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【ひろゆきVS.デリダ】ひろゆきを脱構築する



みなさん、ひろゆき氏をご存じですか。

2チャンネルの創設者で、現在もネットやテレビなどのメディアに出演しています。

もはや「それってあなたの感想ですよね」などのスラングは小学生でも使っている始末。知らないひとのほうが少ないでしょう(←なんかそういうデータあるんですか)


そして彼といえば論破のイメージがありますよね。

「なんかそういうデータあるんですか」
「それってあなたの感想ですよね」
「なんだろう……嘘つくのやめてもらっていいですか」

などなど。


「それってあなたの感想ですよね」(それ感)なんて言われたら、
「そうだけど何か悪いか😡」って言い返したくなります。

もちろん彼は悪くないのですが、こういう語録を使ってくる相手に苦い思いをした方も多いかと思います。
ひろゆきっぽい新入社員や小学生が増えているらしいですし(笑)

今回はそういったひろゆき語録に苦しめられた方のために、ひろゆき模倣犯に一杯食わせるための方法を伝授したいと思います。


その手段こそ、脱構築です!

脱構築とはなにか?

そもそも脱構築というのはフランス現代思想の巨人ジャック・デリダによって提唱された概念です。

この概念について正確に説明しようとすると、これは骨が折れます。
「脱構築とは………である」と明快に示すことは難しい……。
なぜならば脱構築は定義として説明できるものではないし、また定義づけされるとそれは脱構築が言おうとしていることから逸脱してしまうからです。

脱構築も、存在と不在をめぐって「ある」を一つのターゲットにしている以上、脱構築とは「~である」と語ることはできない。デリダが「脱構築でないものはすべてである」とか「脱構築とは何でもない」という言い方をせざるを得ないのはそのためである。

『人と思想 デリダ』

だからここでは学術的な正確さは諦めて、私なりにズバッと説明したいと思います。

脱構築とは
モノや概念の構造を内側から自壊させること


これだけ言っても、なんのこっちゃだと思います。ですから3つほど具体例を紹介しますので、なんとなくの大枠を掴んでいただければこの記事としても本望であります。

と、その前に……
なぜ脱構築はひろゆきに「こうかはばつぐんだ!」なのか。それを知ってもらいたいです。

脱構築はひろゆきに特攻

ちなみにここからは、ひろゆき氏がもちいる概念全般を指して「ひろゆき」と記述します。決して彼への誹謗中傷ではありませんので、誤解なきよう…(今の時代うるさいですからね)。

なぜ脱構築はひろゆきに強いのか。
それはこの論理が、相手を自壊させるという振る舞いをするからです。

いわば、がん細胞のようなものです。
ちなみに脱構築は学術界でも非常に不評なんですよね。

脱構築は言葉遊びだ。
脱構築はナチズムを肯定させる。
脱構築は我々の身動きを封じさせる。

散々な言いようですね(もちろんこれはデリダの不理解による側面も大きいです)。

極端に言ってしまえば、学術界のひろゆきこそがデリダである

そういうわけで、バケモンにはバケモンをぶつけんだよのノリです。
ひろゆきにはひろゆきをぶつけましょう笑

話が脱線してしまいましたね。
脱構築とは新しい理論武装をして戦うわけではないのです。
むしろ脱構築が標的にする対象、それ自体を極めることによって対象の矛盾を白昼のもとにさらすわけです。だからこそ、相手は脱構築を否定することはできない。なぜならそれを否定することは、自分自身を否認することになるからです。ひろゆきが、ひろゆきの論理によって打倒されることになるでしょう。

がん細胞だって外部の勢力が身体を蝕んでいるわけではないのです。
自らによって自らを攻撃してしまう。ゆえに免疫系も働かない。
これが脱構築です。

ひろゆきに堀江氏をぶつけるわけでも、
ひろゆきに岡田斗司夫をぶつけるわけでもない。

ひろゆきには、ひろゆきをぶつけるのです!

1.学術(もどき)の例

さてここからは、脱構築の具体例を3つ紹介しましょう。
1.学術的(もどき)の例。もちろん厳密な運用ではなく、わかりやすさを重視しているので厳密性はありません。
2.身近な例。アンパンマンの自己矛盾を挙げて説明します。
3.デリダによる説明。少し難しいですが上記2つの運用を呼んだ方なら6割方理解できると思います。

1つ目の例に参りましょう!

