そこにはない楽園(2)
2006年7月10日公開。短編小説(四百字詰め約97枚の後半部)
食後に熱い緑茶を入れて、パソコンに向かったところで、仕事から帰ったばかりの格好で、真美の母親が訪ねてきた。アルミ製のカードケースから名刺を取り出して雪夫にくれた。名前は美和子というらしい。玄関先で立ち話になった。
「今日は本当にごめんなさいね。真美が勝手におじゃましたそうで」
美和子は、玄関先の靴を目で確かめるようにしながら、
「どなたかと暮らしてらっしゃるの」と訊ねた。
ぶしつけだが嫌味はない。下町のおばさんあたりならよくあるタイプかも知れないが、雪夫のまわりではめずらしい。いや、小学校時代にはクラスにこんな女の子がいた。
「真美がだれかにドアを開けてもらったって言うから」
雪夫は、一人暮らしであることを告げた。鍵をかけ忘れることもよくあるので、好奇心で入ってみたのでしょうと、なるべく気にしていない様子でつけ加えた。
「あら、あの子ったら、うそつきなんだから」
きっと叱られると思ったのだろう。いかにも子どもらしい話だと、雪夫は微笑んでみせた。
パソコンの前に戻って、テキストエディタを立ち上げた。USBポートにメモリスティックを差し込んで、書きかけの原稿を開いた。
若者の城へ、新たに兄が十四歳、妹が十二歳という幼い兄妹がやってくる。数日間は、若者自身が乗馬の手ほどきをしたり、散歩をしたり、豪華な食事に同席させたりして、兄妹の緊張を解きほぐしてやる。そして一週間がすぎた夜、大きな寝室で兄妹は全裸に剥かれ、部屋の柱に縛り付けられるのだ。手はじめに、女中頭と執事の息子が交わりはじめるが、馬丁の一人がその息子を後ろから犯す。若者は立ち上がって、もつれ合っている三人に鞭を振るう。兄妹はその光景に衝撃を受けて、縛り付けられたまま泣き出す。泣き声に苛立ったように、若者は兄のほうを柱から下ろし、髪をつかんで、屹立した男根を喉までねじ込む。妹はそのまま、年若い女中たちに命じて、指と舌で責めさせる。
翌朝、若者は兄妹を着飾らせて庭へ連れ出す。昨夜の出来事におびえきっている兄妹に頓着せず、人工の森の中を案内する。アダムとイブは、恥ということ知らずに森で暮らしていたんだよ。兄妹なのにね。
木漏れ日の暖かい広場に出ると、若者はマントの下から短剣を抜き放って、兄妹に突きつける。さあ、お前たちも恥を忘れるがいい。
一段落したところでパソコンの電源を落とし、雪夫はシャワーを浴びた。ふと思い立って、ナナを拭くことにした。新しいタオルを固く絞った。
雪夫は全裸のまま、ナナのワンピースを頭から引き抜いた。真っ赤な革靴も脱がせる。ナナはおとなしく立ったままだ。
雪夫はタオルを手にして、ナナの前にしゃがみ込んだ。
「だめじゃないか、他人を勝手に入れたりしちゃ」
「いいじゃん。かわいかったもん」
雪夫はかまわず手を動かした。服に隠れている胸や尻より、やはり首筋や足の方が汚れやすいようだ。肘や膝、腹部の関節の隙間も、タオルの角を押し込むようにして埃を拭き取っていいった。
「そういう問題じゃないだろ」
ひととおり汚れを拭って、ワンピースを乱暴に頭からかぶせた。
ナナは、床に膝を突いて靴を履かせている雪夫を見下ろした。
「勃ってるよ」
「だまってろ」
「してあげようか」
「大きなお世話だ」
たしかに、ナナを手に入れた当初は、この精巧な人形にいろいろな姿態を取らせて愉しんだ覚えがある。四つん這いのまま尻をこちらに向けさせてみたり、仰向けに寝かせて脚を開かせてみたりもしたが、自涜の具にはならなかった。裸体の少女人形は、淫猥な空気とともに死のイメージを色濃く漂わせていた。薄い乳房も、きっぱりと閉じた唇のような性器も、雪夫の興奮を呼び起こすことなく、むしろ生きている自分の方が不完全であるように感じさせられた。悲しみに近い感覚にとらわれて、雪夫はこれが永尾の才能かと感心するに終わった。屍体や幼女にフェティシズムを感じる人間なら、それでも興奮するのだろうか。雪夫は、意外と健全な嗜好を持つ自分に少し落胆した。
「も少し柔らかいので拭いてくれなきゃ、お肌が荒れるじゃない」
「ああ、気をつけるよ」
服を着せ終えると、人形はガラスの眼を前に向けてすっくりと立ち上がった。
タオルを洗濯機に放り込んで、おやすみのキスをする頃には、勃起もすでに収まっていた。
その日をきっかけに、真美は頻繁に遊びに来るようになった。
無理もない。小学校はまだ春休みで、このあたりにはまだ友だちもいないのだ。
雪夫は日中もたいていパソコンに向かっている。翻訳もすでに佳境に入りはじめていた。
母親の美和子は、引っ越しの前にすでに仕事を見つけてきたらしい。ひと駅先の不動産屋での事務の仕事だという。もともと会社勤めをしていたので、パソコンを使った事務作業なら手慣れていると言っていた。
だから、真美は朝から晩までいることもある。雪夫が気を許すと、母親の用意した昼食を食べにもどるとき以外は、家から持ってきたマンガを読んだり、ゲームをしたり、無地のノートに絵を描いたりして、一日中雪夫のそばでごろごろしている。
