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一刀斎異聞

 天正十九年、伊藤一刀斎景久は神子上典膳に一刀流の道統を与え、自らは真に武術を極めるため、小野善鬼を連れて大陸へ渡る決心をした。そして、柳生石舟斎の計らいで、朝鮮に出兵する浅野幸長の軍に紛れ込み、二人は海を渡ることに成功する。文禄二年、一刀斎は日明の戦が途絶えたのを機に明に渡り、中国武術の総本山である嵩山少林寺に到着する。達人たちとの交流、挑戦者との果し合いを経て、一刀斎は世界の武術を究める決意を新たにするのであった。


 下総国小金ヶ原――
 朝靄の立ち籠める平原に佇む、三人の武士の姿があった。
 二間を隔てて向き合う二人を、小鬢のあたりに白いものをまじえた兵法者が離れて見戍っている。
 兵法者の名は伊藤一刀斎景久。一刀流の開祖である。天文十二年伊豆大島に生まれ、若年の頃より自ら鬼夜叉と名乗って兵法修行に励んだ。江戸に至り、外他流の達人鐘捲自斎通家の門に入って精進を重ねたが、ある夜豁然として大悟するところあり、翌日三度に亙って師を破った。師の自斎は大いに感じ入り、妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の五つの秘奥を一刀斎に授けたという。その後一刀斎は一刀流を開き、廻国修行を続けること十有余年、今や天下一と称される兵法の大家である。
 草原を渡る風に応えるかのように、向き合っていた二人はゆっくりと白刃を鞘から抜き放った。
 刮と眼を瞠り、三尺の太刀を上段に構えたのは小野善鬼――もとは淀の船頭である。並外れた膂力と十歳の頃より荒波を乗り越えてきた腰の強さにものを言わせて、一帯では聞こえた乱暴者であったが、一日一刀斎に手もなく打ち据えられて爾来弟子となった。廻国の途次もしばしば粗暴な振る舞いがあったが、その天稟には一刀斎をして驚かせるものがあった。技が進むにつれて粗野なところも徐々に治まり、今や弟子中最も師を敬うに篤い。
 対する神子上典膳は、二尺八寸の太刀を青眼に構え、半眼のまま静かに立っている。三神流を修めて上総の国では知られた兵法者であった。その上総へある日一刀斎が来た。かねてよりその名を聞き及んでいた典膳は、旅宿に一刀斎を訪ね、立合いを所望した。一尺ばかりの薪を提げた一刀斎に三尺の木刀で立向かい、秘術を尽くして打ち掛かること数十度、その悉く木刀を打ち落とされた。その技神の如しと典膳は感服し、これもまた弟子として師の遍歴に随っている。
 その二人が、今は間合を九尺に縮めて対峙している。朝靄が次第に霽れ、朝陽が三人の影を長く地に曳いた。
 善鬼が間合いを詰めた。典膳は動かない。長い沈黙が続いた。じりじりと輝きを増す日輪が東の丘の頂を離れた刹那、善鬼の剣が裂帛の気合とともに打ち下ろされた。典膳はそれを払いざま善鬼の脇を抜けた。
 振り向く典膳へ、善鬼が太刀を振り上げて躍り懸かった。善鬼は胸元を浅く横一文字に斬られ、典膳の眉間からは一筋の血が流れていた。その血が目に入った。典膳は片膝を突いて善鬼の豪剣を受けた。その瞬間、高い金属音を響かせて、典膳の太刀が鍔元から折れた。善鬼の二の太刀を真っ赤に染まった視界の隅にとらえたとき、
「それまで」
 と、一刀斎の声がかかった。
 善鬼は太刀を引き、典膳は半ば放心したようにその場に座り込んだ。
 一刀斎は二人に歩み寄った。
「典膳――」
 典膳は座ったまま項垂れている。
「そちとは今日限りじゃ」
 典膳は顔を上げて一刀斎の目を見つめた。噛み締めた唇に血がにじんだ。一刀斎の目には何の感情も浮かんでいないように見えた。
 典膳は再び俯いた。呻き声とも泣き声ともつかないものが喉の奥から漏れるのをどうしようもなかった。肩を震わせ、袴の膝を握り締めて、典膳は嗚咽した。
 一刀斎はおもむろに腰の大刀をはずし、典膳の目の前に置いた。
「これはお前にやる」
 典膳が驚き表情を浮かべて顔を上げた。
 善鬼が大声を上げた。
「先生、それは……」
「そうじゃ。甕割じゃ」
 その刀は一刀斎がまだ鬼夜叉と名乗っていたころ、伊豆三島神社の神官より授かった稀代の名刀で甕割と名付けられていた。備前の名工一文字の作と伝えられている。
 善鬼が声を上げた。
「先生――」
 甕割が与えられた以上、一刀流の道統は典膳が継ぐということである。勝負に勝った善鬼の声に、問い質すような響きがあったとしても不思議はない。
 茫然としている二人を等分に見て、一刀斎は言葉を継いだ。
「一刀流は典膳に継がせる。なぜ敗れた典膳に、と思うだろうがな。昨夜、わしはこう言った筈だ。明朝の立合いで、負けた者とはその場で別れる。勝った者にのみ以後の同道を許す、とな」
 善鬼が釈然としない様子で訊いた。
「しかし、なぜ負けた方が継がねばならぬのです」
「はじめからそのつもりであったのだよ。片方が死なばそれまで。道統を継ぐだけならば、お主らのどちらでもよい。むしろ典膳の方がよいかもしれぬ。お前やわしと違って、典膳は武士の生まれじゃ。よって書や学に明るい。しかし、これ以後わしに随う者は、学など無用、ひたすら強い者ではなくてはならぬ。ゆえに、二人ともこうして生き残った今、敗れた方に一刀流を継がせ、勝った方を連れて行こうというのだ」
 典膳が、やっとの思いで口を開いた。
「先生、敗れた私に一刀流を継げと言うのは……」
「酷いというのか。たしかにそうかもしれぬ。しかし、わしはもう世間から姿を消すつもりでおるのだ。再び一介の剣術遣いに戻って修行をし直す」
 一刀斎は善鬼の方に目を向けた。
「これでよいのだ。心配せずとも、約束通り、以後の同道はお主にしてもらう。一刀流の名はまた別の話じゃ」
 善鬼の面上には、まだ不服そうな色が浮かんでいた。
「不服か。まあよい。じきにわかる」
 そう言って、一刀斎は満足そうに笑った。
 いまだ事情がよく呑み込めずにいるといった表情で、師を見上げている典膳に向かって、一刀斎が言った。
「とまれ、一刀流はお主に継がせる。せいぜい剣名を上げてくれいよ」
「はい」
 典膳は思わず両手をついて平伏した。
 一刀斎は頷いて、
「善鬼、行くぞ」
 と、二人に背を向けて歩き出した。善鬼は典膳に別れを告げて、みるみる遠ざかる師の後姿を追って駆け出した。
 見送る神子上典膳はこのとき二十七歳。二年後には江戸へ出て、名を小野次郎衛門忠明と改め、徳川家の兵法指南役を務めることになる。
 勿論、今の典膳はそんなことを知る由もない。茫然として、すでに豆粒のようになった二人の背を見送る許りである。
「遂に相別れ、その行方を知らず」
 と、『本朝武芸小伝』は云う。
 天正十九年、晩春のことであった。

