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そっと載せておく愛らしいエンタメ青春小説『西瓜』

(15000字くらい)
  さっきから、右脚の靴下がずり落ちてくる。つり革につかまったまま、私は脚をよじらせる。車内は通勤客や通学客の他に、海へ遊びに来た観光客もちらほら見える。かろうじて肩が触れ合わずに自分のスペースを確保できる程度の混雑で、屈んで靴下をなおすには、少々気を使う。
「俺さ、社会は得意だろ」
  私の右隣でつり革を弄びながら話すのは、高島慎介だ。同じ小学校からこの中学へ入学した腐れ縁だ。
「何言ってるのよ。木島君にノート丸写しさせてもらってるくせにさ。あんた、そういうの本当よくないから」
 葉月が、口うるさい女子の代表みたいな声で言う。
「ええっ、そんなことまで知ってるわけ?おお、怖え。女子って怖え」
 高島慎介は、最近妙にすらりと伸びてきた手脚を持て余すようにして、狭いスペースに窮屈そうに収まっている。一年生のときは、私の背とそんなに変わらなかったはずなのに。私は頭を持ち上げて、そっと高島の横顔を盗み見た。切れ長の目から伸びた長い睫毛が綺麗に影を作っている。
「高島ってまつげ長っ」
「んあ?」
「真帆、何?会話つながってないんだけど」
 葉月が長い髪を揺らして、ゲラゲラと笑った。
「あ、ごめん」
「何、素直に謝ってるわけ、真帆ウケるなぁ」
  葉月が調子よく喋ってくれるから助かる。最近の私はどこか浮き足立っていて、高島とうまく話せない。高島の睫毛が長いなんて、今この瞬間までちっとも気付かなかったな。だんだん身長に差ができて、高島を見るときの角度が前とは少し違っている。
 「俺、この前の期末テストはマジですごかったし。今日、通信簿もらったらさ、後で見せてやるよ」
  男子特有の軽やかさで靴の先をポンと蹴り上げて、高島慎介はへらへら笑っている。制服のズボンを折り返し丈を短くして履いているから、無防備な脛はよく日焼けしている。ショルダーバッグを軽々と背負って、大きな声にもずいぶんと覇気がある。バスケットボール部で、一年のときから上級生に混ざってレギュラーを争っていたらしいが、背が伸びてきたおかげだけではないだろう。さりげないしぐさから、体のキレの良さがうかがえる。もっとも、この海辺の街の夏は、わけもわからず駆け出したくなるような開放的なムードが漂っていて、高島みたいにエネルギーを持て余している男子は珍しくないけれど。
  がたん、ごとんと揺れるレトロな電車の車内からは、朝日を浴びてキラキラ光る海が見える。今日は波がいいのか、沖合でサーフィンする人の姿がよく見える。海の家はまだ開店前だ。ぽつぽつと浜辺に咲いている赤や青のパラソルを見ると、なぜか空気がむんむんと暑くなる気がする。踏切を通過するとき、フレンチブルドッグのリードを握ったおばさんが汗を拭き拭き、横断を待つ姿が見えた。この街は夏を中心に回っている。
「んもう、真帆、降りるよ」
 窓外の景色に見とれていると、葉月の声にやっと降車駅であることに気付いた。こっちを振り返っている高島慎介とも、バチリと目が合う。急に心拍数が上がって困る。本当に、最近の私は心が妙に浮いている。この街で中学生になって一年と少しが過ぎようとしている。あと二、三日で、肌が痛いくらいに日差しが強くなるだろう。

  駅を出ると、うちの中学の生徒が、大小の群れをなして学校へ向かっている。髪型や制服の着こなしで、だいたい学年がわかる。一年生は、スカート丈を違反している女子は少ないし、男子は判で押したように模範的な制服の着方をしている。そして、高島みたいにズボンの裾を折り返して、こなれた感じをいちいちアピールしてる奴は、たいてい二年だ。終業式の今朝は、通学する学生たちもどこか明るい。明日から夏休みだと思うと、ほっとするような頼りないような、変な気持ちだ。