それでも退屈することはあるようだが、そんなときは、たいていナナが相手をしてくれている。
美和子も初めの頃は恐縮するばかりだったが、近ごろは打ち解けてきたせいか、電話でお願いねとだけ言い残して、仕事に出かけることも多くなった。
ある日の昼下がりに部屋の電話が鳴った。雪夫が、この電話のベルを聞くのは久しぶりだ。どこか懐かしい気がして、しばらく耳を傾けてから受話器を取った。
「あんた、大学やめたって」
もしもしも抜きにいきなりの詰問口調だった。いつもの由香だ。
「母さんに聞いてびっくりしたわよ。勉強しかできないあんたが、学校やめてどうするの」
息もつがずにたたみかけてくる。大学院は休学しただけだと誤解を解くと、いくぶん口調が和らいだ。
「でもあんた、その間どうするのよ。ニートってやつ?」
ひきこもりだよ、雪夫は自嘲気味に答えた。
「にしても、あたしの誕生日も近いから、こんどうちにプレゼントもっといで。高いやつ」
乱暴なもの言いに姉の思いやりが伝わってきた。由香は昔からこうだった。
中学に入ってすぐ、雪夫は上級生の不良に目を付けられた。たまに顔を腫らして帰宅するようになると、母の亜紀子は、雪夫の沈黙におろおろとするばかりだった。
ある日、いつものように一人で夕食を食べて家にいると、九時を過ぎてから、由香に電話で呼び出された。場所は繁華街の真ん中のゲームセンターで、雪夫の通う中学校の不良が集まる場所として有名だった。雪夫は嫌がったが、半ば脅されるように承諾させられた。いやいやながら自転車で出向くと、ゲームセンターに由香の姿はなく、いつもの不良たちがいた。不良たちは、雪夫の姿を認めると、舌なめずりせんばかりに絡んできた。
由香が現れた。雪夫の胸倉をつかむ不良の手を、強く払いのけて雪夫には帰れと言った。呼び出した用件を訊ねると、もうすんだ、とだけ言われた。由香の背後には、仲間なのだろう、派手なシャツを着て暗い眼をした男たちがいた。
雪夫は、由香が不良たちとにらみ合っている隙に、自転車を飛ばして家に帰った。
その夜も、由香の帰宅は十二時を回った。
翌日から一週間、雪夫にちょっかいを出していた不良は学校を休んだ。再び来たときには、左腕を三角巾で吊っており、おびえたような目で雪夫を見るようになっていた。
四月に入って、真美の学校が始まった。
だから、真美も夕方まで帰ってこない。近ごろは、放課後も学校で面倒を見てくれるらしい。
母親が帰ってくるまで雪夫の部屋で時間をつぶすこともあるが、来ない日も多くなった。学校が終わってから、いっしょに遊ぶ友だちもできたのだろう。それに宿題も多いらしい。もちろん、遊びほうけて手つかずで帰ってきた日などは、雪夫が宿題を見てやることになった。塾はまだ行ってないようだが、まだ四年生になったばかりだ。美和子も、塾なんて急ぐようなものじゃないと言っていた。
美和子が早く帰ってきた日は、夕食に呼ばれることもあった。帰りに買ったらしい出来合いの総菜が多かったが、手の込んだ料理もできるようだ。少し多めに作ったのと、繊細なソースのかかった白身魚のソテーや、とろけるほど煮込んだ肉料理を出されたこともある。休日の午後には、焼きたてのケーキを持ってきてくれたりもする。
美和子が会社の都合で遅くなるときは、つくりおきを温めて二人で食べることもあった。美和子は遅くなることが少なくない。残業した分は、きちんと時給もはずんでもらえるらしい。
いずれにしても、雪夫の時間は、かなり真美にとられることになった。真美はまだまだ子どもっぽいところがあるので、平気で雪夫に甘えかかってくるし、雪夫の都合にかまわずゲームの相手をせがむ。雪夫は、それを可愛らしく思っていっしょに過ごしてやるのだが、気持ちの波が下向きのときなどは、面倒で仕方なくなることもあった。少女の甲高い声を耳ざわりに感じはじめると、にこにこと学校の出来事を話しているだけなのに、真美を怒鳴りつけたくなる。雪夫の部屋で、真美が机や本棚を勝手にいじりだしたときは、本気で叱って泣かせたこともあった。
たまになら、美和子の都合で九時十時まで真美と一緒にいてやるのも仕方ないと思ったが、そんなとき困るのは風呂だ。小学四年生とはいえ、真美は赤の他人で、しかも女の子だ。外でよく遊んで帰ってきた日は、体中から仔猫の匂いがする。なのに一人で風呂に入ることを嫌う。美和子は平気で入れてやってくれと言うが、雪夫は照れくさい気がしてその気になれない。どこまでも安全だと思われているらしい。
ある夜、美和子が遅くなるというので、雪夫の部屋でいっしょに夕食を食べてから、うとうとし出した真美をソファに寝かせて風呂に入った。のんびり湯船につかっていると、眠っているはずの真美が、素っ裸でやってきた。
「おにいちゃーん」