 一刀斎は善鬼を伴って西へ向かった。
 小田原にさしかかったときのことである。
 前年(天正十八年)の豊臣秀吉による小田原征伐で荒れた田畑や町並も、ほぼ旧に復し、ようやく伸び始めた稲の苗が風にそよぐ田園の風景が豊かに広がっていた。戦乱がおさまったせいか、行きかう人々の顔からも殺伐としたものが消えつつあるように見えた。
 二人は城下を一望する丘の上に腰を下ろし、眼前に広がる海原を眺めていた。
 昼餉を終えたばかりである。蒼天は遥に高く、刷毛で描いたような雲が一筋浮かんでいるだけであった。風は清々しく、初夏の陽差が心地よい。
「善鬼よ、覚えておるか」
 かげろうにゆらめく相模灘の水平線に目をとめたまま、ふと一刀斎が言った。
「唐人との立合いよ」
 善鬼は一刀斎の横顔を見た。一刀斎の眼は、遥か遠くを見つめながら、懐かしむような光を帯びていたという。
「あの、十官とか申した」
「そうだ」
 遡ること数年、一刀斎は善鬼を連れて、ここ小田原の古藤田勘解由左衛門俊直を訪れていた。古藤田は、後に唯心一刀流なる一派を開くほどの、一刀斎にとっては典膳、善鬼に次ぐ高弟である。このとき、北条家に仕えていた。
 その小田原城下へ、明の貿易船に乗ってやった来たのが十官である。自ら明の刀術家であると称し、倭奴ごとき敵うものはあるまじと大言して憚らなかった。
 なんの唐人ばらめが、と腕自慢の武士が何人か立合を挑んだが、奇妙な片手遣いの刀法に忽ち打ち倒された。
 それが藩主氏直の耳に入るに至って、ついに藩の師範役である俊直が立たざるを得なくなった。
 それに代わって出たのが一刀斎である。ちなみこの時、一刀斎が扇子一本で十官をあしらったという話があるが、これは後世の創作である。いかに彼我の実力に懸絶した差が見て取れたとはいえ、刀術家を名乗る相手に一刀斎がそこまで侮った態度を取ったとは考えられない。
 勝負はあっという間に終わった。轟々たる刃風を立てて、天を突き地を薙ぐ十官の豪剣を、一刀斎は身を沈め、肩を震わせるだけで払い上げた。唐人の長剣は陽光をきらめかせつつ舞い上がり、大地に深く突き立った。
 二人を取り巻く群衆は、唐人が両断される瞬間を固唾を飲んで待ち構えたが、一刀斎はそれ以上踏み込むこともせず、二間を跳び退って太刀を残心に取った。
 善鬼が口を開いた。
「たしかに覚えております。先生は見事に十官の太刀を払い落とされました」
 一刀斎は、その言葉にかすかに口元を歪めて嗤った。
「なら聞こう。なぜ儂はあと一歩踏み込んで十官を斬らなんだと思う」
「それは……先生のご慈悲でございましょう」
「違うな。踏み込めなんだのよ」
 一刀斎はそれきり口を噤んだ。
 風が通り過ぎた。遠くの海面が午後の陽射しにきらきらと輝いていた。
 稍あって、善鬼が訊ねた。
「しかし、十官が太刀は……」
「そこよ。相手は無手じゃ。なぜ踏み込めなんだかと思うての」
 一刀斎が答えた。
「儂は究めたいのよ。あの時感じた懼れをの。何を懼れたのか」
 善鬼は師の言葉に驚愕した。一刀斎が無手の相手に何を怖れることがあるというのか。鬼神をも一刀の下に両断して憚らず、電光すら及ばぬ迅業を持つ師が、一体何を怖れるというのか。
「なあ善鬼。お前は儂の兵法をどう見る」
「どう、と申されましても……。天が下に並ぶ者なく、剣技神に入ったるかと思うております」
 善鬼は正直に答えた。一刀斎は微笑んだ。
「ほう、天が下での……。おそらく日の本ではそうかもしれぬ。己惚れるつもりはないが、この日本では儂に勝る者がそうそうあるとは思えぬ。柳生であろうと富田であろうと、後れは取るまい」
 一刀斎はそこで言葉を切った。
「善鬼。たしかにこの国でならそうかもしれん。この国でなら誰であろうと斬れるかもしれん。しかし、唐土にはどうだ。天竺にはどうだ。儂より強い者が居らぬと云えるか。儂のものよりすぐれた兵法が無いと云えるか」
 善鬼は言葉を失っていた。師の言葉が理解出来ていないせいもあった。兵法者は兵法を究め、武と軍功を以て名を立てればよいのではないのか。諸国を廻って、自らの兵法を理解してくれる大名に出会い、高禄をもって召し抱えられることが、兵法者の理想ではないのか。無論、強い相手や優れた兵法を求め、研鑽を積むべきことは善鬼にも解る。強さのみを求めて立合いを重ね、敵を斃し続けようとするのも解らぬではない。しかし、唐土や天竺の兵法など想像の外であった。

 ひと月ばかり後、一刀斎師弟の姿は奈良の地にあった。東海道を上ってはきたが、京大坂の喧騒を避けて、関宿からは草津へ向かわず、そのまま西へと伊賀を経て柳生に至った。
 柳生家を訪れることは、すでに書状で知らせてあった。
 柳生家は一国を預かる領主であるとはいえ、柳生の里は山間の農村である。夏の陽射しの下、広々とした田園風景が広がっていた。
 一刀斎と善鬼はさほどの苦労もなく、柳生家の閑雅な屋敷に辿り着いた。
 門をくぐると門弟らしき青年が現れて、奥へ取り次いでくれた。村の女衆が手伝いに来ているのだろう、木綿の野良着を着た女性が出してくれた桶で足を洗って、よく磨かれた板敷きの式台に上がった。
 二人は客間へ通されて、砂埃まみれの旅装を解いた。手水も使わせてもらい、さっぱりとしたところで、先ほどの青年が案内に現れた。屈託のない様子と隙のない身のこなしに、一刀斎は門弟かと思っていたが、柳生家の人間らしい。青年は又右衛門宗矩と名乗った。
 質素ながらも壁や柱の素材に贅が凝らされていることは、一刀斎の目にも明らかだった。床の間には見事な書の軸がかかり、その前に百合が一輪生けてあった。
 一刀斎と善鬼は、静かに座って床の間を眺めていた。暑い盛りではあるが、深い軒をくぐって庭から入る風が心地よい。蚊遣りの煙も気にはならなかった。
 半刻ほどして柳生石舟斎宗厳が現れた。石舟斎は、剣聖上泉伊勢守信綱について新陰流を修め、柳生新陰流を立てて剣名世に隠れもない名人である。既に還暦を過ぎ、髪や膚に老いは隠すべくもなかったが、その目配り、歩の運びには微塵の隙もなく、一刀斎をして顔を引き緊めさせるに足りた。
 二人は丁重に礼を交わし、茶菓を前に四方山話に興じた。諸国の戦乱が漸く鎮まった時分である。自然話は諸大名の動静に及んだ。
「ところで、関白殿の唐入りの話は耳にされましたかな」
 石舟斎がゆるりと言った。噂だけなら一刀斎も知らぬところではない。数年前より秀吉が「唐国までも仰せ付けられるべしと思召される御存分」であるとかないとか、しばしば耳にしている。
「いかにも」
 一刀斎は莞爾として答えた。蓋しその笑みは秀吉の空言を嗤うものであったろうか。
「それが、あながち笑うたものでもござらんようで。此の月のうちにも、諸国に触れが出るようでござる」
 一刀斎の笑みが消えた。傍らで善鬼が息を吞んだ。
 一刀斎にしてみれば、秀吉の唐入りが実現するなど思いもよるものではなかった。いかな秀吉でも、相手は大明国である。一旦ことを起こせば簡単に納まるものではない。そこまでの無謀を冒すとは思ってもいなかったのだ。そこへ、小なりといえども柳生の国を預かる石舟斎の言葉である。野にある一刀斎には得られぬ知らせがあったのであろう。
 突然厳しくなった一刀斎にの表情に目をとめて、石舟斎が言った。
「いらざることを申しましたかな」
 沈黙が続いた。庭に目をやって物思いにふける一刀斎を石舟斎は静かに見ていた。
「しからば後ほど。夕餉の膳を用意させますので。御免」
 石舟斎は席を立って奥へ消えた。一刀斎はしばらく黙然と端座していたが、やがて善鬼とともに客間に戻った。
 その夜は宴になった。宴とはいえ、酒こそあれ、肴は芋や山菜、干魚に味噌と漬物が出たくらいの質素なものである。
 一刀斎たちと座を囲んだのは、柳生石舟斎宗厳、新次郎厳勝、又右衛門宗矩、兵助(後の兵庫介利厳)であった。
 もとより誰が話すわけでもなく、夕餉は穏やかに進んだ。
 一刀斎がふと盃の手を休め、
「宗厳殿、唐入りについて詳しい話をお聞かせ願えまいか」と言った。
 宗厳は一刀斎を見返して箸を置いた。
「某とて、さまで詳らかなことは知り申さぬが。触れは今月の半ば、十五六日でござろうか。聞けば、本陣は肥前名護屋となるようでござる。普請の縄張りが黒田孝高公、普請奉行の一人に加藤清正公と申せば、来年の今時分には見事な城を築かれましょうて」
「すれば、関白殿の御出陣は秋にも……」
「さて、どうでござろう。諸大名は正月匆々にも肥前へ向けて出陣を始めましょうが、関白殿が海を渡るとは思えませんな。よいところ唐渡りの第一陣が秋口というところではござらんか」
 石舟斎もさすがに名護屋城が春先に出来上がり、小西行長らの第一陣が四月一日に出発するとは考えていなかったようだ。
「それにしても、いよいよ明との戦ということでござろうか……」
 一刀斎は沈思した。本当なら今や大和の一小豪に過ぎぬ宗厳が、そこまで知っていることを不思議とせねばならぬのだろうが――今では、これには柳生の庄が地理的に伊賀・甲賀の里に隣接しているという事情に関係があると考えられている――一刀斎にはそのことを気にしている余裕はなかった。
 難しい顔をして一刀斎は箸を手にした。
 兵助が一刀斎にまっすぐな目を向けて聞いた。
「一刀斎殿は、唐土へ行きたいとお考えか」
 里芋を取ろうとした一刀斎の箸が滑った。一刀斎はその時鋭く光った又右衛門の眼をちらりと見て、兵助に笑いかけた。
「とてもとても。唐土まで行かずとも天下は広いぞ。兵助殿も修業を積んで、早う祖父殿のようになるのであろ」
 兵助は大きく頷いた。
「柳生の者として、祖父様は日の本一の兵法者だと思うております。私も日々稽古をしておりますが、まだまだ足元にも及びません。どうです、一刀斎殿、明日にでも私に一手ご教授願えませんか」
 一刀斎の笑みが大きくなった。
「はっは。某など、兵助殿にはとても敵い申さんよ。勘弁してくだされい」
 その言葉に一座の者がみな笑った。
 座が和んだところで昔語りになった。石舟斎は上泉伊勢守の軼事を話し、一刀斎は諸国修行の思い出を話した。唐人など見たこともない柳生の者たちは、十官の刀法にやはり興味を示した。一刀斎は箸を掲げて十官の見せた型を真似ながらすべてを話した。
「なるほど喃。一刀斎殿が踏み込むのを躊躇われるとは……」
 石舟斎はつぶやいたが、座は再び世間話に戻った。
「ま、我が家に帰ったと思うてごゆるりとされよ。ここな若い者に稽古をつけていただければこれ以上のことはない。幾日おってもろうても何の憚りもいり申さぬ」
「忝い」
 食事を終えて、一刀斎は善鬼とともに与えられた部屋に戻った。