  生徒たちの波に乗って、私たちも移動する。私と葉月と高島慎介。三人でいるとなんとなく私が疎外され、気付くと二人の後ろを歩いている。葉月と高島は中学に入ってから同じクラスになってないはずなのに、通学でよく一緒になるからけっこう親しくなっている。私は急に思い出して、さりげなく右脚の靴下を上げなおした。学校では長めの靴下が流行っていて、私も意識して選んでいる。私の脚は細くてけっこう綺麗だ。制服を着るようになってからだんだん脚を褒められることが増えて、ちょっぴり鼻が高い。
「真帆は夏休み、どうするの」
 後ろを振り返って葉月が聞いてくる。高島慎介も振り返る。
「あ、ワタシ。えと、おばあちゃん家に行くのと、塾の夏期講習。そんくらいかな」
「えー真帆、まじめか」
 葉月がいたずらっぽい笑顔を向ける。少女らしい色香がある。
「葉月、可愛い」
「は?真帆、話聞いてるの」
 だめだ、すっかり舞い上がっている。調子っぱずれな歌でも歌っているみたいに、私の受け応えはとんちんかんだ。
「私、国語がさぁ。中間テストがだめだったから、通信簿に響いてると思うんだよね」
「葉月なら大丈夫だよ。もともと頭いいもん」
「お、真帆。葉月を褒めてもいいことないんじゃね」
 高島慎介の背中が私の目の前に来て、お尻辺りにあるショルダーバッグにぶつかりそうになった。
「私は成績、普通くらいあればいいや。うちの親、熱心じゃないし。るーちゃん、頭いいから」
 るーちゃんというのは、私の双子の兄で「優琉(まさる)」という。ちゃらんぽらんな癖にやたら成績がいい。私とは違う中学を受験して、もう少し丘の方にある頭のいい男子校に通っている。
「そっか。真帆ん家は、美人の真帆ちゃんと頭脳のるーちゃんで、いいよねぇ」
「それ、私が馬鹿みたいじゃんか」
 三人でどっと笑う。今のは、ちょっと上手に喋れたかな。
「高島もさ、塾の夏期講習に行くんだっけ。駅前の塾でしょ」
「おお。部活と重ならない日はな」
「んじゃ、高島と真帆、塾で一緒になるかもね」
「いやでも、俺は特進クラスだと思うよ。まじで」
「は?もう、どこまで嫌な奴。無視していいよ真帆」
「んははは」
 私は上ずった笑い声をあげていた。
「あ。やべぇ」
  高島が急に体をきゅっと固くして、素っ頓狂な声を上げた。
「朝練ない日は二年もロッカー掃除の当番になるんだった。今日は俺だったかも。ちょっと見てくる」
  風のように走り出す。ピアノ曲が急に速い旋律になったみたいに、高島の体は自然に流れてゆく。
「いってらっしゃい、下っ端くん」
「ちげえよ葉月、俺エースエース」
 走り始めた高島は振り返りながら、
 「行ってきます、真帆さん」
  と言った。今朝、バチリと目を合わせるのはこれで二度目だ。
 「どへー、真帆さんだって」
 「あ、はい。いってらっしゃい」
 「真帆も、どこの上品な女子だっつの。高島と真帆の会話、笑える。お笑いコンビできるよ。空気読めない二人で笑わせるってやつ」
 葉月が私に腕を絡めてきて、ちゃきちゃきと楽しく喋る。葉月とは、二年で同じクラスになってから仲良くなった。いつも同じ駅で乗降するけど、それまで喋ったことはなかったから。仲良くなったとは言っても、まだ一学期しか一緒に過ごしていないから、内心ちょっと緊張している。葉月も私も、女子の中では運動神経がいいのに、部活はやっていない。ちゃきちゃきと喋る方だから女らしく見られないけど、二人ともロングヘアにしている。そんなところで、ちょっと意気が合っている。この夏休みに一緒に遊べば、親友になれるだろうか。私たちのクラスの女子はまだ関係が曖昧で、二学期からがらりと仲良しの組が変わる可能性もありそうだ。今のところ、私は葉月と仲良くなりつつある、というわけだ。
「私も行こうかな、夏期講習。何にもすることないんだもん」
「地元の友達とは遊べそう?小学校時代の子とか?」