注意する間もなく勢いよく飛び込んできて、盛大に湯があふれた。雪夫はうろたえて、思わず立ち上がりかけたが、慌てて首まで湯船につかりなおした。逃げ出すと真美の気持ちを傷つけるような気がして、つとめて平静に振舞うことにした。内心どぎまぎしながら小さな頭を洗ってやり、ついには背中を流してもらう羽目になった。
「お父さんは好きだったよ」
小さな手に泡立つタオルをわしづかみにして、一生懸命背中をこすってくれた。雪夫は、フランス語の不規則動詞の活用を口の中で唱え続けて、よく動くタオルの感触が身体に呼び起こそうとする反応を阻止した。
どうにかこうにか真美を風呂から上げた。着ていた衣服はひとまとめにしておき、新品のTシャツを着せた。真美には大きすぎるので、まるでコットンのワンピースのようだ。これなら下着はいいだろう。
雪夫は、母親と姉と三人で風呂に入っていた頃のことを覚えている。もちろん小学校に上がる前で、いつもキャーキャーと大声で笑いあっては、父親にうるさいと怒鳴られたものだ。
あのころが雪夫の家族にとって、一番幸福だったのかも知れない。とは思ってみても、雪夫は具体的な幸福というものを想像できない。家族が元気であること、皆で毎日楽しく暮らせることが、幸福の条件であるとしても、雪夫にはどこかで植えつけられたイメージのような気がした。あるいは、好きなものに囲まれてストレスなく暮らすことが幸福だというなら、雪夫には今の暮らしで十分に幸福だ。ただ、雪夫に幸福だという実感はない。一人でいるときの満足感も、幸福という言葉とは結びつかない。家族と暮らす喜びを学習する機会がなかったせいで、幸福に対する感覚そのものが希薄なのかもしれない。
雪夫は、迎えに来た美和子が恐縮するのを手で制して、今日は油断してましたが、いっしょの風呂だけは勘弁してくださいと反対に頼み込んだ。
二人を送り出してドアを閉め、雪夫は大きく息を吐き出した。
書斎に入って、机の上のナイフを取り上げた。抽出しからセーム皮を取り出し、ゆっくりと刃を拭いた。ナイフを頬に当ててみた。刃を立てると、さりさりと産毛の剃れる音がした。
訳文の推敲用にと、机の上に広げてあるプリントアウトに目を落とした。
小説の若者は、雪夫とはちがって、侵入者に容赦がない。連れ込んだ子どもの縁者が城に押しかけてくると、楽園と名付けた庭にあるひときわ大きな木の枝に吊るした。気に入らない使用人や職人には、即座に暇を出し、再び現れたりすると骨が見えるまで鞭打った。我が楽園に自分の欲せざるもの、醜いものはあってはならぬが口癖だった。
雪夫は、自分の楽園に踏み込んでくる真美と美和子を並べて犯し、手のナイフで切り刻むところを想像してみた。しかしそんな想像は、小説をもじってみた芸術家気取りの無理やりな妄想に過ぎない。雪夫には、自分がそんなことをするはずもなく、望んでもいないことはよくわかっている。本当にそんなことをしてしまえば、それこそ予定調和の三文小説だ。それは雪夫の美意識が許さない。変態性欲の持ち主と呼ばれ、異常犯罪者と呼ばれること以上に、恥ずべきことだと思った。
ほんの一ヶ月ほどだというのに、美和子とはずいぶん親しくなった。たとえば姉と弟のように。あるいは叔母と甥のように。
しかし、ある金曜日の夜、美和子の家で真美を寝かしつけてから部屋に戻り、パソコンに向かっていると、美和子が訪ねてきた。ひどく酔っているように見えた。
翻訳も終幕にさしかかっていた。もとより場面はクライマックスで、婚礼の日の乱痴気騒ぎが長々と描かれている。原始林のように生まれ変わった庭園に、多数のテーブルと豪勢な料理が並べられ、無数の客が一糸もまとわず、そこここで行き交い、もつれ合うのだ。木々の間にあふれかえる悲鳴と嬌声は、わざわざ招いたジプシーの楽団が奏でる激しい音楽をかき消すほどに響き合う。その光景はパゾリーニどころではない。体液と血しぶきが飛び散る性の饗宴だ。
雪夫は翻訳しながら興奮していた。無理もない。若者の視点で描かれたクライマックスを訳すには、自らも森の中で少年を犯し、新妻を鞭打ち、幼女の口を汚し、言うことを聞かぬ女中の性器に拳を押し込むしかないのだ。
美和子は、キッチンから勝手に冷蔵庫のミネラルウォーターを持ち出してきた。雪夫の横に立ったまま、ボトルに口をつけて天井を仰ぐようにして飲んだ。よほど酔っているのだろう、口元からあふれた水が、ブラウスの胸元を派手に濡らした。
美和子は、雪夫の背後からパソコンをのぞき込んできた。
雪夫の肩に顎を乗せてきたので、頬が触れ合った。吐く息が酒臭い。
「なーにしてるの、お勉強?」
雪夫は、窮屈なパジャマの股間を気にしながら、気づかれないようにと、素知らぬ顔で画面に向かっていた。それでも、ひやりとした水の感触とともに、背に当たる柔らかなものを気にしないわけにはいかない。
原始林のような庭園の中央で、婚礼の日に縛られ、鞭打たれている新妻の姿が美和子に重なる。ブリーフの中の硬直はすでに痛いほどだ。