 石舟斎が又右衛門に言った。
「どうじゃ。あの御仁が斬れるか」
「却々――。しかし一つ隙を見せられましたな」
「いつじゃ」
「あの、芋を取り損ねたとき」
 新次郎が一喝した。
「未熟者。あれは座興の誘いだ。一刀斎殿はお前の心中など、とうに見透かされておったわ」
 石舟斎が言葉を継いだ。
「その通りじゃ。今のお主なら、まあ、あの弟子殿と互角」
 そう言って立ち上がった。
 石舟斎の背に向かって兵助が声をかけた。
「じいならどうじゃ」
 石舟斎は振り返って兵助を見た。
「あと十五、いや十、若ければの……」
 後に兵助が尾張徳川家の兵法指南役を息子の連也斎厳包に譲り、自ら如雲と号して隠居したときに語ったところによると、そのときの祖父石舟斎の口ぶりはまことに口惜しそうで、その眼はまさしく若き兵法者のそれであったという。
 翌日、一刀斎と善鬼は屋敷に設けられた道場に招かれた。道場に門弟の姿はなく、ただ石舟斎のみが稽古着を着て中央に端座していた。
 一刀斎と善鬼は道場に入ると、入口を背にして座った。善鬼は心なしか緊張していた。
「お呼びしたのはほかでもない。今日は一手お目にかけたいものがござっての」
 その言葉をまさしく立合いの申し込みと受け取った一刀斎の眉根に懸念の色が走った。
 それを見て石舟斎が言った。
「いやいや、立合おうというのではござらん。よも、そう申しても某はこの通りの老いぼれ、一刀斎殿に敵い申すはずがござろうか」
 ちらりと寂しげに笑って言葉を継いだ。
「ただ、柳生の一手をお目にかけたいだけでござる。無刀取り、お聞き及びかな」
 一刀斎は驚きに眼を瞠り、すぐにその眼を伏せた。
「いかにも」
 と、辛うじてそう答えた。柳生新陰流の無刀取りと言えば秘伝中の秘伝である。皆伝を得たものでさえ、そのうちの限られた者にしか伝えられぬという。それを一刀斎とはいえ、他流の者に見せようというのである。隣に座る善鬼の膝に置かれた拳が震えていたというのも無理からぬことであった。
 石舟斎はそんな二人の様子を気に止める風もなく、穏やかな表情で声をかけた。
「打太刀は一刀斎殿に務めていただきたいところじゃが、それでは此方の頭の鉢が心配でござるでな。善鬼殿、打太刀を相務めていただけますかな」
「はっ」
 善鬼は思わず平伏した。
「それでは、木刀はそこに掛かっておるのをお使いくだされ。一刀斎殿、そこではよく見えますまい。さあさこちらへ」
 と、石舟斎は傍らを示した。
 善鬼の支度が終わるのを見届けて、石舟斎は道場の中央に立った。
「さ、どこからなりとも打って参られよ。遠慮はいり申さぬ」
 正面に立って木刀を青眼に構えた善鬼の額からみるみる汗が噴き出した。一人の老人が無造作に立っているだけに見えてどこにも隙がなかった。
「さあ」
 石舟斎の声に吸い込まれるように、面を打ち込んでいた。もちろん手加減などない。石舟斎の頭も砕けよとばかりの斬撃である。
 そのとたん、何がどうなったか、木刀を奪われたと思ったらつんのめって倒れていた。
 石舟斎は善鬼の背に右足を乗せたまま、奪った木刀を残心に取った。
 一刀斎を振り返った。
「ご覧いただけましたかな」
 眦を裂けんばかりに瞠いて、一刀斎は頷いた。
 一刀斎は見た。善鬼の木刀が頭に届くと見た寸前、石舟斎の右手が木刀を払うや掌を返して峰を抑え、同時に体を開いて左手で柄を取って木刀を奪うのを。
 実に神業としか言いようのない迅業であった。一刀斎はふと、真剣を手にして本当にこの老人に勝てるだろうかと思った。
 石舟斎は善鬼に木刀を返し、ご無礼致したと頭を下げた。
 茫然とした表情で立ち上がった善鬼に、石舟斎が声をかけた。
「では、今一度」
 善鬼はその声に我に返ったように、木刀を再び青眼に構えた。
 幾度挑んでも同じであった。袈裟、逆袈裟、胴、突き、いかに打ち込んでも悉く木刀を奪われ、引き倒され、投げ飛ばされ、逆に木刀で撃たれた。最後に脛を払ったときは、木刀を踏みつけられて、肩口にしたたか蹴りを食らった。
 ついに善鬼は平伏した。汗まみれのまま、肩で息をしていた。。
「恐れ入りました。到底某の及ぶところではございません」声が震えていた。
 一刀斎は、驚愕に声もなかった。善鬼とて、一流の兵法者として世に出るだけの技量はある。道場稽古とはいえ、常人に躱せるような太刀筋ではない。それをこの老人は子どもの棒振りをあしらうがごとく、いともたやすくねじ伏せたではないか。しかも素手で。
 一刀斎とて、竹内流をはじめとする小具足術や組打術を学んだことはもちろんある。しかし、石舟斎の見せた無刀取りは、それらのどれとも全く異なる術理からなるものに見えた。
 石舟斎はうっすらと汗ばんだ様子で一刀斎に目を向けた。呼吸に乱れはなかった。
「ご覧いただけましたかな」
 一刀斎も思わず頭を下げていた。
「は。しかと拝見仕りました」
 一刀斎は顔を上げた。
「間合いの見切り、後の先の呼吸が肝要かと」
 石舟斎は破顔した。
「いかにも……」
 一刀斎はそこへ言葉を継いだ。
「而して要諦は、足の運びと相手の拳では」
 今度は石舟斎が驚く番だった。たった数度で、この御仁はそこまで見て取るとは。たしかに、刃筋を避け身を寄せるための運足と、木刀を奪って倒すための小手の抑えが無刀取りの極意であった。
「そこまで見抜かれましたか。なんと油断のない」
 石舟斎はこの時、一刀斎に柳生の里に残ってほしいと心の底から思ったという。

 一刻ほど後、一刀斎は石舟斎の居室にあった。
 一刀斎が先ほどの礼を述べると、石舟斎は言った。
「一刀斎殿は明へ渡るお心算でござろう」
 一刀斎は相手の真意を測りかねるかのように、石舟斎の眼を凝乎と見つめた。
「唐人のお話の折に気づきました。このお人は唐土の兵法まで究めるつもりだと」
 石舟斎の眼には呆れたような、あるいは羨むような光が宿っていた。
「さればこそ、無刀取りをご覧に入れたのでござる。無手の相手に油断召されるなと」
 一刀斎は頬を緩めた。
「左様でござったか。しかし油断のならぬのは柳生殿の眼力の方ですな。そこまで見て取られておったとは。しかし乍ら……」
 一刀斎は言い澱んだ。石舟斎が先を促す。
「しかし、とは」
「関白の唐入りが始まるとなると、唐土での修行など夢の如くはかないものに……」
 たしかに、明との戦が本格的に始まると、商船の行き来は断絶するであろうし、一刀斎にとっては明はおろか朝鮮へ渡る方策もなくなることは目に見えている。万が一大陸へ渡れたとしても、敵国の武人である、無事に修行できる保証などどこにもない。
 一刀斎はこのとき、絶望していたと言ってもよかった。わざわざ柳生を訪れたのも、一介の武芸者には不可能な渡明の手立てを、なんとか得られぬものかと考えてのことだったのである。
 石舟斎はしばし瞑目して、呟いた。
「明へ渡る手立てだけならば、近いうちにも……」
 そのまま沈黙した。一刀斎は黙って次の言葉を待った。
 しばらくして石舟斎は目を開いた。
「ときに、一刀斎殿は明の兵法について、どの程度ご存じか」
「いえ、十官の刀術を見たほかはとんと……」
 石舟斎は、古来より中国に伝わる武術について知るところを話した。例えば、『史記』刺客列伝には荊軻が撃剣を好んだとあり、『漢書』にも司馬相如や東方朔が撃剣を学んだと書かれていることから、千数百年前から剣による戦う技術があったことがわかる。また、魏の曹丕は『典論』において、白刃を怖れぬ拳法の達人を破ったこと書いており、徒手格闘術の存在も知れる。そして現在の話として、九州北部より発した倭寇が明の沿岸を荒し回ったことを引きながら、都にほど近い嵩山少林寺の僧兵集団が活躍したことを伝えた。
「聞くところでは、少林寺は唐の時代より武芸で名高いようですな。興福寺の僧兵や宝蔵院の槍遣いも及ばぬほどに」
 一刀斎は目の前の霧が晴れる心地がした。
「さすれば、先ずもって訪ねるべきはその少林寺」