「うん、ちょっとはね。小学校でも私立受験組は結束固かったからさ。やっぱり何かの目標に向けて一緒に走るっていうのがいいんだよね」
  葉月らしくない批評だな、と思ったりする。葉月のママがそう言っていたんだろうか。
 下足棚で靴を脱いでいると、同じクラスの女子が数人やってきて、挨拶がてらお喋りに興じる。大人と同じ無制限のスマートフォンを持っている子とそうでない子で、今ちょっとクラスの中が分かれてきた感じ。私は持っていないからその分楽ではあるけれど、話題についていけるように流行の動画や歌は家のパソコンでチェックしている。私は皆に合わせて笑ったり喋ったり、相槌を打ったりする。校舎に嵌められたステンドグラスが、朝日を浴びて床に色の影を落としている。午後になると長く伸びてしまうこの美しい影が、今は短く、その幾何学模様を精緻に再現している。
「通信簿か」
  私は上履きのつま先を床でとんと叩きながら、ひとりごちた。二年生に上がって初めて通信簿をもらうから、皆、自分がどのくらいの順位なのか、内心ちょっと気になっているのかもしれない。
 教室に入って、窓際の自分の席に座わる。何気なくグラウンドに目をやると、高島がいた。はっとして思わず頬杖を浮かせ、窓外に視線をやる。友達数人と一緒に、グラウンドを横切って校舎に入っていく。膝のばねを使って悠々と大股で歩く高島慎介は、やっぱり前よりどこか男っぽい。誰かが何かを言って、高島の一団にどっと笑いが起こった。さっき一緒にいたときよりも、私は心を落ち着かせて高島慎介を観察した。この二階の教室から相手が気付かないうちに、ただじっと見ている。私と高島慎介。このくらいが、ちょうどいい距離かもしれない。
 担任の教師が入ってきて、教室は俄かに静かになった。始業のチャイムがもうすぐ鳴る。高島は校舎とグラウンドの境界に吸い込まれるように、私の視界から消えていった。

 

 放課後、職員室に寄るという葉月を廊下で待っている。手持ちぶさたなので、何となく上履きのつま先を見つめている。この春から、私の上履きは二十四・五センチになった。女子にしてはわりと大きくて、ちょっと恥ずかしい。目を上げると、渡り廊下の遥か向こうにグラウンドが見え、男子たちが制服のまま野球をやっている。Cクラスの男子だろう。背の順に整列したとき、いつも一番後ろに居る男子が、バッターボックスに立っている。二つ隣のクラスだからよく見かけるのだ、私も後ろの方にいるし。Cクラスは背の順、後ろから四番目が高島慎介だったなとぼんやり思う。アイツも、あの男子たちの塊の中にいるんだろうか。
  所在なくつま先に目をやったり、野球に目をやったりする。試合の状況など追っていない。ただ、目に入ってきた野球という景色を眺める。暑いな。暑くて、それに静か。蝉の声と男子たちのざわつきしか聞こえない。窓外の欅がつくる木漏れ日が、からかうように私の頬をなめては消える。
  女の子が一人、野球をしている男子たちの中に駆け込んできた。麦茶だろうか、紙コップに淹れた飲み物を手早く配っている。あの子、知ってる。松本陽香って子。高島と同じCクラスだ。最近、少しだけ茶色く染めた髪を顎のラインでぱつんと切り揃えて、ちょっと垢抜けた。ふうん、皆、この一学期でけっこう変わる。松本さんは、一人の男子にキャアキャア言ってじゃれ始めた。高島慎介だ。遠いけれど、シルエットからそれとわかる。松本さんに肩をポンポン叩かれて、高島ははにかんで背を丸める。二人の体が弾けるように、くっついたり離れたりする。ふうん、何がそんなに楽しいんだろ。気づけば、辺りはますます静かだ。真昼の学校なのに、ほとんど何の音も聞こえない。足が重い。二十四・五センチの上履きは、きっとまだ少し大きすぎるのだ。
「お待たせ、真帆」
 「あ、うん全然」
 葉月を待っていたことを急に思い出して、我に返る。
「真帆、顔色が悪いよ」
「うん、ここ日当たり悪いから」
「何、おばあちゃんみたいなこと言ってんの」