雪夫は答えない。指先は無意識に動いているが、画面にはすでに集中できない。美和子をこの場で押し倒して、後ろ手に縄をかけ、背後から犯すところを想像してみた。雪夫の中で、書斎は森の中の草むらに変わり、木々の間に異形の者たちが現れて、生臭い息を吐きながら、雪夫と美和子の周りを取り囲んだ。
いつのまにか、雪夫の指は止まっていた。
美和子は、雪夫の背に胸を押しつけるような姿勢のまま、モニターの文字を読んでいるようだった。
「やだ、やらしいんだ」
雪夫は、強引に椅子を回して美和子と向き合った。美和子の両肩に手を当てて押しのけると見せて、右手を肩から離し、服の上から乳房を掴んだ。
美和子は、目を閉じて息を吐いた。形の良い唇が開き、粒のそろった白い歯の間に、桜色の舌がのぞいた。
もつれ合うようにしてベッドルームへ移った。どちらからともなく服を脱いで、無言のまま交わった。
美和子の太腿の間で腰を使っていると、ナナと目が合った。鼻の付け根にしわを寄せて、唇をへの字に曲げている。雪夫は気にしない。杏子のときにも何度か経験はあった。雪夫はナナにウインクをひとつして、むしろ見せつけるように美和子の片脚を持ち上げた。美和子の声が高くなった。
余韻に浸っているのか、美和子はうつぶせで背を波打たせていた。
雪夫が体を起こすと、再びナナと目が合った。ナナの目を見つめた。無表情なガラスの目が、雪夫に何かを促しているように見えた。雪夫はすべてを了解した。いや、今はじめて了解したのではない。それははるか以前からわかっていたことだ。それでも唐突に、ここを去れと命令されたような気がした。
そう、僕のいるべきところ、君のいるべきところはここではないのだ。
深海に棲む甲殻類の巣穴のように、子どもの頃の秘密基地のように、そして温かな母の子宮のように、丹精してきたはずの楽園を、雪夫は追われなければならないことを理解した。
美和子の、年齢よりずっと若々しい、なめらかな背中に手を乗せた。美和子は頬を枕に押しつけたまま顔を向けた。
雪夫は、美和子を伊豆に誘った。
「伊豆?」
美和子は、鳩が豆鉄砲を食らったという陳腐な比喩の通りの表情で聞き返した。
「なにしに?」
雪夫は、伊豆が自分とナナの故郷であることと、ナナをこの部屋に迎えることになった経緯を説明した。
「気の毒なことね」
永尾の死のくだりで美和子が漏らした。本人のことなのか、妹のことなのか、若い息子を亡くした両親のことなのかはわからない。
故郷の風景について話した。明るい日差しと、暖かな気候、緑の高原と、青く広がる太平洋について話した。美和子は、ベッドにうつぶせになったまま耳を傾けていた。ときおり相槌を打ちながら、枕を引き寄せて頬を乗せた。
「私の故郷は北国なの。結婚して東京に来るまで、雪の積もらない冬なんて想像したこともなかったわ。ま、今年の冬は、どんな大雪の年よりも厳しかったけど。天気じゃなくて、別れた主人が大荒れでね。自分の浮気が原因なのに」
美和子は、そう言って仰向けになった。電灯がついていることに今はじめて気づいたように、眩しそうに目をしばたたいて、眉の上に手をかざした。
ナナは話に加わらない。虚ろな目で前を向いたまま背筋を伸ばしてたたずんでいる。
雪夫は、つぎに自分の部屋について話した。一人暮らしをはじめて、時間をかけてつくりあげてきたこと、この部屋に入れるものは、鉛筆の一本から恋人まで、自分なりに吟味してきたことを説明した。そこへ永尾がナナを連れてきて、この部屋は完全なものになったのです。絵に描いた龍にとうとう目を入れたように。
雪夫の言葉に、美和子が口を挟んだ。
「ということは、私たちは邪魔ものなわけかしら。あなたに断りなく押し掛けて」
雪夫は、否定も肯定もせず、曖昧に首を振った。
「ほんとを言うとね、このお人形を見つけたときは、少し気味悪かったの。本当によくできてるでしょ。きれいな顔で、生きてるみたいで。だからよけいに怖くて。あなたも危ない人なんじゃないかって」
「失礼しちゃうわ」
雪夫が口を開く前に、ナナが唇を尖らせた。
「ごめんね。いい子よね、あなたも」
美和子が身体を起こして、ナナの頬をやさしく撫でた。
上半身を起こした美和子に背をあずけるようにして、ナナはベッドの端に腰を下ろした。美和子は、胸元に抱えるようにナナを後ろから抱いた。
微笑みながら、耳打ちするように言葉をかけた。
「うちの真美も、あなたみたいにかわいいお嬢ちゃんになってくれるといいんだけれど」
温泉地での宿泊を提案する雪夫に、美和子は表情を崩した。
「素敵。温泉って久しぶりだわ。真美がまだずっと小さな頃に、花巻へ行ったきりだもの。あの子もきっと喜ぶわ」
宿の手配も費用も、すべて雪夫が持つと言うと、美和子はひどく遠慮した。
「だめだめ、そんなのって。私こそ働いてるんだし、ずっとお姉さんなのよ」
雪夫は、硬い表情で美和子の申し出を断った。今回ばかりは、僕の大切な旅なのです。僕はだれの手も借りずに、ナナを故郷に帰さなければならないのです。
承伏しがたい表情の美和子に、もしよければ、夏休みにはどこへでも荷物持ちとしてついていきますからと、強引に承諾させた。
