「筆先三寸」日記再録 2001年6月

2001年6月2日(土)

▼いつの間にか6月で、世間はすっかり夏の色です。半袖姿の人もめっぽう多くなりました。

▼5月は久しぶりに日記の書けた月だと思ったんですが、それでも20数KBでした。職場が変わる前は、コンスタントに40KBは書けてたんですが。はてさて今月はどうなりますことやら。

▼仕事の方は、4月5月は結構のんびりしてたもんで、そのしわ寄せが一気に噴き出しはじめています。お手々のしわとしわを合わせてしわ寄せ。なーむー。

▼今日は夕方から、なおちゃんのピアノ発表会でした。まだまだ習い始めに等しいレベルなので、簡単な曲を一曲は一人で、一曲をお母さんとの連弾で披露しました。
 開演前も、さほど緊張はしてないようでしたが、サイがいろいろアドバイスしてました(サイはいまだに「かなり弾ける」レベルなので、家でも先生役をしていました)。
「家とおんなじように弾いたらええから。なおちゃん上手やから。連弾も、お母さんはちゃんと弾いててあげるから、まちがっても止まっても、途中から合わせて弾いたらええから」
 そして舞台へ登場。
 なおちゃんは完璧でした。一人でも、なかなか自信たっぷりに、上手に弾いてくれました。
 で、連弾。こちらもなおちゃんは完璧でした。でも、お母さんがまちがえてやんの(笑)。


2001年6月5日(火)

 先日の話なのだが、家に帰ると、ともちゃんがウルトラマンダイナ・ストロングタイプのソフビを持って遊んでいた。お、買ってもらったのかと思って訊ねると、なんでも母親に連れられて予防接種を受けに行った(しかもほとんど泣かなかった)ごほうびだという。
「いいなー、いいなー、ともちゃんばっかりいいよなー」
 と、ともちゃんの袖を引いて訴えると、ともちゃんは、
「おとうさんにもかってあげたー。ナイフのん。こわいのん」
 と言うではないか。
 サイが机の上にあるというので見てみると、机の上の妖怪コレクションにまじってリアルな「バイオレンス・ジャック」が! フルタ製菓「永井豪の世界」のフィギュアである。
 やったー、ともちゃんありがとう。

 しかし、3歳児に食玩買ってもらうお父さんって……
 しかもめっちゃ喜んでるし。

 ただ、この「永井豪の世界」には、残念なことに「ハレンチ学園」も「あばしり一家」も含まれていない。「20世紀漫画家コレクション」と銘打つには(第2弾は横山光輝らしい)、それではあんまりではないかと思う。三十七にもなって歯噛みするようなことでもないが。


2001年6月7日(木)

 ウォークマンで JUDY AND MARY を聴いていて、はじめていいなあと思った。これまでテレビで見かける分には、ボーカルの姉ちゃんが根性悪そうで気に入らなかったのだが。
 思い起こせばサディスティック・ミカ・バンドの昔から、この手のが好きだった。シーナ&ザ・ロケットとか。ジューシィ・フルーツとか。チャクラやら少年ナイフやら。戸川純とヤプーズも。それからピチカート・ファイブ。
 女性ボーカルのバンドってだけで、音楽にあんまり共通点はないけれど、ボーカルそのものや歌詞やアレンジが一筋縄ではいかないというか、ひねりのあるところが好き。そういう意味で、森高なんかも好きなのかもしれない(ソロだけど。ルックスもめっちゃ好きだけれど)。
 だから逆に、人気はあっても売れ線狙いのストレートなのはピンとこない。ZARDやマイラバやELTやブリグリなんか。区別もよくできない。

 音楽ジャンルを超えて、そのへんを「屈折型キャンディ・ボイス系」とでも名づけようか。
 そんなもののどこがいいのかと考えてみたのだが、、非常にクレバーな女性の戦略に通じるものを感じるせいかもしれない。
「自分が女性であることを肯定(あるいは強調)しつつ、男性社会の矛盾や問題をすべて見透かしたうえで(ときには心中で嘲笑しながら)、自己の主張を貫く」というような感じ。実際はそんなことこれっぽっちも考えてないかもしれないにしても。
 でもまあ、私の音楽の趣味が悪いだけという可能性もある。それはほっとけ。


2001年6月11日(月)

 8日の金曜日、大阪で大変痛ましい事件があリました。
 小学1年生の子どもを持つ身としては、亡くなられた子どもたちのご冥福と、その友だち、近親者、関係者の皆さんの心身の傷が一日も早く癒えることを願ってやみません。