 葉月が破顔する。葉月はやっぱり可愛い。
「行こ」
 私と葉月の足音が、パタパタと廊下に響く。
「あ」
 渡り廊下を跳ねるように歩いていた足を、葉月が急に止める。
「あれ、高島だ」
  言うなり、
「タカシマー」
 と大声で呼ぶ。高島慎介がワンテンポ遅れてこっちを向き、葉月に手を振る。松本さんも、こっちを見ている。葉月が右手を挙げ、ひらひらと手を振り返す。帰り道、結局、葉月とは通信簿の話をしなかった。五段階評価で、私は国語と数学がCで、英語がBだった。



「ただいまー」
  家に帰ると、るーちゃんが餃子を包んでいた。食卓の椅子に長い脚を投げ出して、お母さんが前夜に作っておいた種を、るーちゃんがスプーンで掬って皮に乗せている。うちは、両親とも働いているから、夕飯の下拵えは私とるーちゃんが分担することになっている。るーちゃんは面倒なのか、水をちょいと塗って半月型に餃子の皮を閉じていく。パソコンに繋いだスピーカーから、流行のボカロ曲が流れている。
「ちゃんと餃子の襞、つけなよねー。横着者」
「まあ同じ味だろ。真帆も手伝えよ」
「ええ、今無理だよ。もう暑くて死にそう」
  扇風機の首を自分の方向に固定して、私は制服のまま、居間のソファに寝そべった。飼い猫のアッコがすぐにお腹に乗ってくる。陽に焼けた畳が午後の陽光に照らされて、溜まった猫の毛やら埃やらを鮮明に浮き上がらせる。今どき、畳の上にカーペットを敷いたリビングも珍しい。読みかけの雑誌やママの化粧ポーチが、朝と同じ位置に雑然と置いてある。共働き家庭のいつもの風景だ。
「るーちゃん」
「何」
 何か喋りたくて、るーちゃんを呼んでから話題を探す。
「通信簿、どうだった」
「うん、普通」
「普通かぁ。いいなるーちゃんは」
 るーちゃんが「普通」と言うときは、たいていとても良いのだ。双子だが、性別が違ってよかったなと思う。るーちゃんは、それでも私が傷つかないように、小さい頃から気を使ってくれていた。わざと計算の速さを私に合わせたり、ちょっと漢字を間違えてみたり。
「ママ、喜ぶよ」
 アッコの顎を撫でながら私は言う。ママは、自慢のるーちゃんが二年でも良い成績を獲ってきたら、嬉しいに違いない。
「なんかさ、私は一学期、学校微妙だった」
  るーちゃんは黙ったまま、器用に餃子を皿に並べる。返事を待つが、るーちゃんは椅子の上で脚を組み替えただけで、作業に没頭しているフリをする。「んもうっ、何か言いなよ」
  るーちゃんは最近ちょっと口数が減っている気がする。男子ってだんだん喋らなくなるらしいから、るーちゃんもその類なんだろうか。
(高島慎介はよく喋るのに)
   不意に高島のことが浮かんで、ちょっと鼓動が速くなる。走り出した胸の鼓動を悟られないように、ごろりと向きを変えて、私はそっとるーちゃんに背を向けた。アッコが私の胸からぱっと離れて、カーペットの上にひらりと着地する。るーちゃんに何か喋ろうとするのに、何にも思い浮かばない。私とるーちゃんは少し前まで、何と言うか、もっと近い感じだったのに。二卵性双生児だけど、見た目だって前はもっと似ていた。
  ソファで横向きに寝ると、微かに膨らみつつある左胸が押しつぶされた。乳頭がやたら痒い。きっと明日にでも、また少し胸が大きくなるのだろう。まったく、嫌になっちゃう。

 

   坂道を歩いて下る。スカートの中に風が吹き込んできて、脚が涼しい。頭の後ろで髪が揺れるのを感じながら、一歩ごとに低くなる視界を私は楽しむ。家々の屋根がずんずん近づいては、頭の上に抜けていく。遙か向こうに見える空の青と海の青の境目が、今日はくっきりとしている。陽暮れが遅いから、海はまだたくさんの人を抱えて、ざぶんざぶんと揺蕩うている。
