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東日本大震災と文学【8】ラノベのなかの現代日本

ラノベのなかの現代日本 ポップ/ボッチ/ノスタルジア
波戸岡景太
講談社
2013

村上龍、村上隆、村上春樹などを取り上げ、生まれた世代ごとに異なる「現代日本」を捉える試み。ノスタルジーという視点で切り取られる「現代日本」の世代による断絶を指摘する。現代日本を1960~2010年代と捉え、その50年をポップの隆盛と衰退、オタクの台頭などの変遷とともに論じる。その中で、ライトノベルに特徴的な「ぼっち」という存在が生まれたバックグラウンド、ライトノベル群における「ぼっち」を「涼宮ハルヒ以前・以後」で読み取る点で興味深い。震災とラノベの交点を論じるのは第五章。

感想
個人的には、非常に読みにくい新書。序章にあるように、「本書は、基本的に、ラノベを読まない(あるいは読みたくない)「大人」のために書かれている」とされている。つまりここで想定される読者とは「ラノベ」によって断絶された大人——40・50・60代以上も含みうる古い世代の人たち——である。ゆえに、暗黙の了解として1960年~2010年の半世紀をある程度経験していることが条件付けられている印象を受けた。だからこそ、彼の言う「現代日本」を体験していない世代にとっては、非常に分かりづらい散発的・散逸的な論理にしか受け取れないのではないか。もっと、前提としての知識を著者は示すべきではなかったのか。
「ポップ」とは何か、「ノスタルジア」とは何か、「ライトノベル」とは何か。語義の定義を曖昧にしたまま進めていく本書は、のらりくらりとした文章で初めから終わりまで進んでいく。根拠薄弱、論理の土台が脆い(と一般人のわたしは思う)。そもそも著者が何を論旨としているのかが始終分からないままだ。「現代日本」という大風呂敷を広げておいて、個々の作品論の集合という構成なのもタイトル負けしているのではないか。

第五章「震災と冷戦」

本書の論旨は震災後文学を主題としていないため、震災後文学としての収穫は少ない。第五章で論じられるのが、ライトノベル(2010年代)とそれ以前の世代の作家における現実認識の違いについてである。ライトノベルに登場する「ぼっち」は現実への絶望という態度が「涼宮ハルヒ」以降引き継がれている。そのようなラノベ史の2010年代における「ぼっち」主人公または作者と、それ以前の世代の3.11、9.11、WW2、冷戦に向けられる認識の違いに焦点を当てる。以下は基本的な論旨。

・村上龍が3.11後にタイムズ紙に載せた寄稿文から、村上龍世代の「中学生」観と、ラノベ作家の「ぼっち」中学生の違いについて。
・作家の世代間でことなる3.11の捉え方を、ラノベ作家vs村上龍で読み解く。
・2010年代のライトノベルに見られるポスト冷戦的現実認識の方法

Next Books' hints
*◎は3.11との関連度合いがある程度以上は認められる。
・村上龍『希望の国のエクソダス』文藝春秋、2000
・◎村上龍、「Amid shortages, a Surplus of Hope」、ニューヨーク・タイムズ、20110316
・至道流星『羽月莉音の帝国』、小学館、2010
・◎かじいたかし『僕の妹は漢字が読める』、ホビージャパン、2011