 犯人に対してはいうべき言葉の持ち合わせがありません。ただ、司法に対しては、すべての経過、あらゆる動機、そしてこれまでも粗暴で周囲に迷惑をかけつづけていたといわれる犯人の心の闇を、決してありきたりの「物語」に押し込めることなく、底の底まで白日の下にさらしてもらいたいと思います。なによりもこのような事件の再発防止のために。そしてもしかするといるかもしれない、同じような心の闇を抱えて苦しんでいる人を救うために。

 事件を離れて気になるのが、一般の精神障害者のことです。障害に悩みながらも治療に専念している、あるいは懸命に社会復帰の努力を続けている精神障害者のことです。
 この10年でやっと施設から地域へという追い風が吹いてきたにもかかわらず、精神保健福祉法の改正もなったというにもかかわらず、施策の後退も予想されるほど激しい逆風が起こりそうです。
 17歳の事件が続発しても、誰も高校2年生を隔離せよとは言いません。中国人マフィアが暗躍しているという週刊誌の記事を見ても、誰一人中国人を全員検挙せよとは言いません。
 しかし、こと精神障害者に関わっては、誰もが平気で同じようなことを口にします。どれほどの偏見が世間に蔓延しているのか、ハンセン病患者同様の「社会的入院」を余儀なくされている患者がどれほどいるのか、気にもとめることはありません。それがどんなに特殊なケースなのかなど考えてもみず、障害者全員に当てはめようとします。
「わけわからん→こわい→逝ってよし→いてまえ」
 さまざまな差別を生み、多くの虐殺を生み出してきたこの浅薄な論理が繰り返されないように祈ります。


2001年6月13日(水)

▼掲示板が壊れております。別に私のところが荒らされたというわけではなく、サービス事業者ごと落ちているようです。というわけで、ひとまず仮のものを置いておきますのでよろしければご利用ください。

▼今年の夏こそ海へ行こうと思います。上の息子に夏休みの行楽地について希望を聞いてみましたところ、「海! それかキャンプ」ということでしたので。
 遊園地やテーマパークという案も出しはしたのですが、とにかく海水浴がいいそうです。
 親というのは愚かなもので、どうせ行くならいろいろなところを回って遊ばせてやりたいと思ってしまうのですが、どうやら海以外は眼中にないようなのです。
「お、ここはどうや。ちょっと遊ぶとこもあって、大きな水族館もあるぞ、水族館も」
 と持ちかけてみたのですが、
「どうせマンボウとかおるだけやろ」
 と鼻先であしらわれてしまいました。

 マンボウおったら十分やんけー。お父さんは見たいぞー。


2001年6月15日(金)

 下のチビさんも3歳になって、いよいよ「なんで攻撃」が熾烈を極めるようになってきた。
 昨夜も、本棚の上に転がっていたおもちゃの部品を目ざとく見つけて、攻撃を開始した。
「あれデジモン?」
「そうや」
「なんでデジモンなん?」
「デジモンのおもちゃについてた部品やから」
「なんでついてたん?」
「デジモンのおもちゃやからやて」
「なんであそこにあるのん?」
「とれたからはずして置いたあんねん」
「なんでとれたん?」
「とれやすかったから」
「おとうさんとったん?」
「ちがうちがう。勝手にとれてん」
「なんでかってにとれたん?」
「とれやすかったんやて」
「なんでとれやすいん?」
「つけ方ていうか、とれやすいようになってんねん」
「なんで?」
 そんなもん知らんがなー。もう勘弁してくれー。
 質問を繰り返しているうちに、本人もすでに自分が何を聞きたいのか、何を聞いてるのかすらわからなくなってしまうようである。

 ちなみに、「なんでや攻撃」というのもある。
「ともちゃん、ぼちぼちねんねしよか」
「なんでやっ」
「ちがうがな、ほな、歯ァみがいとこか」
「なんでやっ」
「なんやそれ、いちいち」
「なんでやっ」
「パンツも替えなあかんで」
「なんでやっ」
「まだねしょんべんするやないか」
「なんでやっ」
 ツッコミ病か、お前は。


2001年6月17日(日)

 この土日は実家へ帰っていたのだが、実家から自転車で10分ほどのところに「Book off」があるのを発見したので、初めて足を踏み入れた。幹線道路沿いでは、しばしば見かけていたのだが、今までは特に関心も持たずに通り過ぎていたのだ。
 いやあ、まあ、なんというか、何でもあるのに感心した。しかも(当然のことながら)安いし。
 で、100円均一の棚から目についたのを10冊ばかり買ってみた。

橋本治『貧乏は正しい! ぼくらの資本論』(小学館文庫)
爆笑問題『爆笑問題の日本原論』(宝島社文庫)
シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(新潮文庫)
トニー・ケンリック『三人のイカれる男』(角川文庫)
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)
金谷治『中国思想を考える』(中公新書)
オリビア・セントクレア『ジョアンナの愛し方』(飛鳥新社)
小池真理子『恋』(早川書房)
中野翠『私の青空』(毎日新聞社)
鮎川信夫『鮎川信夫詩集』(思潮社/現代詩文庫9)