   夏休みが始まって十日が経った。私は、家の手伝いで家事をしたり、地元の幼馴染と海へ行ったり、寝転がってるーちゃんやアッコにちょっかいを出したり、自分で買った漫画やるーちゃんが買った漫画を読んで過ごしている。お母さんがとうとう子供向けじゃないスマートフォンに契約を変更してくれたけれど、夏休みだしまだあんまり友達とは連絡を取っていない。ひとまず、ゲームをインストールして遊んでいる。昨日から塾の夏期講習が始まった。毎晩、数学と英語が交互にある。夏期講習とは言っても、ごく牧歌的な雰囲気だ。この辺りの公立中学の子たちは、たいてい近所の三つの高校のどれかを受験するので、受験戦争とは程遠くのんびりしている。私のように中高一貫の私立に通っている子は、当面は受験もない。皆勉強のためと言うよりも、親は退屈を持て余す中学生の居場所を安定させたいから、夏期講習に通わされている。坂を下ると、商店街のアーケードを端まで歩いて、「K高合格ナンバーワン、〈中高一貫校生徒随時募集〉と書かれた扉を開けて中に入る。るーちゃんは、この塾には来ていない。もっと優秀な子だけを集めた遠くの塾に通っている。
   教室に入って、空いている席に座る。エアコンで冷えた部屋は蛍光灯の光でばかげて明るい。今夜の数学は、計算の復習から入る。夏期講習の一日目だから触りみたいなもんだ。ホワイトボードの左端から先生が綺麗に板書していき、私は色とりどりのペンでマーキングしながら、端にメモしていく。隣の男子の貧乏揺すりが気に障る。一番後ろに座っている数人の男子たちが、方程式のXをエッキス、エッキスと呼んで遊んでいる。「エッチ」と「キス」がくっついた言葉みたいだから、嬉しいんだろう。男子って本当に馬鹿みたい。
  高島慎介は、今夜は塾には来なかった。授業が終わって、右側の壁に目をやると、一般模試の成績優秀者が張り出してあって、高島慎介の名前があった。ずいぶんと上位にいる。きっと本当に成績が伸びてきてるんだ。終業式の日も、自信ありげだったもんな。
  私はトイレの鏡でリップクリームを塗り直してから、外に出た。すっかり夜になっている。風が気持ち良くて、私は商店街のアーケードから一筋違いの海沿いの国道まで出た。ちゃんとした歩道がないから、車道の端っこをてくてく歩く。潮の匂いが微かに鼻を掠める。大学生くらいの男女が、騒々しい音楽をかけたオープンカーに乗って、ガヤガヤ言いながら通り過ぎて行った。こういう車は、夏は本当によく見かける。湿った夜気のせいだろうか、私はなんだか妙に気分が良くて、好きな歌を少し大きな声で歌った。
「真帆」
 後ろから呼ばれて振り返ると、そこには高島慎介がいた。
「ひゃあっ」
  私は小さな悲鳴を上げた。
「なんだよ、俺そんな怖い?」
「だって、いきなり高島なんだもん」
  ああびっくりした。私の歌、聞こえてたかな。高島は、組んだ両腕を小ぶりの自転車のハンドルに器用に乗っけて、前傾姿勢のまま運転している。五分丈のGパンを履いた脚が長すぎて、漕ぎ辛そうだ。へらへらと笑った顔は、終業式のときよりよく日焼けしている。まったく、高島が急に現れるなんて。
「えっと、高島どこ行ってたの。今日、塾に来なかったじゃん」
「ああ。俺さ、最近アタマいいの。で結局この夏はさ、優琉と同じ塾に行くことにしたんだよ」
「るーちゃんと同じ塾なの。すごいじゃん高島」
「おおっ、俺成績すごい伸びてんの。優琉より賢くなるかも、俺」
  高島とるーちゃんは、小学校が一緒だったから知り合いだ。もっとも、高島は小学校の六年間ずっと私と同じクラスだったから、高島とるーちゃんが同じクラスになったことは無い。
「るーちゃんより賢くなるなんて、そんなわけないじゃん」
 私は少し腹が立った。るーちゃんの頭脳に嫉妬している癖に、やっぱりるーちゃんの成績は私の自慢なのだ。
 「やっぱ優琉っ子だな、お前は。残念だねぇ、双子だから結婚できなくて」
 高島はくつくつ笑っておどけた。器用に八の字に自転車を漕いで、私のスピードに合わせている。
「そりゃあ、るーちゃんと私はお腹の中からずっと一緒だったんだよ。きっと、結婚相手より仲は深いよ」
