのいい中年女性グループがテラス席に賑やかに入ってきた。女性恐怖症気味になって、もう5年くらいは経つだろう。先週も職場が近い女友達とランチしたし、今週も娘さんが腹痛で登校が難しくなっているママ友に別のママから預かったお灸を届けるべく、夕方にお茶をした。けれど、わたしはたぶん女性恐怖症だ。オットノアニガベッソウニヒトリデスンデテサ、ハヤクシネッテオモッテルノ、ソシタラワタシタチガスメルノニ。シュウトメノジッカノノウカニマデアイサツサセラレテサ、ワタシノストッキングガササクレルッテノ!イジメトカヤッテモサア、ショウジキ、オカネガアルイエダッタラカイケツデキルジャナイ?ヱリコサンマッテ!エリコサンコンニチハ、愚痴デス!それらの言葉はすでに遠くて、すぐに吹き抜けの高い天井に舞い上がり、風の粒になって消えてくれた。きっとまた、ふとしたときに聞こえて、すぐに消えてくれるだろう。それにしても、でっかいアメの威力はやはり凄いのだと思う。破壊力という意味でも。


「ノーパンしゃぶしゃぶと人の言ふ」
10月連日
そのワードは、不意にボスから放たれた。しかも、秋晴れの、けっこう気分のいい日にだ。断わっておくが、別にボスはセクハラ野郎ではない。ただ、わたしとボスは仕事中によく雑談をしていて、ボスはビジネスマンなわけで話題はたいてい時事放談であり、その文脈でボスはそれを放ったわけだ。「ノーパンしゃぶしゃぶとかさ、官僚が行ってたよね。」
 遥か昔、まだわたしが耳のうしろに細い三つ編みを二本垂らしていた小学校低学年の頃に、そのトピックはテレビを賑わせていた。くにのやくにんが、そこにいってあそんでいるらしい。そして、それはだいぶ、えろくてはずかしいことなのではないか。物心つきたてのわたしは、そう思っていたのを覚えている。
 そしてそのワードは、時空を超えておばさんになった私の10月の日々を狂わせた。まず異様すぎて、その場面の想像すらつかない(映画に出てくるような一般的な風俗店の方が、まだちゃんと想像できる)。だいたい、パンツを履いてない女性がいる中で、しゃぶしゃぶしたいと思う神経が全くわからない。しゃぶしゃぶするんだからさ、むしろパンツくらい履け。絵は浮かばないのに、あまりに強度のあるその字面が、わたしの生活からあらゆる詩情を奪っていった。通勤中にKindleで大江健三郎を読んでいるときも、宮本常一写真集を眺めているときも、わたしの識字力や情景想起を「ノーパンしゃぶしゃぶ」が破壊してゆく。国が狂うとこんなことがおばさんの頭の中で起きるのだと初めて知って驚いたが、別に知らなくても良かった類の件である。

かのワードに頭を悩ませながら、せめて何か文章を書くべくマックに寄ると、二十歳くらいの綺麗な女性店員さんが、今季新発売の白い三角パイを勧めてくれた。まだ半袖の制服から覗いている二本の腕には、今まで目にした中で最も無残だと思えるくらい幾重にもリストカットの痕があった。わたしは思わず、「だいじょうぶですか、手」と言ってしまった。女性は少し笑って、パッと両腕を後ろに隠した。「お大事になさってください」と言うと、小さい声でありがとうございます、とその人は言ってくれた。何も言わない方がよかったのかもしれないとか、あの子は自分で選んで半袖を着ているのだろうかとか色々思っていると、また「ノーパンしゃぶしゃぶ」がわたしの脳を襲った。まったく、なんてこったである。
 けれど、そのワードが頭の中にずっと貼りついているうちに、何だか全てがつながっている気がしてきた。1990年頃に官僚がそんな場所に出入りしていたことと、今40代になった私になぜか無料で豪華ランチが降ってきたことと、今20歳くらいの女性が腕に酷い傷跡を抱えていることは、つながっているのかもしれない。それも、案外近いところで。東京には、電車で行くとすごく不便で遠いのに自転車で行けば実は近い場所なんて、たくさんあるのだから。




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