 一刀斎たちは、柳生の里でたびたび稽古に加わっていた。柳生新陰流では他流試合を禁じ、挑んできた兵法修行者を生かして帰すことはないとまで言われていたが、そんな様子はどこにもなかった。一刀斎は他流に対してどこまで開かれているのかと訝しむほどであったが、これは師弟が日本を去ることを聞いたが故の石舟斎の配慮であったろうか。もちろん一刀斎も、善鬼を道場に立てて、一刀流の技法を惜しまず伝えた。
 数日後、一刀斎は石舟斎に呼ばれた。
「一刀斎殿は、今なお明へ行かんとお考えか」
「如何にも」
 石舟斎は、一刀斎の目を見てその覚悟を確信した。
「ときに、兵助には兄が居り申してな。新次郎の嫡男で、名を久三郎という」
 ということは、宗厳からは長男の長男ということになる。柳生家の正嫡ではないか。しかし、この屋敷では見かけたことがない。一刀斎は怪訝な顔で石舟斎の言葉を待った。
「もう数年になろうか。近江の浅野公に請われて、ご子息の幸長様の稽古相手として仕えておるのだ。歳も一つ下で近いしな」
 石舟斎は北側の障子に目をやった。近江坂本は柳生の里からちょうど真北にあたる。おおよそ十四里、軽装健脚なら一日の距離である。従前よりそれなりの往来はあった。
「幸長様は先の小田原の戦で初陣を見事に果たされたのだが、そのときも久三郎は付き従っておったらしい。岩槻城攻めではずいぶん暴れたと自慢しておった」
 一刀斎には話の行方が見えなかった。石舟斎の孫の話と自分の野望が結びつかない。
「その久三郎から知らせが届いたのじゃ。幸長様に唐入りの下知が下ったらしい」
 一刀斎ははっと顔を上げた。
「一刀斎殿、久三郎を守ってやってくはくれまいか」

 それからは慌ただしく日が過ぎた。浅野家に仕える柳生久三郎純巌の家人として、一刀斎は他の高弟とともに近江坂本に向かうことになった。年若いとはいえ、久三郎は五百石の禄を食む浅野家の家臣である、朝鮮出兵にあたって家来の武士を率いることに何の支障もなかった。
 浅野長政は名護屋城築城の総奉行を命じられており、前年の春より肥前に詰めていた。浅野幸長は城の普請もずいぶん進んだ正月の終わりに、三千名の手勢を率いて名護屋に乗り込んだ。一刀斎たちももちろんその中に含まれていた。浅野家に伝わる陣立書には、久三郎直属の部隊に「戸田弥五郎」「小野善吉」という名が見える。蓋し一刀斎師弟の変名であろう(戸田弥五郎は一刀斎がしばしば用いた別名)。
 三月には小西行長率いる一番隊がすでに対馬に出発し、四月には秀吉もようやく名護屋城に至ったが、八番隊に属する浅野幸長にはなかなか渡海の機会が巡ってこなかった。それが六月になってようやく渡海を命じられた。しかし、勇んで出立したのもつかの間、肥後国葦北郡佐敷で島津家の家臣であった梅北国兼による反乱がおきた。後に梅北一揆と呼ばれるこの謀叛に激怒した秀吉は、本田忠勝を副将に据えたうえで、鎮圧部隊の大将に幸長を指名した。
 幸長は急ぎ佐敷に兵を向けたが、到着した時にはすでに一揆勢は朝鮮へ渡った加藤清正の留守居の部隊や肥後人吉の相良氏の軍勢によって鎮圧され、国兼の首級も名護屋城へ向かった後だった。
 幸長はもとより軍備軍装を整えて出発してきたのであるからと、そのまま対馬へ渡ることにした。通常なら名護屋城に戻って一揆の沙汰(処分)もじっくり済ませるところだが、それは父長政が担った。身の軽さといい果敢な判断といい、若き武将の面目躍如たる挿話である。
 その血気盛んな若さを慮ってか、長政と親しかった伊達政宗が、幸長の後見役を買って出た。政宗は在陣衆として渡海の予定はなかったが、秀吉はこれを快く許し、両人は舳先を並べて朝鮮へ向かった。
 釜山浦で先発の多くの軍勢と合流した時には、すでに六月も末になっていた。両軍は釜山の北東、西生浦に築かれた倭城にいったん軍装を解き、本格的な出陣に備えた。

 柳生久三郎純巌はこの時十六歳、浅野家の勇将というよりまだ少年の面影を残した若武者である。そして、自分や幸長の護衛として柳生からやって来た剣の達人の素性や目的については、祖父石舟斎より重々聞かされていた。
 ある日、西生浦城内の陣屋で、久三郎は一刀斎に話しかけた。
「一刀斎殿、とうとう海を渡りましたな」
「ここでは弥五郎で結構」
「これは失礼いたした」久三郎は頭を掻いた。
「とまれ伊東殿、ここはまだまだ朝鮮の端も端、明までは遠ござるが」
「急いては事を何とやらと言いますからな。朝鮮まで連れて来ていただいた恩を返してからでも遅くはありますまい」
「それは心強い」
 船旅でなまった体を鍛えなおすように、一刀斎と善鬼は稽古を重ねた。無論、久三郎ともしばしば稽古に励んだが、やはり一刀斎が一方的に教えるようなものになった。一刀斎は柳生家嫡男の天稟に感心したのか、極意の切り落とし、浮木、払捨刀まで、惜しみなく教えて、善鬼をあきれさせた。
 浅野幸長と柳生久三郎は主従とはいえ、双子のように育ってきた。小田原の戦の折も、久三郎は幾度も幸長の窮地を救って戦功に貢献した。
 無論、幸長も一刀斎の正体を知るところとなった。
 西生浦の倭城に布陣して幾日か経ったころ、一刀斎は幸長に呼ばれた。幸長のそばには久三郎が控えていた。
「お主が伊藤一刀斎か」
 一刀斎は平伏した。
「恐れ入ります」
「久三郎とどっちが強い」
「殿!」久三郎が大声を上げた。
 一刀斎は顔を上げた。目に笑みを含んでいたという。
「却々。久三郎殿は柳生家の嫡流でござるゆえ、稽古でも打たれてばかりでございます」
 幸長は満足げにうなずいた。
「なるほど喃。俺も剣術の手ほどきを受けて居るが、似たようなものじゃ」
「殿、その話はそれくらいに」
 久三郎は真っ赤になって、幸長の話を遮った。
「さても一刀斎、いつか明へ行きたいと聞いたが」
「剣の道を究めたいと考えております」
 幸長の表情が突然険しくなった。
「朝鮮の戦に加わるために我らの船で海を渡ってきたのではないのか。それが我らを置いて、明へ抜け駆けしようてか。誰の陣屋で寝起きして、誰の兵糧を食っておるのか。秀吉公の大明征伐のご意向を足蹴にしようというのか」
 幸長の語気の荒さに、一刀斎は床に額をつけて言葉もない。久三郎は久三郎で、思わぬ幸長の難詰にうろたえていた。
「しかし殿」
「黙っておれ久三郎」
「ときに一刀斎」
 しかし、その時すでに幸長の表情から怒気は消えていたという。
「まあそんなことは表向きの話だ。俺も怒ってはいないよ。そちの心根を面白いと思っている。そこで俺も、お主が明へ行くのに協力してやるから、ひとつ約束してくれんか」
 一刀斎は一瞬顔を上げて、再び伏せた。
「なんなりと」
「明国での武者修行を終えたら、まっすぐ俺のとこへ来い。そして俺と久三郎に土産話を聞かせてくれ。腕が上がっているようなら指南役に取り立ててもよい」
「ありがたきしあわせ。必ずやこの一刀斎、剣を極めて上古の剣聖をしのぐ姿をご覧に入れましょう」
「とはいえ、俺もお主を今すぐ明国に送り届ける算段があるわけではない。しばらく戦に付き合え。我々の軍勢はいずれ明国になだれ込むことになろうからな」
 一刀斎にとっても残念なことに、この浅野幸長の目論見は大きく外れることになる。

『寛政重脩諸家譜』の浅野家幸長の條において、「西生浦に城を築てこれによる。後加藤清正とともに所々の城を攻落とし、生け捕りもまたおほし」とある通り、浅野軍は大急ぎで加藤清正を総大将とする二番隊のもとに駆け付け、ともに各地を転戦することになった。七月の下旬には、オランカイ(女真族)の戦力を試すために豆満江を渡って満州南部へと侵攻し、女真族の城を攻撃した。これは日本軍にとって明国侵略の糸口になるはずであったが、女真族の反攻と地形の不利もあって、八月には咸鏡道に引き返すことになった。
 この間、柳生久三郎率いる部隊の活躍は目覚ましく、二番隊におけるどの城攻めにあっても、最も多く敵将の首級を上げたという。就中、一刀斎師弟の奮戦は鬼神の如しと全軍で評判となり、清正に至ってはわざわざ久三郎を呼び出して、あの両名は何者かと尋ねたと時の記録に残っている。
 その後、加藤清正は鍋島直茂、相良頼房らとともに咸鏡道を治めていたが、年が明けて明軍李如松の進軍が始まり、平壌における小西行長、石田三成らの敗走の報により、人質としていた二名の朝鮮王子を連れて漢城に帰還することになった。