ここではヨーロッパの音声中心主義への脱構築が図られます。まず前提として知ってほしいことは、
・言語システムには2つの二項対立がある。音声(発話)VS.書記
・そして音声は、書記(文字)より偉い
・なぜなら発話は文字より正確に物事を伝えられるから


発話のほうが正確とはどういうことでしょうか。
まず文字(手紙やブログ)についてですが、これらの記述は書き手の「言おうとすること」から必ず外れて行ってしまう性格をもっています。みなさんもそういった経験はあるはずです。誰かにメモを残したのに相手に誤解を与えてしまったことが。
それにくらべて発言する議論の場を想定してみてください。何かわからないことがあれば相手に尋ねたり、相手が間違った解釈をしていたら、その場で修正することができます。ソクラテスの弁論術を思い出してください。ソクラテスは、相手と対話を重ねることで「知」について迫っていきました。その結果はムチムチですがね笑(オヤジギャグを一発いれないと死ぬ病気なのでお許しを🙇‍♂)
つまり発話のほうが文字より正確に物事を伝えることができると考えられていました。

しかし、です。
本当に発話で誤解は生じないのでしょうか。そうではないはずです。互いに「私が言いたいこと」「相手が言おうとしていること」を理解したつもりで、すれ違いが生じることだってあるはずです。アンジャッシュの芸風はまさに発話の不正確を表しています。

そういうわけで、
「発話と文字を対立させて発話を優位に据えるのは、問題がある」
デリダは伝統的な西洋形而上学の思い込みを喝破したのです。


2.身近な例

なんとなくわかってきたのではないでしょうか。
今度はアンパンマンにおける正義と悪の対立を考えてみましょう。

ご存じの通り、アンパンマンは悪を懲らしめて正義を執行するキャラクターです。アンパンマンという作品においては、バイキンマン(=悪)を社会から締め出すことで平和を維持しようとしているわけです。つまり究極の目標は、悪の根源的なまでの削除・排除です。

しかし思い出してみてください。
アンパンマンという存在はどのように正義を行っているでしょうか?

それは暴力です。
バイキンマンの暴力・横暴に対抗する措置として、暴力に訴えている。すくなくともアンパンマンという正義においては、正義も悪も暴力の上に規定されている。悪の根拠も、あまつさえ善の根拠にも暴力が居座っていたのです。この両者に共通する暴力をデリダなら「原‐暴力」と名付けたかもしれませんね。

さらに思考を加速させてみます。世界のすべての悪を排除することが仮にできたとしましょう。その時アンパンマンは二重の意味で存在できなくなります。
1)バイキンマンが現れない以上アンパンマンも現れえなくなる
2)バイキンマン(悪)の排除は暴力が消えたことを意味するが、それは暴力に規定されたアンパンマンの存在根拠を失わせる。
なぜなら正義を構成していた支柱である暴力が消えたことになるから

これは世間でもよく言われることでもありますね。警察は犯罪で食っていけているというワケです(いつもご苦労さまです)。

あるいはこのように捉えることもできます。これはすこしメタ的な思考を必要としていますが、結果は変わりません。

A)バイキンマンのいない『アンパンマン』の物語は存在できない
B)仮にバイキンマンを抹消したとしても同じ理論で力を振るっていたという意味で、[暴力を肯定しているという意味で]本質的に彼と同一の存在であるアンパンマンが存在しつづけてしまう=暴力の可能性。


筆がのってきたので(B)の理論をさらに進めさせてください。では仮にアンパンマンがバイキンマンを抹消したあとに自殺したとしましょう。そうすれば確かに、物語世界から暴力を根こそぎ排除したことになるかもしれません。しかし、そもそも自分を抹消させること自体も暴力なのではないか。
あるいはアンパンマンのいない世界が成り立ったとして、暴力が存在したという歴史それ自体は抹消できないはずだ。その歴史がない世界はあり得ません。もしそれが可能なら『アンパンマン』という物語自体が生まれなかったわけですから。

つまり、アンパンマン(という構造)はその支柱に悪を据えているということです。ここで正義と悪の二項対立は崩れ去ります。

3.デリダの例

最後です。ここからは彼の著作を2ページほど引用します。
ちなみにここで言われている「隅石」とは建築における用語です。隅石は、その建築を支えるなくてはならない存在ですが、それは「隅」に追いやられたものでもあります。