ベッドから出た美和子は、家では真美が寝ているからと、雪夫の部屋のシャワーを使った。
「いったん寝ちゃうと、爆弾が落ちても起きるような子じゃないんだけど」
美和子は、シャワーを終えると、全裸の上に、着ていたスーツだけを身につけた。下着とブラウスは、丸めて通勤用のバッグに押し込んだ。
「裸のままで隣のドアに飛び込んでもいいけど、いったん着た下着って、シャワーのあとでもう一度着たくないし」
雪夫は、翌朝九時に出発するつもりだと告げた。美和子は目を丸くした。
「急なのね。もう今日じゃないの」
雪夫は、他に選択の余地はないという顔で、強くうなずいた。美和子にも伝わったようだった。
「ま、いいか。明日もあさってもお休みだしね。真美は驚くだろうけど」
美和子が出て行ってから、インターネットで宿を取った。一流半の旅館が半額以下で予約できた。
ゆっくりとシャワーを浴びて、すぐに休むことにした。
おやすみのキスをすると、ナナが言った。
「大人って、フ・ケ・ツ」
「うるせーよ。おやすみ」
翌朝、七時過ぎに起きて朝食の用意をしていると、チャイムが鳴った。
ベーコンを焼いている火を止めて、玄関のドアを開けると、真美がいた。
ピンクの野球帽を斜めにかぶり、真っ赤なリュックを背負って、すでに臨戦態勢だ。
九時だと言ってるのにと、肩をすくめると、真美は頬をふくらませた。
「だってお兄ちゃん、旅行に連れていってくれるんでしょ」
用意ができたら呼びに行くからと言っても、聞くような相手ではない。
「やだ」
部屋に飛び込んできた。
「ナナちゃーん」
寝室に駆け込んで人形に抱きついた。
「もう、張り切っちゃって」
ナナはお姉さんぶって、真美の頭を撫でた。ずいぶん機嫌はいいらしい。
「だってだって、温泉だよ。ナナちゃんはろてんぶろって知ってる?」
「知ってるよーだ。テレビで見たもん。あたしは入れないけど。体の奥で、いろんなところが錆びちゃうから」
「ええー」
雪夫は朝刊に目を通しながら、二人のはしゃぐ様子を楽しんだ。ナナは自分と別れることにすでに気づいているはずだが、考えないようにしているのだろうか、それとも気を遣っているのだろうか。雪夫は、とりあえず楽しい旅行にしたいと願った。これまでどおり、自分もナナも感傷とは無縁であるべきだと思った。
二人をそのままにして、雪夫は、ベーコンエッグにトーストで朝食をとった。真美とナナは勝手にテレビをつけて、子ども向けのアニメに見入っていた。
少し迷ったが、薬は飲まずにおくことにした。長く運転することになるし、気分もそう悪いわけではない。
歯を磨いて髭を剃り、小振りなバッグに下着だけを入れて持った。寝室でパジャマを脱ぎ、クリーニングから戻ったばかりのチノパンツと、長袖濃紺のポロシャツに着替えた。麻混のジャケットは羽織らずに手に持った。
ナナを抱えて寝室を出た。
「ナナちゃんも?」
雪夫はうなずいた。
杏子のことは思い浮かばなかった。杏子と最後にセックスをしたことももうよく思い出せないくらいだ。そのせいか、美和子と寝たことにも、罪悪感はまったく感じなかった。隣に越してきた女性と寝たと知ったら、彼女は怒るだろうか、悲しむだろうか。そう思っただけだ。
火の元を確かめて部屋を出た。まだ九時には少し早い。
真美は自分の部屋に飛び込んで母親を連れてきた。
美和子は、ベージュのワンピースを着ていた。幅の広い臙脂色のベルトが、細いウエストを際だたせている。ほんの一泊だというのに荷物が多い。取っ手付きの小さなスーツケースを手にしていた。
あきれる雪夫に、美和子が言った。
「この歳になると、荷物が多くなるの。肩の荷といっしょでね」
雪夫がナナを抱えて、エレベーターで駐車場まで下りた。
ナナは後部座席に乗せて、シートベルトで固定した。その隣に真美が座り、美和子は助手席に乗った。
イグニッションを回してギアをDに入れると、真美が叫んだ。
「しゅっぱーつ」
「やっほー」
嬉しそうに声を上げたのはナナだ。
土曜日なので、道路もそれほど混んではいなかった。雪夫は、少し長めに一般道を走って東名高速に乗った。
朝の早かった真美が空腹を訴えたので、すでに静岡県に入っていたが、サービスエリアで早めの昼食にした。
沼津で高速道路を降りて、半島を南へ下った。
チェックインにはまだ時間があったので、永尾の実家に電話をかけた。母親らしい人が出て、突然のことに驚いたようだったが、雪夫の名前を覚えていたらしい。わけを話すと、声を弾ませて歓迎の意を表してくれた。ただ、今日は主人が出かけているのでと、家へは翌日訪ねることになった。
郊外を回って、車から雪夫の卒業した高校を見た。
「へえ、淳ちゃんの母校か」と、ナナは感心したように眺めていた。
そのあと、せっかく伊豆まで来たんだからと、美和子と真美がせがむので、近くの水族館に立ち寄った。アシカやイルカのショーでは、真美は手を打って喜んだ。美和子もことのほか喜んでくれたので、雪夫も楽しくなった。ただ、車に残されていたナナだけは不満そうで、宿に着くまで人形のまま無表情に固まっていた。