 その日は朝から雪が降りしきり、陣屋の窓外は一面の雪景色であった。すでに春も近いというのに、漢城は京や大坂とは比較ならぬほど寒かった。しかし、朝鮮の家屋では竈の火を用いて床下を温める温突(オンドル)という暖房設備が用いられており、真冬でも火鉢ひとつの日本より屋内はよほど暖かい。
「一刀斎よ。異国にあってこれほど長い間、よく働いてくれた」
 浅野幸長は、一刀斎を居室に呼んでその労をねぎらった。
「朝鮮兵ともずいぶん戦ったと思うが、見るべきものはあったか」
 一刀斎は首を振った。
「朝鮮は国情もあってか、刀槍の術はすでに失われておるようで。まれによく働くものも居りましたが、日本刀を持ち日本の兵法を学んだもののようでござった」
「倭寇にでも学んだか」
「御意」
 幸長は腕を組んで考え込むような表情になった。
 一刀斎が言葉を継いだ。
「オランカイの城攻めは、あれも騎馬の兵士こそ面白うございましたが、それも馬上の槍遣いと騎射だけで、わが兵法の学ぶべきものがあったかとなりますと」
「やはり明か」
「それも近頃の碧蹄館の話を聞くに、明兵も刀槍を持っていたところで振り回すのがせいぜいだと」
「長い戦だったが、一刀斎には役に立たなんだか」
「なかなか。虜にした明人ともずいぶん関わりましたゆえ、明の言葉を覚えただけでも、この度の戦続きは無駄ではござらなんだ」
 幸長の目が光った。
「帰るか」
 一刀斎の心に迷いがなかったと言えば嘘になる。半年以上にわたって戦に関わりながら、しかも戦場では善鬼とともに、常に最前線で敵兵と切り結んできたにもかかわらず、未だに一刀流を極めるための糧となるような兵法には出会えていなかった。
 しかし、と一刀斎は思う。十官との立合いは数年前のことではないか。明の兵士が、腕の立つ多くの牢人が加わっていたという倭寇を撃退したのも昔の話ではない。朝鮮にはなくとも、唐土のどこかには、『史記』や『漢書』に書かれた剣術が残っているのではないか。
 一刀斎が沈黙していると、幸長が言葉を継いだ。
「いやさ、太閤殿より下知があったのよ。南へ戻って親父ともども釜山を守れとな。そうなると、お主が明へ渡るのはますます難しくなる」
 一刀斎は黙したままであった。ここまで来おきながら、これだけ戦い続けながら、という思いは当然にあった。
「明との講和に向けた交渉も始まったと聞く。おおよそでも片が付けば近江へ戻ればよい。高砂や呂宋を通じて明と行き来のある商人に取り次いでやる。日の本一の兵法者が用心棒として船に乗ると言えば、どこへでも連れて行ってくれるだろう」
 一刀斎は幸長の申し出をありがたいと思った。浅野家の城下は長崎や堺に劣らぬ商人の都である。明に伝手のある富商も多かろう。
 しかし迂遠である。明との講和が成る保証もない。再び戦端が開かれれば、何年たっても交易の再開などおぼつくまい。
 一刀斎は絞り出すように言った。
「ここから漢江を越えれば仁川の港は目の前、船を出せれば唐土は指呼の間でござる。ここはなんとしても」
「近江へ戻るのは間怠いと言うか。よい考えだと思うたのだがな」
 幸長は扇子で膝を叩いた。
「相分かった。この話はこれまでじゃ。武辺者の偏屈は大概じゃの」
 斬って捨てるような言葉に反して、幸長の表情に硬さはなかった。
「しばらく待っておれ。ほかの考えもなくはない」
 そう言い残して幸長は席を立った。

 長く続いた戦乱も漸く終局を迎えつつあった。日本の軍勢は平壌で大きく敗れ、小西行長、加藤清正ともども漢城まで後退し、明軍は戦勝の勢いで攻め込んだものの、碧蹄館の戦いで大敗を喫して開城まで引き上げていた。日明いずれも兵糧と補給に不安を抱えていたこともあり、明側からは勅使沈惟敬を迎え、日本側は小西行長と加藤清正が講和の交渉を進め始めていた。朝鮮半島から直接中国大陸を目指すにはこの折を逃してはないと言っても過言ではなかった。
 そして、文禄二年四月、和議の合意条件による日本軍の漢城撤退と同時に、一刀斎と善鬼の師弟は浅野幸長柳生久三郎の下を辞し、黄海を越えて山東半島に上陸することになる。残念ながらこの時の一刀斎たちの渡海の手段は詳らかでない。開城への補給に訪れた明船の帰国時に降倭(日本人捕虜)として乗り込んだとも、仁川から青島への交易船に雑役夫として忍び込んだとも言われている。しかし、捕虜や雑役夫が大小や大きな行李を所持したまま渡航できるとは考えにくく、ここは浅野幸長が加藤清正を通じて、沈惟敬を動かしたという説を採りたい。

 一刀斎たちは日本側から遣わされた武術師範という名目で明に渡った。壬申倭乱のはるか以前、嘉靖年間の後期倭寇の頃にも、降倭(明軍に降った倭人の謂)による日本武術の伝承はたびたび行われていたので、和議に伴う配慮の一つなのであろうと、同行した明使たちも勅使の言を疑うことはなかった。
 明使の一行は、天津まで船で進んで陸路を北京に到る経路にあったが、一刀斎たちは山東半島の先端にある威海の港で官船を降りた。第一に嵩山での武術交流が目的と告げてあったので、明使たちは荷駄の手配までして快く送り出してくれた。明使の間には、長大な刀剣を提げた寡黙で気味の悪い倭人たちを放り出せて、安堵の表情を浮かべた者も多かったという。
 嵩山少林寺は、五世紀の創建と伝わるが、隋末唐初の混乱期より武名は高く、明代に至っては倭寇退治にも功績を上げるなど、古来伝わる武術によって国家事業を輔ける僧兵集団の趣があった。武術の訓練も日常的に行われており、すべての僧にとって武技の鍛錬は読経や問答にひとしく、すなわち修行であった。
 一刀斎が善鬼を従えて少林寺の山門をくぐったのは、すでに万暦二十一年の初夏のことであった。
 少林寺は朝鮮に攻め込んだという日本の軍勢を討つべく、腕を撫して王命を待っているところであった。そこへ倭人が来た。奥へ取り次いだ若い僧がうろたえたというのも無理はない。
 一刀斎は庫裏の奥に招じ入れられた。腰の大小は、案内する年若い僧が預かって胸に抱えた。僧坊の間を抜けて、よく手入れされた庭に面した部屋で待たされた。
 ややあって柿渋で染めたような粗末な衣を着た僧が現れた。古稀をはるかに超えているであろう枯枝のような老人である。普善と名乗った。少林寺の対外的な応接を任されているという。見るからに屈強な二人の若い僧を従えていた。
「日本の方がわざわざこんなところまで何の御用かな」
 一刀斎は時折筆談も交えながら、明の言葉で訥々と語った。自分は剣の道を究めようとする一介の武芸者であること、そこにまだ見ぬ武芸があるならば朝鮮中国天竺南蛮と、どこへでも行って学びたいと思っていること、そしてそのために命を落としても構わないと考えていること。
「明では武芸を学ぶに少林寺に勝る場所はないと、日本にも聞こえております」
 普善は莞爾として、傍らの僧を振り返った。
「洪紀を呼べ」
 洪紀は少林寺の武術師範の一人である。百人の倭寇の残党を一人で蹴散らしたとも、棍の一撃で大岩を砕いたとも言われる。
 ほどなくして現れた僧は、身の丈は六尺を超えて筋骨隆々、四十がらみの浅黒い容貌は、まさに「武僧」と呼ぶにふさわしい風格を備えていた。
「洪紀、この客人をどう見る。日本の刀術家らしい」
 洪紀は椅子に座る一刀斎たちの傍らに立って、二人を見下ろした。寛いで座っているとしか見えぬ一刀斎を腕を組んでにらんでいるうちに、洪紀の厚い胸が上下しはじめた。額に汗の粒が浮かんだ。
 ややあって、洪紀は普善に向き直った。
「私では足元にも及ばぬかと」
「なんと」
 普善の後ろに控えた僧たちまでもが目を丸くしていた。まさかこの洪紀が相手の姿を見ただけで、潔く負けを認めるとは。
 今度は一刀斎が相好を崩す番であった。
「なにをおっしゃる。そのお力と隙のなさ、かなりの腕とお見受けいたす」
 洪紀も卓を囲み、それからは武術談義となった。

