平成最後の新緑の季節、僕は牧春牧に恋をした。
思い起こせば、第1話、春田(田中圭)はこんなことを言っていた。
「この何気なく誘った一言が、後に俺の人生を大きく揺るがすことになる」
今、この台詞を借りて、自分の気持ちを表現するならこれしかない。
「この何気なく観たドラマが、後に僕の人生を大きく揺るがすことになった」
いや、本当、ドラマ観て体調悪くなるとか、僕の自律神経どうなってんのかと思った。あれは今から1週間と少し前、テレビ誌に春田と部長(吉田鋼太郎)の挙式写真が掲載され、ふたりが同棲を始めるというネタバレが流れてからと言うもの、出てきた症状は次の通り。
■朝起きたらなぜか泣いている
■著しく労働意欲が減退する
■人混みの中でもなぜか泣いている
■指先が冷えて力が入らない
■夜ひとりになるとまた泣いている
■部長のインスタに殺意を覚える
僕にあと少しの理性が欠けていたら、確実に公式に凸るところでした。ありがとう理性。
もうとにかく心臓がずっと痛くて、何を食べてもまるで味がしない。道ゆく人波に牧春牧の面影を探して、向かいのホーム路地裏の窓こんなとこにいるはずもないのにってなってた。
もう恋ですよ、恋。平成最後の新緑の季節、僕は牧春牧に恋をした。
いつか年をとって、子どもができたときに、「ねえパパ~、パパは平成の終わりって何してたの~?」って聞かれたら、こう答えます。
「そうだねえ、一世一代の恋をしていたかなあ。相手の名前? アハハ。牧春牧って言うんだけど」
と……!
いや~、本当、何年かぶりに恋のときめきと、失恋の痛みを味わった。ふたりが楽しそうに笑っているだけでエベレストにだって登れる気がしたし、ふたりが苦しそうなときは、幸せになる羽毛布団とか売られたらホイホイ金出すっていうくらい落ち込んだ。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさも、みんな牧春牧と一緒だった。牧春牧と一緒に生きた7週間だった。
とにかく、出てくるみんなが愛すべきキャラクターだった。
勤続年数が長いまいまい(伊藤修子)が持ち前の経済力で鉄平兄(児嶋一哉)を札束で殴ってるような関係性も最高だったし、マロ(金子大地)のデコ出しはめちゃくちゃカッコよかったし、部長が春田との破局を告げた後、真っ先に泣きそうになっている蝶子さん(大塚寧々)の表情だけで涙腺が崩壊した。
最初は陰険そうに振る舞っておきながら、その実、もしかしたらどのキャラクターよりも愛する人のために一生懸命だった武川さん(眞島秀和)には、男のカッコよさとはこういうものだということを教えてもらったし、牧(林遣都)に対して焚きつけるでも励ますでもなく、痛みに寄り添うことで背中を押してあげたちず(内田理央)はめちゃくちゃ男前な女の子だったと思う。
そして、正直に言うと、春田は最後の最後までずっと流されっぱなしで。最終回は部長がひたすら可哀相だった。誰? 部長のことヒロインって書いたの? これ、ヒロインじゃないよ? 完全に東幹久がよくやってた役回りだよ? 自分のことを本当に愛してくれているわけではないと悟りながら、それでも愛している人を懸命に支えようとする部長に、初めて心が動かされた。紛うことなき牧春牧民だけど、どうか部長を幸せにしてあげてほしいと思った。
ともすると反発を招きそうな春田のキャラクターを最後の最後まで愛され役としてとどめることができたのは、もちろん田中圭という素晴らしい俳優の力があってこそだけど、そこに吉田鋼太郎という名優の力も多分にあったと思う。
人生で一番幸福な瞬間と呼んでも過言ではない、神様の前での誓いのキス。そのときに、ようやく春田は部長とキスはできないことに気づく。こんな残酷なことってない。
「はるたん、神様の前で嘘はつけないね」
これは、部長の乙女としての言葉だ。部長はいつだって「威厳ある上司」と「恋する乙女」の間で揺れ動いていた。部長はこの瞬間に、ついに恋する季節の終わりを覚悟する。長い、長い、幸せな夢の終わりを噛みしめる。
目の前で白いタキシードを着て泣きそうになっている人は、自分に新しい夢をくれた人だった。50歳を過ぎて、もう自分で自分をコントロールできなくなるような恋なんてするはずないとセーブしていた部長の心に、春田が踏み込んできた。もしかしたら、部長はこの1年間、いつかこの夢が終わる日が来ることをずっと予感しながら過ごしていたのかもしれない。だからこそ、そのときはちゃんとカッコいい自分で区切りをつけよう、と心の準備をしていたのかもしれない。
でなきゃ、あんな「いいんだ、わかっていた」なんて言えない。本当は辛いくせに、「はるたんのバカ!」って責めたいくせに、ちゃんと上司の顔になっている。口調にも、上司の威厳が備わっている。お人好しで、優柔不断で、どうしようもない春田を10年間、こうやって部長は支え続けてきたんだ。見守り続けてきたんだ。そう確信させる優しい目をしていた。