夕方には宿に着いた。宿帳を書くときに、ご家族ですかと聞かれたが、雪夫が姉の離婚記念なのですと答えたら、美和子にわき腹を小突かれた。
部屋係の仲居に案内された部屋は意外と広く、窓からは遠くに太平洋が見えた。ところどころに雲が浮かんでいるだけの空は、都会にはない濃い青色で、傾きつつある太陽が夕焼けを呼び寄せつつあった。
ナナを部屋の隅に立たせて、荷物を置いた。
避難経路や温泉の時間など、通りいっぺんの説明の後で、仲居がお茶を入れながら言った。
「大きなお人形ですね」
「ナナちゃんっていうの」
真美が答えた。仲居は親しみを込めた笑みを真美に向けた。
「へえ。ナナちゃんなの。生きてるみたいね、ほんとに」
雪夫は、ナナを作った友人が彫刻家を目指していたことを付け加えた。
仲居が去ると、母娘は早速浴衣に着替え、タオルと歯ブラシを持って露天風呂に向かった。
部屋に残った雪夫は、バッグからナイフを取り出して刃を見つめた。バッグのポケットから小さな砥石を出して、刃先を撫でるようにタッチアップした。これで三日は髭が剃れる。洗面所でナイフを洗ってタオルで拭いた。座敷のテーブルに向かって、光る刃先を眺めた。
ナナが近づいてきて、雪夫の隣に膝を崩して座った。
「いつも持ってるね、そのナイフ」
「落ち着くんだ、見てると」
鏡のように磨き上げられたステンレスの輝き。ドロップポイントと呼ばれる優美な刃先のカーブ。手に吸い付くようになじむアイアンウッドのハンドル。神様と謳われた職人の業は見飽きることがない。上野の博物館で見た、国宝の名刀を思い出すほどだ。ナイフショップの店主には、日常的に使ったり研いだりするのは冒涜だとまで言われたが、雪夫は敬意を払いつつ使ってこそのナイフだと思っている。だから雪夫は、練習のためにだけ、安物のナイフを三本研ぎ潰した。
「あぶないよ」
「気をつけてるさ」
「じゃなくて、雪夫が、さ」
ナイフなど、フロイトに聞かずともペニスの象徴であることはわかっている。だからといって、生き物の身体に突き刺してみたいと思ったことはない。
雪夫は、思い立って鞄から薬を取り出した。むしろ夕食に近い時間だが、かまわず洗面所の水とコップで錠剤を飲んだ。
夕食は、温泉旅館にふさわしく、部屋の大きなテーブル一杯に並べられた。真美のために指定した子ども用のメニューでさえ、小さな鴨鍋にくわえて四皿もあった。美和子と雪夫は、よく冷えた地酒を注ぎ合いながら、マグロやはまちはもちろん、伊勢海老の造りや鮑の焼き物、金目鯛の煮つけなど、新鮮な海の幸が山と盛られた料理に舌鼓を打った。
夕食を終えて、三人でロビーの土産物を物色した。ゲームコーナーの脇に卓球台があったので、真美もいっしょに浴衣姿のまま遊んだ。由緒正しい温泉卓球だ。
もう一度温泉に入って部屋に戻ると、広い部屋の中央に三組の布団が敷かれていた。真美は疲れたのか、テレビも見ずに寝入ってしまった。
雪夫は窓際のスペースにある椅子に座って、缶ビールを飲みながら本を読んでいた。
しばらくして、真美に添い寝をしていた美和子が傍らに立った。窓から入る風が心地よい。
「酔っちゃったわ。昨日といい今日といい」
目が合った。美和子の瞳が濡れていた。本を置いて手を伸ばすと、椅子に座った雪夫の脇にそのまま跪いて、唇を求めてきた。長いキスになった。美和子の手が、雪夫の浴衣の裾からもぐり込んだ。雪夫はすでに勃起していた。
「固いわ」
そのまま雪夫の浴衣の裾を割った。背を丸めるようにして、飛び出してきたものを唇でなぞった。
ちらりと雪夫を見上げた。
「どうかしてるわ。昨日といい今日といい」
今度は深く咥えた。巧みに舌を使って、長く弄んだ。
雪夫は、薄い障子の向こうで眠る真美を気にしていた。
「大丈夫。いったん寝ると何があっても起きないから」
雪夫も美和子の浴衣の前をはだけた。乳首が立っている。股間に手を伸ばすとそこも十分に潤んでいた。
美和子を立たせた。カーテンを引いた窓に手をつかせて、浴衣の尻をまくった。雪夫も浴衣を着たまま、後ろから挿入した。
和室との仕切りの障子がかたりと音を立てた。雪夫は、真美かと思って、あわてて身体を離した。
振り返ると、開いた障子の向こうにナナが立っていた。鼻の付け根にしわを寄せて呟いた。
「またしてる」
雪夫は黙って障子を閉めた。
翌朝は、旅館の中にある大きなレストランで朝食をとった。今ではよくあるバイキング形式で、品数こそ多いが内容は期待できない。雪夫と美和子は、鯵の干物と野菜の煮物、それと納豆で軽く済ませたが、真美は案の定、ソーセージや唐揚げまでどっさり取ってきて、途中で音を上げた。
せっかくなので、朝食を終えてから、チェックアウトの前にもう一度温泉に入った。永尾の実家へ向かったときには、日はすでに高くなっていた。
永尾の実家は、海よりも山に近い農村部にある。入り組んだ地形に水田や野菜畑が広がり、農協のある村の中心部を外れると、一面の緑の中に農家が点在しているきりだ。