建築術において、また体系においてまず最初に位置づけられるのは「無視された片隅」と欠陥ある隅石である。この隅石はそもそもの始まりから建造物の一貫性と内的秩序を脅かしている。しかしそれはただの隅石である! この石は建築物によって要求されているにもかかわらず、当の建築物をあらかじめ内側から脱構築する。隅石は建築物の結合を保証しつつ、あらかじめ、見えない仕方で、来るべき脱構築に好都合な片隅に位置づける。そこは脱構築を引き起こすレバーを設置しておくのに最良の場であり、もっとも経済的な場である。同様にまた次のように言うことができるだろう。すなわち、設立された建造物の壁をしっかり立たせておくという建立の条件、これを隅石の場が維持し、内包し、そしてその場が建築術的体系の——「体系全体の」——一般性と等価である、と。

            [……]

 部分と全体の等価性、つまり隅石と体系一般とのこの奇妙な等価性へ戻る前に、私はここで、いわば布石を置く仕方で、ある問題の場を印づけておかなければならないだろう。この問題は後ほどよりはっきり練り上げようと試みるつもりだが、まず、先ほど検証したように、脱構築の条件そのものはこう言ってよければ「作動中」であり、つまり脱構築されるべき体系のなかに見いだされる。脱構築の条件はそこにすでに位置づけられており、中心ではなく、中心をはずれた中心ですでに働いている。中心を外れたこの片隅は体系の堅固な集中を保証し、その構築にまで寄与しつつも、同時に、それを脱構築する脅威にもなっている。このことから次のように結論づけることが試みられるかもしれない。すなわち、脱構築とは外部からある日突然事後的に生じる操作ではなく、それはつねにすでに作品のなかで作動中である、と。

            [……]

隅石としてのアレゴリーは、体系がどれほど不安定であろうと、体系を下から支える。アレゴリーは体系すべての力、すべての緊張をいわばただ一点において取り集める。だが、アレゴリーは丸天井の要石のように高みの中心からそうするわけではない。アレゴリーはやはり体系の隅で、横から間接的に、そうする。アレゴリーはある一点でかつあらゆる瞬間に全体を表象する。アレゴリーは、こう言ってよければ、ある周縁部において全体を集中させ、形成し、全体と同等の価値をもつ。

            [……]

全体はみずからを全体化しておらず、体系は欠陥ある隅石の助けを借りて構築されているからである——この隅石が当の体系を脱構築するにもかかわらず、あるいはそうするおかげで。

            [……]

たとえ欠陥があるとしても、隅石はなお維持し、結合する。隅石はそれが解体するものを全体として保つのである。

ジャック・デリダ『メモワール ポール・ド・マンのために』
水声社


ひろゆきを脱構築せよ!

ここまでご覧になったならば、もうひろゆきの解体方法は掴めたはずです。
最後にひろゆきを脱構築する方法を示すことで、読者の実生活に活かせたら嬉しい限りです(ひねくれ者が増えるだけになるかもしれまんせんが笑)

「それってあなたの感想ですよね」
「なんかそういうデータあるんですか?」

あらためて問おう。

同じみのスラングですが、これって癪に障りません? 
煙に巻かれた感じがするのですが……。

このとき彼の言説に対抗する理論を考えることは、脱構築ではありません。今の皆さんなら頷いてくれるでしょう。

むしろ方法は、ネット上に転がっているひろゆき氏の発言・言説を拾い上げる。そして彼が主張していることがらについて「それってあなたの感想ですよね」をぶつけまくる。極限までひろゆきの思考を憑依させて「それ感」を極める。そうすると彼自身が「あなたの感想」になっている瞬間があるはずです。
ひろゆき自身が主張している事柄について、「それ感」になっている場面が見つかった、その瞬間こそこれがひろゆきを脱構築する導きの糸、彼の論理の裂傷になるのです。

脱構築の言わんとしていることについて掴めてきたでしょうか…?
脱構築とは何かに対抗する手段ではないのです。脱構築はまさに標的としている対象の論理を極限まで忠実に——寄生するかのように、憑依するかのように——再現して推し進めることで、むしろ当の論理にある矛盾や穴を見つけ出す。これがキモです。