来賓が来ていたことを考えれば、「披露宴はとっくにキャンセルした」なんていうのも、春田のためについた優しい嘘だ。これからどんなに恥をかこうと、みじめな想いをしようと、春田に幸せになってほしい。部長は、ただそれだけを考えていた。
恋は、人を愚かにさせる。恋は、人を弱くさせる。
だけど、恋はとびきり人を強くさせる。優しくさせる。
最後の最後まで涙を見せず、愛する人のためにすべてを捧げた部長は、たとえ恋が報われなかったとしても、こう言わせてほしい、史上最強のヒロインだった、と。
『おっさんずラブ』の主題は、「人を愛するということはどういうことか」だと思う。その上で第7話を観てみると、人は誰かを傷つけなくては人を愛せないのだろうかと考えてしまう。部長は、たくさん傷ついた。牧も、いっぱい傷ついた。そして春田だって傷ついた、たくさん、たくさん。
春田は本当にわからなかったのだと思う、どうして牧が自分の前からいなくなったのかを。だから余計に踏み込めなくなった。人を愛するということがどういうことかわからないから、部長との関係にも保留ボタンを押し続けたのだと思う。
人が幸せに暮らしていくために必要なのは、ときめきか、居心地かと言われれば、居心地だろう。少なくとも部長との暮らしは居心地が良かった。だから、それを恋とは呼ばなくても、幸せと呼ぶことくらいは自然だ。全然責められることじゃない。春田は、確かに幸せだったのだと思う。楽だったのだと思う。
その中で、春田はずっと「人を愛するということはどういうことか」を考えていた。でも、そんなのいくら考えたって答えなんか出るはずない。だって、人の愛なんてそんなにロジカルでもスマートでもないんだから。
何が言いたいかなんてわからない。ただ沸き上がる想いに従うだけ。そばにいたいから、失いたくないから、強く、強く、抱きしめる。ただそれだけのことなのだと、春田はたくさんの人の涙を受けて気づく。
それが、あの告白の場面だ。
もう全然カッコよくない。日本中が待ち焦がれた、春田から牧へ「好きだ」と気持ちを伝えるシーン。ムードもへったくれもないし、勢い任せだし、ひたすら泣き叫んでいるだけだし、カッコ悪いにも程がある。
夢にまで見た春田から牧を抱きしめるシーンだって、子どもが母親にせがむみたいで、全然ロマンティックじゃない。
でも、くそう、どうしてだ、ちくしょう、涙が、涙が溢れて止まらないんだよ。不格好でも、情けなくても、この瞬間、春田がどうしても伝えたい気持ちを、ずっと言葉にできなかった気持ちを、やっと真っ正面から伝えられた。そのことが、愛しくて、嬉しくて、何度も口の中で「よくやった」って繰り返した。「やるじゃん、春田」って昔ながらの友達みたいな顔で、画面の向こうのボロボロの春田に声をかけた。
人を好きになるということは、どうしようもなく不器用で、無様で、滑稽で。でも、人を好きなるということは、とんでもなく無敵。最高にハッピー。そう春田が教えてくれた。これは、間違いなく春田の恋物語だったのだ。
そして、牧凌太。
なんだろう。ドラマの中の登場人物だってわかっているはずなのに、「お疲れ様」「良かったね」「よく頑張ったね」って、そんな労いの言葉しか出てこない。
ずっと自分の気持ちをこらえて、その宝石みたいな瞳に憂いをたたえ続けてきた牧。よくよく考えたら、牧が心底嬉しそうな顔って、このドラマの中でほとんど登場していないのだ。それがあのラストシーン、春田の上に覆い被さるように乗っかって見せた幸せそうな顔。「俺、もう我慢しないって決めたんで」という言葉。
やっと牧はありのままでいられる場所を見つけたんだ。気を遣ったり強がったりせず、我儘で欲張りな自分を出せる場所を見つけた。そこのことが何よりも嬉しい。100万回でも足りないくらい、おめでとうという気持ちでいっぱいだ。
さっき『おっさんずラブ』の主題は、「人を愛するということはどういうことか」と書いたけど、僕自身は、この『おっさんずラブ』の主題は「人の幸せは誰かが決めるものじゃない」ということだと思っている。
それは、男が男を愛するということもそうだし、それだけに限らず、世の中にはいろんな「あるべき幸せ」が溢れていて、僕たちはみんなその型に上手にはまれなくて、いびつな自分に落ち込んだり責めたりしてしまう。
でも、春田が言ってくれた、「勝手に決めんなよ」と。そう、幸せなんて誰かに勝手に決められるものじゃない。たとえ世界中の人がそんなの間違っていると言ったって、当の本人が幸せだと思うなら、それでいい。それがいい。