雪夫は、永尾と表札の出た大きな家の前に車を止めて、門柱の呼び鈴を押した。インターホンで答えるつもりが、まもなく玄関が開いて、中年の女性が駆け出してきた。永尾の母親だろう。
「いらっしゃい。いやあ、遠いところありがとうねえ。淳ちゃんの友だちなんて、何年ぶりかしら、ほんと」
車は、門から入れさせてもらい、紅白の花が満開になったツツジの植え込みの間に止めた。
雪夫は車を降りて、後部座席からナナを下ろした。
母親に案内されて、三人が玄関を入ると、父親らしい男性と、妹とおぼしき若い女の子に迎えられた。
「こんにちは」
と、大きな声で先にあいさつしたのは永尾の妹だ。小さな耳、よく動く目、ダウン症特有のぽっちゃりした顔に、満面の笑みを浮かべている。
「こんちはー」
真美も、負けずにあいさつを返した。
「ようこそ、ようこそ。遠いところを。ま、とにかくあがって、さ、ずっと奥へ」
永尾の父親は、よく日に焼けた顔をほころばせている。
急に大勢で押しかけてしまってと恐縮する三人は、奥の座敷に通された。鉄斎の写しらしい軸と生け花の飾られた床の間の脇に、立派な仏壇がしつらえられてあった。
南に面した雪見障子は開け放たれていて、縁側の向こうに手入れの行き届いた前栽が見えた。大きく枝を張り出した松と欅を中心に、百日紅やツツジがバランスよく配されている。水を張った蹲の周りにはアオキと椿が植えられ、濃い緑が目に涼しい。
よく晴れた青空の下の庭を眺めていると、飛び石沿いの丸く刈り込まれた柘植の木の間から、一匹の柴犬が現れた。柴犬は、縁側に両の前脚をかけて、何かを期待するような目ではあはあと舌を出した。
「これ、ハナ」
母親が、柴犬の不作法を叱った。
雪夫は、丁寧にナナを座らせてから、仏壇に線香を上げさせてもらった。美和子と真美も、雪夫の後ろで神妙に手を合わせた。
「ナナちゃんが帰ってきたよ。よろしくね」
真美の呟きが耳に届いた。
座敷の中央には広いテーブルがあり、三人は座布団を進められてその前に座った。ナナもきちんと正座させた。
永尾の両親に、雪夫が永尾と最後に話した夜のことを告げた。それで、やはりこの人形はお返しすることに、雪夫が言うと、妹は手を打って喜んだ。テーブルを回り込んできて、ナナの横にぺたんと座り、手を取って話しかけた。
「おかえりなさい。私はさちえっていうの。なかよくしてね」
「こちらこそ」
ナナもにっこり笑って、さちえの手を握り返した。さちえはますます嬉しそうな顔になった。
故郷に帰って花作りを手伝いたかったという永尾の言葉に、父親は目を赤くしていたが、そんな娘を見て顔をほころばせた。
「もう二十歳なんだがね、夏が来ると二十一になる。でもこっちのお嬢ちゃんよりちょっと幼いぐらいかな」
母親も隣でうなずいた。
「昔はね、この子のことで苦労したもんですよ。小さいころは身体も弱かったし。学校でもいじめられたり。お兄ちゃんが飛んでって相手をぶっとばしては、学校に呼び出されたり」
「さちえはおにいちゃん大好きだったよ。やさしかったもん。ナナちゃんはおにいちゃん知ってる?」
「そりゃあ、あたしを作ってくれたんだもん。どれほど手をかけてあたしの肌を磨いてくれたか。さちえちゃんこそ知らないでしょ」
張り合うようなナナの口ぶりに、周りの大人は目を細めた。
永尾の両親が強く勧めるので、昼食を呼ばれることになった。用意してあったのだろう、大きなテーブルいっぱいに料理が並べられた。刺身、揚げ物、味噌汁に寿司桶、焼きたての餃子まであった。昨晩の夕食には比べようもないが、いかにも庶民らしい心づくしのもてなしだ。雪夫はそれだけで嬉しくなった。
食事の間も、さちえとナナは休むまもなく喋りあって、母親にしきりに注意されていた。
少しくつろいで辞去しようとすると、一晩くらい泊まって行けと引き止められた。いくらなんでも翌日は月曜日なので、真美の学校がありますからと、美和子が丁重に断った。
それでは、ということで、帰る前に花畑を見せてもらうことになった。さちえも、柴犬のハナを連れて一緒に来た。門を出て少し歩くと、大きなビニールハウスが三棟と、文字通りの広い花畑があった。
「まあ千坪もないんだけど」
父親は謙遜する風に言って、遠くの電柱を指した。
「あのへんまで、うちの土地だったんだけど、娘のあれやこれやとか、淳一郎の大学とかで、あらかた売っちまったんだ。たいした金にはならなかったけどな」
父親は、ハウスからの出荷を控えた花の説明もしてくれたが、アルストロメリアやギガンチウムなどと言われても、雪夫には魔女の呪文としか思えなかった。雪夫にわかったのは、チューリップだけだ。
かまわないよと言われて、みんなで花畑の中を歩いた。こちらには、ひなぎくにフリージア、アネモネにキンセンカ、ゼラニウムやマーガレットなど、雪夫にもなじみのある花々が、ところかまわず咲き乱れていた。端の方には、葱やキャベツ、トマトなど、いろいろな野菜も植えられていた。