 という陣容である。一貫性も趣味もぐちゃぐちゃで、坪内祐三みたく渋くなくてすまん。て、誰にあやまってますか。
 いずれも、なんでこれまで買わなかった(もしくは読まなかった)のかという本ばかりであるが、そのへんはともかく、これだけ掴んで千円は安い。まったくもってありがたい話である。なまんだぶなまんだぶ。


2001年6月20日(水)

 Webで日記を書いていて、自サイトのカウンタの話をするのはあまり品がよくないことであるのは承知しているのだが、このごろよく回っているのでうれしいとだけ書いておく。前年同月比でほぼ2倍、トップページのカウンタで言うと一日あたり200弱、リードミーによると一日130前後というところである(平日に限る)。
 まったくもってありがたいことである。

 ところが、ここへきて更新ペースが落ちている。たくさんの訪問者の方には申しわけない限りなのだが、なんかもうネタとか気力とかがさっぱりなのである。せっかくお客さんが増えてるってのに情けない限りである。せっかくのチャンスをふいに、というか、今をピークにこの先減少確定というところでしょうか。
 憧れてた女の子だったのに、言い寄られると振ってしまう、というような天邪鬼なところが何とも。天邪鬼なのか。

 ていうか、鬱っぽいんですけどね。6月に入ってから。なんにつけやる気は起こらないし、やっても能率あがらないし、眠りは浅いし、一方でつねに苛立ってるし。
 あーあ。


2001年6月21日(木)

 今の仕事についてから、ことあるごとに思い出す一編の詩がある。宮沢賢治のものである。

そのまっくらな巨きなものを
おれはどうにも動かせない
結局おれではだめなのかなあ
みんなもう飯もすんだのか
改めてまたどらをうったり手を叩いたり
林いっぱい大へんにぎやかになった
向ふはさっき
みんなといっしょに入った鳥居
しだれのやなぎや桜や水
鳥居は明るいま昼の野原にひらいてゐる
ああ松を出て社殿をのぼり
絵馬や格子に囲まれた
うすくらがりの板の上に
からだを投げておれは泣きたい
けれどもおれはそれをしてはならない
無畏 無畏
断じて進め

 賢治にとっての「そのまっくらな巨きなもの」が、何であったのかは知らない。あまり関心もない。
 ただ、今の仕事(での私の状況)にあてはまりすぎるので、行き詰まるたびにふと頭をよぎるのである。
 それだけ。


2001年6月22日(金)

 携帯電話のやり取りをそばで聞いていると、一方の声しか聞こえないので結構欲求不満におちいる。
 先日も、とあるうどん屋に入ると、隣のテーブルで一人の中年女性が携帯電話に向かって大声で話していた。いやでも耳に入る声と距離である。

「え?、それでお医者さんはどない言うてはったん。……ふんふん、せやからそれは歯医者やろ、歯ァのことはええねん。心電図とったんとちゃうの、……せや、心電図。……ほんで悪いて言うてんねんやろ。ふんふん、……ふん、ちがうがな歯医者のこととちゃうがな、心電図はどやったんて言うてんねん。……ふん、……ふん、悪いのはわかってるて、ほんでどない悪いんやて聞いてんねん。いろんな病気があるがな。……そうや、……ふん。……ふん、ふん、せやからそれは歯医者の話やろ。歯医者やのうて、心電図、しん・でん・ず。……うん、いや、悪いのはわかったから、お医者さんはどんなふうに悪いか言うてはったやろ。不整脈やとか、いろいろあるがな。……ふん、ふん、……ふん。歯医者の話はもうええて、それは歯医者さんやろ。心電図とったんちゃうのん。先生はどない悪いて、ふんふん、悪いのはわかってるがな、悪いんやろ、せやからどこが悪いのん。ふん、……ふん。それは歯医者の先生やろ、歯ァの話はええねんて。わかったて。さっきから心電図のこと聞いてんねんがな。……うん、病院の先生……ふんふん……心電図とって悪いとこまでは聞いてん、わかってんねん。それがどない悪いか……ふんふん、先生が……ふんふん……それは歯医者の先生やろ! ほんまにー、もうええわ!」

 鼻からうどんが出そうになった。
 ネタじゃなくて、素のやりとりでこれだもんなあ。めっちゃ全文聞きたかった。


2001年6月24日(日)