ずっと「あるべき幸せ」に囚われていた牧を、ようやく春田が助けてくれた。きっと童話なら、あの言葉がお姫様の呪いを解く王子の台詞だ。あの瞬間、やっと牧は自分が人生の主人公になっていいんだと気づいた。自分で自分にかけた呪いを、春田が解いてくれた。だから、牧もまた手を伸ばせた。ようやく自分を真っ正面から抱きしめてくれた愛しい人の背中を、ぎゅっと、ぎゅっと掴むことができた。
もしも愛に形があるのなら、それはこの人だと、あのとき、ふたりは確信した。そういうハグだったのだと、僕は思う。
正直、これだけいろいろと書いたけど、最終話について何か書きたいという気持ちは特にないのが本音で。すべてを見せてもらったからもう十分、というのが正直なところ。ただ今は、この柔らかなぬくもりをずっと反芻していたい。言葉なんて、無力で、余計だ。
でも、僕たちの人生は雑多で、きっと今、自分の全身を満たしているこの幸福感も、生活に摩耗され、少しずつ目減りして、やがて忘れてしまうんだ、こんなに愛しい物語があったことを。そして、また心がパサパサになって、すり減ってしまう。
だからせめていつか思い出したいその日が来たときのために、今この文章を残している。こんなにも誰かを愛しいと思ったことを、自分の人生を愛したいと思ったことを。忘れないように、取り戻せるように、ただただ言葉を連ねている。
もう恋なんてすることはないだろうと思っていた、あと少しで35の僕が、もう一度恋をしてみようと思った。誰かと幸せになる未来を、もう一度だけ願ってみてもいいのかもしれないと思った。たかがドラマと笑うなら笑え。でもたかがドラマに、僕はこれだけ救われて、生かされたのだ。
いつか年をとって、もしも、もしも子どもができたときに、「ねえパパ~、パパは平成の終わりって何してたの~?」って聞かれたら、こう答える。
平成最後の新緑の季節、僕は牧春牧に恋をした。そう、この物語は、僕の人生における、大切な、大切な、名場面のひとつなのだ。
追伸、2期についてご相談なのですが、ちょっとテレビ制作者のみなさんは「波風起こしてりゃ視聴者が喜ぶ」と思っている節があるので敢えて言わせてください。もはや我々が望むのは、何もない穏やかな暮らしです。新たな恋のライバルとか、ふたりの間を切り裂く重大な事件とかいらないです。ただただ春田と牧がイチャコラしているシーンを延々放送してくれるだけでオッケーです。
何だったらあれです、連ドラっていうより、番組と番組のつなぎでやっている3分番組とかでオッケーです。そこで毎回春田と牧の何でもない日常を流してくれたら、恐らく日本人の幸福度調査はブータンを超えると思います。番組名は『春田家の窓辺から』とかでいかがでしょうか。よろしくお願いします。
まだ続く追伸、ちなみにスピンオフなんですけど、牧目線でこの全7話をプレイバックするというのはどうでしょうか。ほら、どうしても春田目線なので、ちょいちょいこのとき牧が何を考えていたんだろうっていうのがあるじゃないですか。シャワーでずぶ濡れになりながら「好きだ」って告白した後とか。わんだほうで春田と言い合いになって飛び出して、ひとり天体観測しているところとか。告白成功した直後にシャワー浴びているドギマギとか。「しばらく会社行く時間ずらそう」って春田に言われた後コンビニに行ってる哀愁とか。とにかく牧のあれやこれやが観たいです。既存のシーンに追加撮影する感じでいいので、これまたよろしくお願いします。
ーーーーーーー以降、下ネタが大丈夫な人だけご覧くださいーーーーーーー
あと、最後にひとつだけ気になることがあるんですけど、いいでしょうか。
ラストシーンでプロレスみたいにじゃれ合いながら、ふっと春田が何か戸惑いみたいな表情を見せるじゃないですか。あれは、なんですかね、牧の男性的生理現象に気づいたという解釈でよろしいんでしょうかね。だとしたらものすごい踏み込んだ描写だと思うんですけど、すげえなテレ朝。なんというか、そのための巨根という設定だったということでよろしゅうございますでしょうか。ありがとうございました。
そして、もうひとつゲスなことを聞くんですけど、春田から牧のキスが寸止めで終わるのは単発ver.のラストを観たときから想像できた話なのですが、何と申しますか、撮影の裏側みたいなのを想像したときにですね、普通に考えたらシーン的には寸止めでカットなんだから、わざわざ直接ふたりがいたす必要はないと思うのですが、本当、何となく、何となくなんですけど、このふたりに関しては普通に春田から牧へのチューが現場ではあったような気がしてならないのは僕だけでしょうか。僕だけですね、本当、すみません。素晴らしい名作を本当にありがとうございました!!!
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