「このあたりは商売用じゃないんです。野菜は食えるし、いろいろ花を咲かせておけば、さちえが喜ぶからね」
父親が、あれこれ指さしながら説明してくれた。
さちえは本当に花が好きらしい。花の間に埋もれるように座り込んで、真美とナナに首飾りや冠を作ってくれた。都会育ちの真美や、雪夫の部屋から出たことのないナナには、経験のない遊びだ。二人とも嬉しそうに作り方を教えてもらっている。
そこへハナがやってきた。さちえから順に飛びついて、顔を舐めた。ナナにはちょっと驚いたのか、ひと舐めしてから飛び離れて、しきりにくしゃみをした。
雪夫と美和子は、その様子を畦に腰を下ろして眺めていた。
これが幸福なのか。雪夫は、青空に輝く明るい太陽の下で深く息を吸い込んだ。花と土の香りが、雪夫の胸を満たした。咲き乱れる原色の花々に遊ぶ少女たちは、いつか見た絵画のニンフにも見えて、鬱蒼とした森に蠢く奇怪な生き物とは似ても似つかない。
これが楽園なのか。
隣に座っている美和子と目が合った。
「泣いてるの」
美和子に聞かれた。
雪夫は聞かれてはじめて頬を伝うものに気がついた。腕を上げて袖口で顔をぬぐった。長い間、胸の奥にわだかまっていた灰色の霧が、きれいに霽れていくような気がした。思わず笑みがこぼれた。
「結婚しましょうか」
肩を叩かれた。案外強い力だ。
「バカ言わないで。プーのくせに」
美和子は、楽しそうに笑った。
ビニールハウスから戻ってきた父親がさちえを呼んだ。ハナもいっしょに駆け寄ってきて、さちえの足元にまとわりついた。
永尾の父親は、雪夫たちのそばへやってきて、たくさんの花と球根をくれた。
ナナと遊んでいた真美も、雪夫と美和子のところへ駆けてきた。三人は花や球根を受け取って、父親に丁寧に礼を述べた。父親は頭をかいて、「いや、うちには売るほどありますから」と冗談めかして言った。横にいるさちえは、雪夫たちが帰るというので少し寂しそうにしていた。
さちえの横にナナが並んで、やさしく手を取った。ナナが首を傾けて、さちえの肩に頭を乗せると、さちえはナナを抱き寄せた。
ナナは人形にもどった。
雪夫はさちえの抱くナナの頭を撫でた。撫でながら、さちえに人形を大切にしてくれるように頼んだ。
「君のお兄さんはね、君に人形を作ってあげるのを本当に楽しみにしてたんだ」
さちえは力強くうなずいた。
「大事にするよ。もうこわさないから、ぜったい」
雪夫はさちえにうなずき返し、冷たく光る人形の目をのぞき込んでいった。
「いい子にするんだよ」
ナナはうなずかない。雪夫は、それ以上付け加えず、ナナの頬に着いた砂粒を指で拭った。
真美はそれを見て、ナナとの別れが胸に迫ってきたのか、ふてくされたような表情でうつむいていた。
みんなで永尾の実家に戻った。雪夫たちは、家には上がらず、そのまま車に乗った。永尾の両親と妹は、門の外まで出て見送ってくれた。
真美は後部座席で身体をひねり、みんなが見えなくなるまで手を振っていた。
夜が更けるまでには帰りたいと思ったが、途中で食事をしたり、サービスエリアで買い物をしたりしていたので、マンションに着いたときには十時を過ぎていた。
「おにいちゃん、ありがとう。すっごい楽しかった」
「ほんとにお世話になっちゃって。今度ちゃんとお礼するから」
美和子と真美は、そんな言葉を残して、自分たちの部屋に帰った。
雪夫は、鍵を開けて自分の部屋に入った。一晩空けただけなのに、妙に空気がよどんでいるような気がした。
リビングのソファに鞄を放り出し、ジャケットとパンツを脱いだ。ポロシャツと下着は洗濯機に入れた。
鞄から出したナイフだけを手に持って、新しい下着を出そうと寝室に入った。ナイフはベッドの枕元に置いた。
腰のあたりから体中に広がる靄のように、運転の疲れが残っている。雪夫は、裸のままベッドの端に腰を下ろした。ナナのいた場所を見ると、靴あとだけが、カーペットに浅く残っていた。
ナナのいない寝室が広く感じられた。雪夫は、この部屋がすでに、巣穴でも楽園でも子宮でもなくなっていることを痛切に感じた。
雪夫は両手で顔を覆って、ベッドの上で仰向けになった。長い間、そのままの姿勢でじっとしていた。薬が切れてきたのかもしれない。
ゆっくりと上半身を起こした。枕もとのナイフを取上げて鞘から抜いた。鏡のような刃に映った雪夫の瞳は、薄く微笑んでいた。
左手の指先で、右耳の下の脈の触れるところを探した。右手のナイフの切っ先を当ててみた。柄を握る手に力を込めた。
ざあっと頚動脈から噴き上がった血しぶきが、ベッドサイドの壁を真っ赤に濡らすところを想像した。しかし、そんなイメージさえ、雪夫には、紋切り型で気恥ずかしいものに思えた。
雪夫は、手のナイフを鞘に戻して、枕元に置いた。
クロゼットから、新しい下着とパジャマを出してバスルームに向かった。
(了)
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