「そうか。そうだよな」
 高島は、なぜか急に真剣な顔になった。私は俄かに身を固くして、唇を少し噛んだ。微かに、リップクリームの味がした。
「えっと。小学校の友達と夏休みに会った?」
  私は話題を変えた。
 「おおっ、琳太郎とか真人とか、たまに一緒に海に出てるよ。真人のお父さんがサーフィンしててさ。ちょっと教えてもらってんの、俺ら」
  あの琳太郎や真人がサーフィンをしているなんて、想像もつかないや。
「懐かしいよね、六年二組」
「おおっ、そうだな」
「六年間、高島とずっと同じクラスだったし」
「おおっ、俺らもけっこう長いよな。優琉には負けるけどな」
  私と高島の会話は、ここで急に途切れた。高島の横顔を海沿いの街灯が照らしている。その横顔に、私は昔の高島の面影を探した。家にある小学校の入学式の写真には、ピンクのコサージュを右胸につけて、あどけない顔をこわばらせて収まっている高島の姿がある。柄にもなくピアノが上手くて、小学校の合唱祭ではよく高島がピアノを弾いた。寒い講堂で、いつも出番の直前までカイロで指を温めてたっけ。五年になって高島はピアノを辞め、それからは別の女子が弾くようになった。思えばその頃から、高島はちょっとずつ逞しくなっていたかもしれない。
  高島と私は、しばらく黙って一緒に歩いた。時折、カップルや犬の散歩をする人たちとすれ違った。夜の街を往く人々は存外、皆楽しげだ。高島と黙って歩いていても、今は気まずくなかった。夜の海は黒く、遠くの街の灯がその水面を微かに照らしていた。
「俺さ、松本と付き合うかも」
 突然、高島がぼそっと言った。急に鼓動が鳴りだして、困る。
「松本ってさ、俺のクラスの女子」
「ん、知ってる」
  松本陽香でしょ。いちゃついてたじゃん、終業式の日。私は言葉を飲み込んだ。
「告白された、終業式の日」
「そうなんだ」
  なんでこんな話、私にするんだろう。お互いに目を合わさない。高島は相変わらず自転車を八の字に漕いでいる。少し眉間に皺を寄せて、難しい顔をして。二人とも、また黙ってしまった。高島の自転車のタイヤが急にぎいぎいと音を立てはじめた。
「私、次の角で曲がるね」
「おお、俺も行くわ。真帆、夜道気を付けろよ」
   私が顔を上げると、高島の自転車はもうすいすいと進んで遠のいていた。耳の奥には、まだ高島の声が残っている。
 「付き合うってなんだよ、高島のくせに」
 私は声に出して言ってみた。右足を強く蹴り出して、坂道を走って上がってみる。途中、真っ白の太った猫がふらりと出てきて、どこかの家の軒へすぐに消えていった。
  家に帰ると、るーちゃんはもう先に帰っていた。
 「真帆、おかえり」
   るーちゃんは三種類の袋菓子を丁寧に皿に並べて、ぽりぽり食べていた。アッコが食べカスを狙っているのか、前足を行儀よく揃えてるーちゃんの傍に座っている。普段の夕飯は私とるーちゃんだけのこともあるけれど、夏休みは毎晩、パパとママが帰ってから皆で食べるから、夕飯前にお腹が空いてしまう。
「るーちゃん帰ってたんだ。ただいま」
「ん。真帆もお菓子食べる?」
 「食べる」
  私は冷蔵庫からコーラの缶を二つ出して、一つをるーちゃんに渡した。
 「ああ、冷たい。気持ちいい」
  頬や額にコーラの缶を当てると、なんだか元気が出てくる。
「帰りにさ、高島に会ったよ。なんかね告白されたらしい」
  私はからりと言ってのけた。
 「ん、知ってる」
 「何、あいつ言いふらしてるわけ。デリカシーない奴」
 「いや、告白じゃなくて。真帆が高島に会ったこと。帰り、一緒に歩いてたろ」
 「見かけたんなら、るーちゃんも一緒に帰ればよかったじゃん」
  るーちゃんは、コーラのプルトップに長い指をかけた。パチンと音がして、しゅわしゅわと泡が噴き出す。 るーちゃんはすかさず唇を当て、泡を綺麗に吸い取った。
「僕はさ、デリカシーあるから」