 武術流派は国を問わず、技術を深めるほど秘教化して他流との交流を拒むようになるものだが、この時代の少林寺は修行者の受け入れを拒むことはなかったのはもちろん、役人の視察や武将や武芸者の見学にも広く門戸を開いていた。ことに、都の役人や軍人に対しては、積極的に演武の様子を見せるなどした記録が残っている。
 一刀斎たちも倭人ではあったが、非凡な武芸者であるということもあり、技術交流を条件に賓客として遇されることとなった。
 滞在して数日後、一刀斎は切望されて一刀流の技法を披露することになった。
 本堂の前に広がる石畳の広場に、全山の僧たちが集まっていた。皆固唾を飲んで座っている。
その正面、広く空いた場所に、一刀斎と善鬼が向かい合って立っていた。二人とも久しぶりに漢服を脱いで、綿の袷と紺の袴という稽古着に着替えていた。
 二人は立ったまま腰の刀を抜いた。無論真剣である。長旅に刃引きの持ち合わせなどない。その澄んだ輝きに僧たちの間にどよめきが走った。
 二人は時間をかけて、一刀流の基本的な型稽古から、裂帛の気合とともに表裏十二本を披露した。
 僧たちはすでに色を失っていた。最前列の師範たちは眼前で見た技術の奥深さを理解して顔色を改め、腕に覚えのある高弟たちは彼我の力量の差に愕然としていた。殊に剣術を得意とする者たちは二人の太刀行きの迅さと隙のなさに、自分たちが極めたと思ったものが児戯に等しいことを知らされて唇をかみしめた。
 そのあとは、僧たちの演武が行われた。剣術刀術に始まって、ことに少林寺の名を高めた棍術の豪壮な表演にあっては、一刀斎たちも居住まいを正して見入った。
 最後に少林拳の演武が行われた。最初は全員で基本の套路を演じた。これは武術というより筋を伸ばし節を柔げ身を軽くする鍛錬の一環に見えた。その後数名の僧が前に立ち、互いの拳や脚を交える型の披露があった。
 目にも止まらぬ連撃の拳の速さ、あらゆる角度から飛んでくる蹴りの威力、一刀斎は食い入るように見つめていた。中には投げ技や関節技も含まれ、相手を拉ぐところで終わる型も多く見られた。

 昼餉を終えて、一刀斎は善鬼と向き合った。
「やはり唐土は広いな。十官どころではなかったではないか」
「しかし、剣法はなんとも」
 善鬼の言葉を一刀斎は咎めた。
「あれは乱戦の中で発達した刀術だ。矢玉の降り注ぐ中で敵味方入り乱れて戦うに、片手遣いで竜巻のように斬りたて薙ぎたてするあの刀法は手強いぞ」
「我々に学ぶところはありましょうや」
「なにを見て居った。体の芯を残して舞うようなあの足運びは、我らにも柳生にもないものだ」
 善鬼は天を仰いで、師に頭を下げた。
「まだまだ未熟で恥ずかしい限りでございます」
 しかしながら、古代は知らず、唐明の時代にあって刀剣の術が失われていたのは事実であった。倭寇討伐に大功のあった戚継光が嘉靖年間に著した『紀効新書』には、倭寇が振るう日本刀についての記述があり、「倭の中国を犯してより始めてこれあり。〈中略〉我が兵、短器は接し難し、長器は(敏)捷ならず、これに遭う者は身、多く両断さる。」と明兵の剣術では歯が立たなかったことを述べている。
 同時期の武将、兪大猷にも河南少林寺を訪れて、剣の真伝が失われていることを嘆いた記録が残っている。また、兪大猷自身が剣術の秘奥を究めて著したという『剣経』もあるが、内容はほぼ棍術の技法を詳述したものであり、これらを見ても明代の剣術が一刀流を超えるものではなかったことは明らかである。
「それよりあの棒術と拳法じゃ。特にあの棍と申すは、打てば太刀、突けば槍という言葉そのままの威力だったな。それも両端が等しく切尖、まさに常山の蛇だ。いくら日本の刀を持つとは言え、海賊どもが蹴散らされたのも無理はない」
 善鬼はうなずいた。
「槍なればかつて神道流の上手とも手合わせいたしましたし、柳生では宝蔵院にも学びましたが、さきの棍術は勝るとも劣らぬかと」
「苦労してここまで来た甲斐があったというものだ」
 一刀斎は心底うれしそうな表情を見せた。朝の稽古を見てよりよほど気持ちが高まっているようだった。
「そしてあの拳法よ。無手にしてあの速さ、あの力、お前は刀を持ってあれに勝てるか」
 善鬼は胸を張った。
「さすがに、刀さえわが手にありましたら」
 一刀斎はいたずらっぽく口元をゆがめた。
「石舟斎殿の無刀取りを忘れたか」
 善鬼はあっと息をのんで顔を赤らめた。柳生道場の床板に、何度も這いつくばらされたことを思い出したらしい。
「わしは怖いよ。柳生の無刀取りにあの当身と蹴りが加わるなら、一本の剣がどれほどの役に立つものか」
 一刀斎はその言葉とは裏腹に堪らないような表情だったという。その顔を見ながら、この人はどこまで行っても武芸者であり求道者なのだと、善鬼は半ば呆れながら思った。

 ちょうどこの時、少林寺には棍術の名人がいた。法名を洪転といい八十歳の老僧であったが、その棍法は今なお神業と言われ、寺僧の尊崇を集めていた。高弟には先の洪紀のほか、宗相、宗岱、広按らの達人がいた。また、宗猷という武僧は、当初より武術を究めるためだけに入門したと広言し、後には武者修行で諸国を廻るなど、僧というより明らかに武芸者の趣であった。
 この宗猷、本名を程冲斗といい、武者修行の後に真伝を得て『少林棍法闡宗』という大著を著すほどの達者であったが、同著に収載されている『単刀法選』は、倭寇の剣法すなわち当時の日本剣術を、図解入りで極めて詳細に伝えている。ここでは、宗猷がどのようにして日本の剣法を学ぶに至ったかについても書かれており、「かつて自分は倭奴の得意とする単刀の法を求め、倭の真伝を得たという浙師劉雲峰なる者に深奥を授けられた」とある。
 しかし、倭寇を通じてとはいえ、明の武芸者が日本の剣術の真伝を得ていたとは考え難い。万暦二十年代半ば、少林寺における一刀斎の滞在時と程宗猷の修行時期が重なっていることを考えると、『単刀法選』に書かれた日本剣術の技術は、伊藤一刀斎によってもたらされたものと考えてよい。当時明は日本と敵対関係にあり、朝貢貿易すら許されていなかったことから、程宗猷は剣術の師を、明人劉雲峰なる者に仮託せざるを得なかったのであろう。

 その日以来、一刀斎は洪紀や宗猷たちと武術の稽古に励んだ。明代の兵法書である何良臣の『陣紀』にも「拳棍の法明らかなれば則ち刀槍の諸技は特に易易たるのみ。拳棍を諸芸の本源と為す所以なり」とある通り、拳法と並んで棍法すなわち棒術こそ少林寺武術の中心であった。その技術は精緻を究め、程宗猷も『少林棍法闡宗』の中で少林棍の特長を「少林棍は根法三分、鎗法七分」と述べている。そこで一刀斎は武僧たちとともに、少林棍の基本と棍と剣との立合いを研究し、また少林僧に対しては善鬼とともに一刀流の稽古を施した。
 「諸芸の本源」とされた「拳棍」であるが、もう一方の「拳」についても、少林寺は重きを置いており、日々の武術訓練に取り入れていた。
 一刀斎が少林寺を訪れるに先立つこと四十年、戚継光が『紀効新書』巻十四に拳経捷要篇という一章を設け――これが世にいう「拳経」である――「戦場で用いる技ではないが、手足や全身を活発に動かすもので、初心者にとって武術の入門に適している」と述べている。また「拳経」には、当時の主要流派についての記述もある。太祖三十二勢の長拳、六歩拳、猴拳、囮拳、温家七十二行拳、三十六合鎖、二十四棄探馬、八閃番、十二短等の名が見えるほか、綿張が短打、李半天の腿、鷹爪王の拿、千跌張の跌、張伯敬の打と挙げられているのを見れば、打撃以外の関節技(拿)や投げ技(跌)にも達人がいたことがわかる。
 「拳経」では、戚継光もまた何良臣同様、「大抵、拳棍、刀鎗、叉鈀、劔戟、弓矢、鈎鎌、挨牌の類、まず拳法によりて、身手を活動せざることなし。それ拳とは武芸の源なり」と、拳法をあらゆる武術の根本であると述べており、そこに弓馬刀槍の術を主とし、手搏角抵を余技とした日本の武術との最も大きな違いがあった。