 昨日、家族で食事に出かけた先に大きなゲームセンターがあったのでちょっとのぞいてみた。見ると、フロアのまん中あたりで、4台の筐体が田の字に固まって盛り上がっている。何気なくのぞき込んで仰天した。シャ、シャア専用ズゴック!。
 どうやらロボットによる対戦型のゲームらしい(バーチャロンの如き)。「ゲーメスト」の休刊とVF3の店舗からの撤退以降、アーケード情報にはさっぱりなのでよけいに驚いた。
 フィールドの表現も、機体の質感も、なんというリアリズム。機体の重量感なぞオラタンどころではない。NAOMI基盤の面目躍如である。広大なフィールドで戦う2対2のロボット戦。見覚えのあるロボット(正確にはモビルスーツ、もしくはモビルアーマー)たちが、駆け回り、射ち合うのである。私は見ているだけで背筋が震えた。
 そしてそのキャラである。ガンダム、ガンタンクは言うに及ばず、先のズゴックやギャン、ジオングまである。搭乗者にはスレッガー・ロウ(中尉)とかまでいる。「一年戦争」にとち狂い、「マチルダ少尉」に萌えた身なれば、ここはなんとしても連邦軍に身を投じて、ジオンの野望を打ち砕かねばなるまい。
 私は汗ばむ手でポケットの百円玉を探った。しかし、背後から響く「おとーさん、おしっこー」の声で我に返った。
 そうなのだ。すでに私は守るべきものを多く持ちすぎた。愛する妻子を置いて、自ら望んで死地に赴くわけにはいかない。
 私は深呼吸を一つしてその場を離れた。今度は一人で来よーっと、と胸に誓いながら。

 息子たちとトイレへ行った後、久しぶりに「The House of the Dead 2」に挑んだ。大画面の中でリアルなゾンビが次々と襲い来るのを、拳銃一丁で撃ち倒しながら進む、いわゆるガンシューティング系のゲームである。
 久しぶりではあったが、画面がでかい(的が大きい)せいか快調に進んだ。もちろん子どもたちは後ろに立たせたままである。頭を吹き飛ばされ、緑色の体液を撒き散らしながら、ゾンビたちが次々と倒れていく。まあ、世間にはこういうゲームもあることを見ておいたほうがいい。というのは勝手な理屈である。
 そのうち当然ゲームオーバーを迎えた。ふう、と息を吐いて子どもたちを振り返ると、唇を引き結んで目を見開いたまま硬直している。両手は脇をしめて、なぜかチェストパスのようなポーズになっている。
 ともちゃんに見学の感想を求めてみた。
「ともちゃんな、おばけの、てっぽうバンバンするやつな、こわかってん。おばけがな、うーってくんねんけどな、バンバンてしてな、ちょっとこわかってん。でも、もうこわないでえ」
 ということであった。


2001年6月26日(火)

 このところ、「それは、愛をインプットされて生まれてきた少年」だとかなんだとかいうコピーで、スピルバーグの新作が怒涛のCMでもって宣伝されている。
 しかし、本朝には「山本さん」がいる。
 私はあれを超える「ロボットの物語」があろうとは思わない。スピルバーグ恐るるに足らず。

 「ロボットの物語」は、えてして「過度の擬人化による『奴隷物語』の焼き直し」、もしくは「機械視するあまりの『人工と自然の対立物語』の変奏」に陥りがちである。いずれにせよ、「陳腐な物語を語り直すのにロボットをあしらってみた」というふうにしか見えないし、残念ながら、小説にせよ映画にせよ、ロボットをテーマにしたものはそんな作品が大半であるようにも思う。
 そういう目で見れば、結構クリエイターの力量がわかる。

 けど、前回の「オラタン」といい、今回の「山本さん」といい、私はすっごく「わかる人だけわかりゃいいや」という態度で日記を書いているように思う。結構サディスティックなところがあるのかもしれない。
 もちろん直しませんけどね。


2001年6月29日(金)

 これはその昔、南伸坊のエッセイで読んだような記憶があるのだが、「言霊の力」というものにいまだ懐疑的な人もあろうかと思うので紹介しておく。

 まず、スカートをはいた女性の写真を用意してほしい。同じものが2枚あればなおよいが、1枚でも構わない。もちろん生写真である必要はない。マンガ雑誌のグラビアでも、ニッセンのカタログでも、アイドルのトレカでも十分である。アイドルの写真の方が、ここで述べる実験のインパクトは大きいかもしれない。
 つぎにサインペンを用いて、余白にひとつの矢印を描く。小さくてもよいが、先端は女性の下半身に向かうようにする。
 そして、その矢印の根元側にカタカナで4文字、「ノーパン」と書き込むのである。

 あなたはたった4文字のカタカナの持つ力に驚くにちがいない。
 自分で書いた文字にもかかわらず、そんなことは露ほども信じていないにも関わらず、その写真を冷静に見られなくなっている自分を発見するにちがいない。
 一度お試しいただきたい。

 残念ながら男性の写真しか用意できなかった人は、ズボンの股間に向けた矢印の根元には「ノーパン」じゃなくて、「半勃ち」と書くこと。

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