 るーちゃんはそれ以上何も言わずに、喉をこくこくと動かした。

夏休みも後半になるといい加減やることがないので、学校の宿題をしている。机の上に左脚だけ投げ出して我ながら変な体勢だと思うが、こんな風に態度が悪いのって何だか妙に楽しい。七時を過ぎてやっと外は暮れてきたようだ。窓の外から漏れる陽光がいつのまにか僅かになっていて、私は勉強机の蛍光灯を点けた。ややあって、ドン、ドン、と胸に響く低い轟音が鳴った。いやだ。雷だろうか。夕立と呼ぶには少し時間が遅い。今年は、東南アジアのスコールのように、激しい雷雨がよく降る。それが降ると、俄かに海が灰色になり、海で遊ぶ人たちの色とりどりの水着やパラソルが急にもの寂しく見える。この夏の夕立が私は嫌い。ドン、ドン。また鳴った。まだ雨は降らない。窓を開けて、手を外に伸べてみる。雨を感じない。
 「あっ、花火」
  私は思わず声に出した。今日は花火大会だったことを思い出した。家にはアッコと私しかいない。るーちゃんは、中学の夏山合宿に行っている。
 「アッコおいでよ、花火だってさ」
  私は半ば無理やりアッコを呼び寄せた。ニャーと鳴いて、アッコは私の足元にすがりついた。窓外から、微かに群衆のどよめきが聞こえる。私は確かに胸の高鳴りを持て余している。嫌だなぁ、こういうの。
 「アッコ、どうしようね」
  花火大会なんて、一人で行っても虚しいだけかな。誰とも約束していない。外の熱気が苦しいほどに伝わってきて、まるでこの街から疎外されているみたいに、どんどん寂しくなってくる。屈んでアッコをぎゅうぎゅう抱きしめると、アッコは華麗に身をかわしてしまった。つれない奴。花火大会の日に家に独りで居るなんて、これはけっこう堪える。苦し紛れにテレビのバラエティ番組をつけてみたけれど、ヤラセの笑い声が妙に白々しくて、ちっとも面白くない。花火の響きは誤魔化せない。
 「そうだアッコ、見晴らし坂まで行かない?」
  アッコを外に出してやったら気ままにどこかへ行ってしまうことはわかっているけれど、私はわざとアッコに話しかけた。見晴らし坂なら、綺麗に花火が見える。それに、あそこならきっと知り合いには誰も会わない。友達同士で約束している子たちは、海岸の方まで見に行くはずだもの。私は鏡の前で髪をなおし、Tシャツと短パンのままでアッコと一緒に外へ出た。ドアを開けたとたん、アッコは私を振り返ることもなく、とことこと隣家の軒へ消えていった。
 「バイバイ、アッコ。また後でね」

苦しいほどに、花火の音が胸に響いてくる。私は、その音に突き動かされるように駆け出した。急な石階段を一段とばしでテンポよく登る。サンダルを伝って、足の裏に地面がしっかりと感じられた。石の階段は、幅が細くなったり太くなったりしながら、上へ上へと私を導いてくれる。猛暑のせいか、脇に自生しているヒメジオンやセイタカアワダチソウは、くたんと萎れて元気がない。登りきる頃には、すっかり息が切れていた。力無く脚を動かして脇道を抜けると、やっと見晴らし坂の中腹に出た。坂の上の方に人が集まっている。あそこまで行かないと、きっと見えないのだ。私は一歩一歩、見晴らし坂を上っていった。ドンと、ひときわ大きな轟音が響き、振り返ると突然、真正面の夜空に大きな花火が描かれていた。
 「わぁ」
 私は思わず、感嘆を漏らした。赤、青、紫。色とりどりの花火が一瞬のうちに輪を描き、ゆっくりと光の筋を残して消えていく。私はじっと、花火に見入った。高島慎介とはあれ以来会っていない。夏休みもあと八日で終わりだ。花火、高島も見てるのかな。松本陽香と見てるんだろうか。かすかな火薬と煙の匂いを感じながら、私は眼を見開いて、次々に打ち上げられる花火を見つめた。花火の煌めきと共に、色々な感情が湧いては消えたけれど、私はそれが怒りなのか悲しみなのか孤独なのかわからなかった。あるいは、どれでもないのかもしれない。目の奥が少し痛かった。それに、胸の奥も。