 ある日稽古を終えて、一刀斎は汗を拭きながら程宗猷に声をかけた。
「宗猷、ずいぶん技も進んだようだな」
 この時、程宗猷は三十二歳、武芸者としてまさに脂の乗り切った時期であった。
「ありがたきお言葉。老師にそう言っていただくと身が引き締まります」
「わしと真剣で立合う気はないか」
 程宗猷は手の棍を背に回して深々とお辞儀をした。
「ご勘弁ください。私はまだ命が惜しゅうございますゆえ」
 一刀斎は明に渡って、武術の総本山ともいうべき少林寺に迎え入れられたことには満足していた。棒術や拳法の技術には瞠目すべきものがあった。共に学ぶ喜びもあった。
 しかし、武僧たちとの稽古を重ねるにつれて、真剣による立合いに飢えている己に気づいた。真剣でなくともよい、厳しい修行で身に着けた秘伝秘術を尽くすような戦いを求めていた。日本であれば、「兵法天下一」と大書した高札を掲げるだけで、挑んでくる敵手には事欠かなかった立合いである。
 戦場での乱戦ではない、互いに礼を尽くし、しかし命を賭した立合いがしたかった。
 一刀斎にしてみれば、兵法を極めるために海を越えてここまで来たものの、少林寺の客分の身でありながら、そんな願いを口に出せるはずもない。修行を共にするだけで良しとするべきことはわかっていた。わかってはいたが、すでに弟子と言ってよい程宗猷に気が緩んだかふと漏らしてしまったのだった。
 稍あって、程宗猷が一刀斎たちの居室にやってきた。
「老師、さきほどの真剣勝負の話ですが」
 程宗猷は言いにくそうに切り出した。
「ご承知の通り、少林寺は武芸の修行者を拒むことはしておりません。私にしても、宗猷は僧坊に置いてもらい修行を続けるための仮の法名のようなものですし。おかげで毎日のように入門者がやってきます」
「それは知っておるよ。まだ髪も剃らず、法衣も整わぬ者たちが、朝堂にも食堂にもいくらでもいるではないか」
「そして、少林寺の武名を頼って来る者と同様に、挑んでくるものも多いのです。とくに戚継光将軍が倭寇を平らげてからというもの、武術で名を上げる機会を求めてのことか」
 それを聞いて一刀斎は目を輝かせた。
「ほう、武者修行か。上手がいれば手合わせを願いたいものだ」
 程宗猷は苦笑しながら首を振った。
「それが己惚れの過ぎるものばかりでして。老師の手を煩わせるどころか、私や宗相の出番すらまずございません」
 一刀斎は日本にいたころ自分に挑んできた者たちの顔を思い浮かべた。何十人と立合ってみても、結局ものになったのは、善鬼に典膳、古藤田など数人しかいなかった。
「まあそんなところだろうな。しかし、少林寺以外の武術も見てみたいものだ。腕の立つ武芸者が来れば必ず知らせてくれよ」

 一刀斎の願いはほどなく叶うことになった。
 それは無理もないと言えば言えた。一刀斎が少林寺に入ってからというもの、日本から剣術の名人が来たという噂は都まで広がっていたのだ。官軍の兵士が悉く両断されたという倭寇の刀術は、戚継光の『紀効新書』によっても、また実際に見聞した明兵の体験談からも、武術に心得のある者にとっては関心の的だった。その源流となった日本から、しかも一流を興した名人が来たとなると、手合わせを望む腕自慢が集まらぬわけがなかった。
 その日少林寺に現れた男は、張松渓の子孫であるといい、張真渓と名乗った。家伝の内家拳のほか、河南の温県陳家溝で拳鎗の術を、山東の冠県では新彊回族の査尚義その人から査拳を学んで、それぞれ皆伝を得たという。
 内家拳は武当山の仙人張三丰に始まるとされているが、これは少林拳の開祖を達磨大師とするに等しい伝説の類である。明末清初の内家拳の名人王征南の墓碑に刻まれた黄宗義『王征南墓誌銘』にも同様の記述があるが、むしろ銘文内で「静をもって動を制し、犯すものは手に応じてたちまち倒れる」とし、少林拳を外家としてその差異を強調していることが重要である。
 張松渓はその『王征南墓誌銘』に内家拳の達人として「嘉靖年間張松渓が最も著名であった」と記されている人である。また、『寧波府志』では張松渓伝に一章を割いており、激しく蹴りかかってきた少林寺の僧を、座ったまま手で払うだけで二階の窓から放り出したという軼事が記録されている。ほかにも、七十歳の折に術の披露を求められたときは、数百斤もする巨岩を三つ重ねさせて、手刀の一撃ですべて真っ二つにしたという挿話も残っている。これは「盤斫」という技で、揃えた手指で敵の首や腹を切断するため「切手」とも呼ばれるものであった。
 河南の陳家溝は後に太極拳発祥の地とされる拳法の聖地である。陳家溝に伝わる『陳氏家譜』には初代の陳卜から十六世に至る系譜が記されているが、わけても九世陳王廷には「王庭、又の名奏庭。明末、武庠生、清初、文庠生なり。山東にありて名手たり、群千余人を掃討す。陳氏拳手刀鎗創始の人なり。天性豪傑、戦大刀あり、考うべし」との記述が添えられている。
 陳王廷その人は、崇禎年間、李自成の大乱のときに義勇兵を率いて温城の防衛戦を戦い抜き、名を上げた達人であるが、このときより一世代ほどのちの時代の人となる。しかし、王廷の父にあたる八世の陳撫民や陳起鳳において、すでに拳鎗の技は究められつつあった。
 少林寺に現れた張真渓なる武芸者は、それらを学んだということであった。年齢はまもなく不惑を迎えるという。四十を目前にしてまさに技も体力も絶頂にあるときに、嵩山に倭人の武芸者がいると聞き、矢も楯もたまらずやって来たのだと言った。
 張真渓は、冠県で査拳も真伝を得たという。査拳という名称は、新疆回族の査尚義(密)の名から取られた。査尚義は倭寇討伐の義勇兵に加わらんと新疆から出てきたが、途次に病を得て願いを果たせず、山東の冠県にとどまって終生拳法や棍術の指導に努めた。査拳は玄空法師が伝えたとされる弾腿を基本とし、多彩に変化する蹴り技に特色がある。
 張真渓は、しばしば少林寺を訪れる破落戸のような武芸者とは、明らかに格が違った。岩から切り出したような分厚い体格の一方で、知的で礼儀正しい態度を備え、一流の武芸を身に着けた者にしかない風格を感じさせた。
 少林寺は修行者の受け入れに寛容であったとはいえ、少林寺が誇る武術に挑んでくる者に対しては容赦がなかった。腕に覚えがあり真剣真槍での勝負を望む者には、殺生戒を捨てて命を奪うことさえ躊躇わなかったという。
 張真渓もまさにそうした武芸者の一人であった。むやみな殺生は望まないが、己のすべてを賭けて敵を倒し、武術を極めるためなら命を失うことも厭わないと僧たちに告げた。
 まず宗倫、洪遠、周尹の三人の少林僧が棍をもって相手を勤めた。張真渓の棍術は陳家と査密の技法を綜合したものと見えた。その動きは豪壮かつ精緻で、宗倫と周尹が命を落とし、洪遠は膝を砕かれて不具となった。
 そこで一刀斎と善鬼が呼ばれた。寺僧をして二人を呼びにやったのは程宗猷である。いよいよ老師の真剣勝負に足る武芸者が現れましたと伝えさせた。
 二人は着物に袴を身に着け、威儀を正して少林寺の本堂の前に広がる石畳の広場に出てきた。居並ぶ僧侶たちに並んで、端に置かれた床几に腰を下ろした。
 棍による立合いには、いよいよ武術師範の洪紀が出ることになった。ともに秘術を尽くして打ち合うこと数十度、とうとう審判を務める洪転老が間に立って引き分けを告げた。張真渓も異を唱えず、深く一礼してその場を下がった。洪紀も合掌して一礼し、背筋を伸ばして表情も変えずに僧坊に引き上げたが、その時すでに右の肋骨が二本折れ、張真渓の棍が首をかすめた衝撃で視界が大きく歪んでいたという。
 張真渓は、そこで広場の一隅の、二人の倭人がいる方角にに顔を向けた。そして、洪転老に向かって膝をついた。
「少林寺には、日本より来った剣の達人がいると伺っております。御寺の客人に無礼を承知でお願いつかまつる。なにとぞ手合わせをさせていただきたい」
 洪転老はその言葉を一蹴した。
「無礼にもほどがある。頭を冷やして出直せ」
 そう言って、言葉を重ねようとした張真渓に背を向けた。
「宗岱、この客人を宿坊へ案内せい」
 洪転老は引き上げようとする僧たちにも声をかけた。
「宗倫たちの仇討など努々考えるでないぞ。手厚くもてなせ」

 日も傾くころ、一刀斎たちは洪転に呼ばれた。
「今日の武人、お主たちはどう見なさった」
「あの棍は見ごたえがありました。引き分けたとはいえ洪紀どのも苦戦されたようで」
「わしが分けなんだら死んどるよ」
 洪転はこともなげに言った。一刀斎も無論それは見て取っていた。
「それでじゃ、明日も彼奴はお主らとの立合いを所望するだろう。わしとて、いきなりの暴言ゆえに見過ごすわけにはいかなんだが、如何したものかの」
 これには善鬼が前のめりになった。
「なんとしても手合わせをお願い申し上げる。そのためにはるばる海を越えて……」
「死ぬるぞ」
 善鬼は胸を張った。
「承知」
「一刀斎殿は。聞くまでもないか」
 一刀斎は苦笑した。
「いついかような相手とも躊躇いはございません」
 洪転は満足げに頷いた。
「彼奴を追い返さずに留め置いた甲斐があったというものじゃな」
 そこへ程宗猷が現れた。
「張真渓どのと話してまいりました。やはり半生を武術にささげてきたというのは本当のようでした。そして、それにも理由があるようで」
 一刀斎が聞いた。
「自分を棚に上げて聞くのもどうかと思うが、いかなる理由ですかな」
 程宗猷が答えた。
「倭寇です。戚継光将軍が倭寇を平らげてからすでに三十年になりますが、ちょうどその最後の戦乱のころ、福建で戦に巻き込まれて父母兄弟を倭寇に殺されたということです」
「福建の出だったのか。それがなぜ山東へ」
「倭寇討伐の義勇軍に参加していた張松渓の門人に拾われて、山東へ連れ帰られたとか。本人はその門人の拳法を目の当たりにして、死ぬ気で修行するから連れて行けと言ったそうですが」
「仇討ちか」
「それもありましょうが、戦で見た倭寇の剣術が脳裏を離れぬそうで。まだ小さいころは復讐心に燃えていたものの、長じて後は瞼の裏の倭人にどうして勝つかばかり考えてきたと」
 戚継光は北虜南倭の掃討に大きな成果を上げた大将軍でありながら、明代の武術や用兵を『紀効新書』や『練兵実紀』にまとめ上げるなど学究肌の面もあった。なかでも『紀効新書』には、愛洲移香斎が興した日本の古流剣術である影流の「影流目録」が、その刀法の図解とともに掲載されており、貴重な史料として知られている。この「影流目録」は、移香斎の嫡子小七郎から村上水軍を経て倭寇に伝わったものと言われている。すなわち、倭寇として明の沿岸を荒らしまわっていた倭人の中には、影流を修めた者も多く含まれていたと考えられるのである。
 一刀斎は頷いた。
「それで某の噂を聞いて少林寺へ乗り込んできたと」
「いかにも。我らが拳法より、一刀斎殿と立合うことのみが目当てでござろう」

 張真渓との立合いは三日後と決まった。
 立合いの場所は、張真渓がやってきた日と同様、本堂の前の広場と決まった。審判を洪転老が務めるところまで同じであった。唯一異なるのは、その場にほぼ全山の僧が勝負を見るために集まっていたことであろう。
 張真渓の棍に対して、まず善鬼が立合うことになった。
 まさしく縦横無尽、風を巻いて振るわれる張真渓の棍にも、善鬼は動じなかった。胴を薙いできた棍を払うと、すかさず逆の先端が喉を突いてきた。首を振って躱すと、再び一方の先端が頭上に振り下ろされた。
 面を襲う棍に合わせて、善鬼は青眼から面を打ち下ろした。棍と剣が乾いた音を立ててぶつかり、張真渓の棍は空しく地を撃った。
 善鬼の剣は張真渓の眉間に触れんばかりのところで止まっていた。両者同時に打ち合いながら、相手の剣を死太刀とし、己の剣を活かす一刀流の極意「切落」であった。
 張真渓は棍を提げて引き下がった。善鬼は剣を残心に取って一礼した。
 張真渓は棍を置き、次いで拳法による立合いを望んだ。善鬼の得物は真剣のままでよいと言う。もちろん善鬼に否やはない。師の前で拳法の達人を破って見せると意気込んだ。
 両者はあらためて広場の中央で対峙した。無論、張真渓は無手、善鬼は真剣である。
 張真渓は無防備に両手を下げて立っているように見えた。
 二間を隔てて善鬼がゆっくりと大刀を抜き放った。青眼に構えられた切尖が陽射しにきらめいた。
 敵いはすまい。立合いを見守る一刀斎は思った。棍と剣の立合いには何の不安も感じなかったが、静かに立つ張真渓の姿を見て、善鬼では倒せぬことを悟った。
 善鬼は、一刀斎が心血を注いで鍛え上げた弟子の一人である。腕だけを見るなら、最も強かった。典膳ですら、互角とは言い難かった。それだけの天稟を備えた弟子が死ぬかもしれない。
 その確信を得ても、一刀斎の表情は毛ほども動かなかった。
 強い者はより強い者に敗れる。そういうものなのだよ善鬼。たとえ、相手が唐人であろうと、剣を持たぬ者であろうと、相手より力が劣ればそこで終わる。それだけだ。
 一刀斎の目に一瞬憐れむような光が宿った。
 両者の対峙は今度は永く続いた。
 張真渓は両手をだらりと下げ、目を半眼に細めながら、風に揺らぐように佇立している。
 善鬼は、これまで常にそうして来たように、刮と目を瞠り、熱風のような殺気を放ち続けていた。
 風が強くなり、西の空から雲が沸き起こってきた。
 流れ出した雲の端が太陽に届いた。
 裂帛の気合とともに、善鬼が一間を跳んだ。
 張真渓がするりと左足を踏み出した。そのまま身を沈めた。
 居並ぶ僧たちにも二人の動きは目で追えなかった。善鬼の振り下ろす大刀の切尖が白光を曳いて流れた。張真渓の手足が宙を舞い、白刃の間を縫うようにして善鬼に襲い掛かった。
 地に伏せた張真渓が道着の埃を払いながら立ち上がった。
 善鬼は剣を握ったままうつ伏せに倒れていた。顔の下と腹の下から血だまりがゆっくりと広がった。。
 幾人かの僧があわてて駆け寄り、善鬼を戸板に乗せて僧坊へと運び去った。
 張真渓は洪転老に一礼して元の場所に下がった。一刀斎の方へも顔を向けて黙礼した。
 ほどなくして、程宗猷が一刀斎に近づいてきた。そして、善鬼は深手を負ったが命に別状はないことと、張真渓が一刀斎との立合いを望んでいることを告げた。
 一刀斎と張真渓の立合いは一刻の後ということになった。

 全員が再び広場に集まったとき、すでに日は傾きかけていた。
 西陽の向こうに張真渓の姿をみとめて、一刀斎は眉をひそめた。
 さすがにに歩く姿に隙はない。しかし、どこか不自然さを感じさせた。善鬼にどこかを斬られたか。しかしそれは一刀斎の関知するところではない。怪我をしていようと病に冒されていようと、立合うとなった以上は、互いの故障など気遣うようなことではない。
 五間ばかり離れて、張真渓は立ち止まった。静かに合掌し、洪転老と一刀斎に深々と頭を下げた。一刀斎も礼を返した。
 遠かったな。一刀斎の胸をふと安堵に似たものがよぎった。強い相手を求めて、海を渡った甲斐があったというものだ。剣を極めるためだけに生きてきた一刀斎には日本は狭すぎた。柳生新陰流といい、戸田流京八流タイ捨流というが、そんな相手には典膳で足りよう。そう考えて、善鬼を連れてここまで来た。その善鬼はたった今瞠目すべき技で倒された。
 一刀斎の心気は氷の如く澄みわたっていた。
 二尺三寸八分の大刀を抜いて、青眼に構えた。
 一本の剣と四本の手脚。どういう闘い方をしようかと悩んだことさえ、脳裏からきれいに吹き払われていた。
 両者は一見無造作とも見える足取りで間合いを詰めた。
 一間半をはさんで立ち止まった。
 張真渓はかすかに目を細め、静かに腰を落とした。左足を半歩前へ出し、爪先だけを地に着けた。同時に、右手は頭上へ、左手は前方へ、流れるように差し出した。
 それに合わせて、一刀斎はわずかに切尖を下げた。
 張真渓の右手が消えたように見えた。
 一刀斎は二間の距離を三歩で跳び退っていた。一刀斎の左耳が半ばからちぎれたようになくなっていた。傷口から溢れた血が、左半面を朱に染めた。
 張真渓は右手の指を二本失っていた。滴った血が地に落ちた。
 張真渓は両足を左右に広げ、左手を腰に、右手を薙刀のようにして、顔前へ垂直に置いた。
 一刀斎がゆっくりと左足を踏み出した。
 張真渓は微動だにしない。
 斬れる、そう思った瞬間、一刀斎の剣尖が白い虹をひらめかせた。
 張真渓の手脚が幾条もの円を描いてしなった。
 張真渓がその場に頽れた。右のこめかみから鼻柱まで、見事に断ち割られていた。
 一刀斎は一間をはね飛ばされて倒れた。左の鎖骨を砕かれていた。肋も数本は折れたようだった。
 一刀斎は太刀を杖に立ち上がった。夕陽の中に斃れた張真渓の骸に深々と頭を下げた。傍に立つ洪転老に一礼し、一刀斎は元の場所に下がった。
 程宗猷が歩み出て一刀斎に肩を貸し、壮絶な戦いに息を呑んで固まっている僧たちの前を僧坊へと引き上げた。

 僧坊に用意された寝台で、痛みに眉を顰めながら一刀斎は程宗猷に話しかけた。
「宗猷、唐土は広いな。よい立合いができたよ。礼を言う」
 一刀斎は負傷しながらも実に満足げであったという。
「どうじゃ宗猷、わしと善鬼の傷が癒えたら、一緒に天竺へ行かんか」
 程宗猷は言葉を失った。たった今死にかけたばかりなのに、この武芸の達人はもう新しい武術を求めているのか。
 程宗猷は、一刀斎の楽しげな表情を見ながら、それでも自分はこの剣鬼に随うことになるであろうとことを確信していた。

(了)

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筆先三寸/むしまる
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