   見晴らし坂の風景は優しかった。甚平や浴衣に包まれた幼児たちは、団子のようにぎゅうぎゅうにくっついて、花火が上がるごとに嬌声を上げた。時折、車が通るたびに、それぞれの子のパパやママが俄かに目を走らせて、そっと我が子の無事を見守っている。大人たちは皆、私と同じようなTシャツと短パン姿でゆったりと腕組みしている。もうお風呂に入ったのか入っていないのか、タオルを首に巻きつけた人もちらほら見える。脚の悪いおばあちゃんはちゃんと持参の椅子に座って、息子さんに付き添われて花火を見つめている。皆一様に頬を上気させ、家族の輪に包まれて寛いでいる。この坂道に集う者同士、私も次第にその一体感に包まれ、ツンと尖がった心の痛みが少しずつ和らぐの感じていた。昔は花火、私もパパとママとるーちゃんで、海岸の方まで見に行ってたんだったな。小さかった自分が懐かしい。最近はなんだか胸がぞわぞわする。まるで波が寄せては返すうちに、ある場所に少しずつ潮だまりができていくように、心に何かがどんどん溜まって大きくなってゆく。この迫りくるものが何なのか、私にはまだよくわからない。ドンドンと、花火は続いている。今年の花火は妙に切ない。

   不意に飛び出してきた二人乗りの自転車が、ブレーキの金切り音を立てて私の傍らに止まった。目の端に捕えたのは見慣れたシルエットだ。顔を横に向けてまっすぐに目ると、それは高島慎介だった。
「高島」
  私は、何だかよくわからないまま呟いた。
 「ここで、何してるんスか」
  高島はきまり悪そうに小さく鼻で笑い、変な敬語で話した。
 「ん」
  どうしよう。私は下を向いて自分のTシャツと短パンを見つめた。Tシャツに描かれた向日葵の花のプリントが、少しだけ欠けていた。高島が自転車の後ろに乗せていたのは、琳太郎でも真人でもない。松本陽香でもない。ピンクのラメが散りばめられた紺色の浴衣を着た女の子。それは葉月だった。

  葉月は、中学で会うときとは別人みたいだった。髪を結いあげて、少し日に焼けた首を露わにし、闊達な風情で浴衣を着こなしている。少女の色香の奥に、女が透けて見える。まるで、蝶の姿を秘めた薄緑色のさなぎみたいに。葉月はただ黙ったまま綺麗な笑顔を私に向けている。私が真帆だとすら気づいていないみたいに。一学期に仲良くなったあの気さくな葉月は、どこにもいないのだった。
  私も、高島も、葉月も黙っていた。私はきっと、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしているに違いない。高島はただニヤニヤと笑い、葉月は美しい笑顔を崩さなかった。とても長い時間、私たちはそうしていた気がする。花火はフィナーレを迎えていた。ドンドンシャラシャラと辺りに音を響かせている。自分の顔が明るく照らされるのを感じる。
 「これ」
  高島が口を開き、ポケットを探った。
 「お前にやる」
 高島がおもむろに取り出したのは、西瓜の皮だった。
「やる」
 高島はもう一度言い、手を伸ばして私の掌に西瓜を握らせた。赤いところは喰い尽くされて、白いところをわずかに残した西瓜の皮である。白いところに、無作為に歯形がついている。高島は鼻の下をこすった。葉月は相変わらず同じ笑顔を向けている。
 「それ、捨てといて」
 高島は言い終わらないうちに、疾風のように走り出した。見晴らし坂を自転車はスピードを増して降りていく。落ちていくみたいに降りていく。私は手の中に遺された西瓜を見つめた。乾いた緑と黒が綺麗な縞を成し、わずかに青臭い匂いを放っている。
 「高島のばかぁ」
 私は高島の背中に向かって、力いっぱい叫んだ。高島の自転車は坂を下りきり、すぐに小さくなって花火みたいに消えていった。西瓜の汁が私の掌をじわりと濡らしていた。(終わり)


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