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40歳のとき突然未亡人になったけど、91歳の今は楽しく生きてる母の話。

きょうは私の母の話をします。

☆後半は有料ですが、母の年金の話や、私の予期していなかった妊娠について書いているからです。前半だけでも、楽しんでいただけると思います☆

☆追加したい内容は、随時、記事の最後に入れていきます☆

現在91歳の母はきわめてふつうの人ですが、特筆すべきことがあるとしたら、40歳のとき、突然夫(筆子の父)を失くしたこと。

まあ、それもそこまでめずらしいことではないでしょう。しかし、父が死んだとき、母は目の前が真っ暗になったはずです。

でも、伴侶が死んでも、自分の人生は止まりません。

続きを生きていかねばならないし、その人生はずっと真っ暗である必要はないのです。

この記事は、私のブログに、20代、30代、40代、50代あたりで、試練に遭遇し、「私の人生はもう終わった」的なメールを送ってくださる方に読んでほしいと思っています。

あなたの人生はまだ終わっていません。まだ先は長いし、これからいくらでも楽しく暮らせます。

では、母の話をしますね。

この世の中には、自分の物語を人に語る人(ストーリーテラー)とまったく語らない人の2種類いると思います。

私はストーリーテラーですが、私の母も弟も語らない人です。

だから、私は、母を自分の「ママ」と認識するまでの母の人生はほとんど知りません。

母や他の人から聞き出した少ない情報をつなぎ合わせると母の人生は以下のようになります。


福井県の田舎に生まれる

母は、昭和8年(1933年)の春、福井県の田舎に8人兄弟の上から6番目の子どもとして生まれました。

母の上にお兄さんが4人、お姉さんが1人、下に妹と弟がいました。

たぶん、実家は林業をやっていたと思います。

母の母は母が小さいときに亡くなっています。

私は、「お母さんのお母さん、どうして死んだの?」と何度か聞いたことがあります。非ストーリーテラーでない母は、「そんなこと、とても一言では言えないよ」と言って、死因を教えてくれませんでした。

母は中学校を途中でやめて、近所の小学校の代用教員みたいなことをしていたそうです(だからオルガンが少し弾けます)。

小さな子どもの面倒をみていたんでしょうか?

のちに私が小学校にあがってから、家庭調査環境書に、学歴を書くらんがあり、母が「〇〇中学校中退」と書きました。

すると父が、「(見栄を張るな)小学校卒業にしておけ」と叱ったことがあります。

母は若いころ、名古屋に出てきて、住み込みで洋品店で働いていました。

もともと洋裁が好きなのか、洋品店時代に身に着けたのか、母は手芸(洋裁、編み物、刺繍など)が得意でした。

私は中学に上がるまで、ずっと母が作った服を着ていました。

この素質、残念ながら私にはまったく遺伝しませんでしたね。

お見合い結婚

母は、25歳ぐらいのときに、4歳年上の父と見合い結婚をしました。

父の母(私の祖母)は、女学校を卒業しており、母の学歴が低いので、この縁談にいい顔をしませんでした。

でも、父は、「性格がよさそうだから」と言って縁談を進めたそうです(父の兄の妻、つまり伯母さんから聞いた情報)。

実際、母はとても人がよく、よくこれまでオレオレ詐欺の被害に合わなかったなと思います。

結婚して専業主婦になった母は、26歳のとき(昭和34年)に長女である私を、28歳のとき、私の弟のKを生みました。

私も弟も、手のかからない赤ん坊で育児は楽だったそうです(赤ん坊の頃だけね)。

「いつもすやすや寝ていたから、あんたたちが昼寝をしているあいだにお使いに行った」と母は言っていました。

私の娘は、赤ん坊のとき、コリック(理由もないのにやたら泣くこと)ぎみで、夜もなかなか寝なかったので、「寝なくて困る」と母に訴えたら、「え~、そんな赤ちゃんっているんだね」とのんきに返されました。

母は、私が小学校3年にあがる直前まで、西区にある父の勤めていた会社のそばにある社宅に住んでいました。

この頃、母の実家があった場所がダムの建設予定地となったので、母の父親と兄弟は、全員名古屋に出てきました。

母も名古屋に出てきていたし、きっと名古屋につてがあったのでしょう。

マイホームに引っ越す

父は私が小学校2年のとき、名古屋市守山区にマイホームを建てました。土地は、父の兄(私の伯父)名義でした。

この家の木材は、母の実家関係の業者から買ったか、譲ってもらったそうで、「とてもいい材料を使っている」というのが、母の自慢でした。

マイホームができあがって数ヶ月は、父の両親が住んでいましたが(たぶん留守番のため)、私と弟が上の学年にあがるタイミングで、母は、一家で、この新築の家に引っ越しました。

昭和42年(1967年)のことで、母は34歳でした。

当時、ザ・タイガース(グループサウンズのグループ)の人気がすごくあったときで、この家に引っ越してきた年末年始に、彼らの特別番組を見た記憶があります。

あとになってわかったのですが、この番組は、2年前の1965年に公開されたザ・ビートルズの映画、Help! (ヘルプ! 4人はアイドル)にそっくりでした。

父とせっせと内職をする

私の両親は、とても働き者で、西区にいるときから、いつも家で内職をしていました。

内職は、今ふうの言葉でいうと副業です。本職のほかに、家計の補助として自宅で行う仕事のことで、単純作業が多いです。

母のメインの内職は手袋の指つけで、専用の機械で行っていました。父の本職は商事会社のサラリーマン。

父は夕食後、テレビで野球中継を見ながら、お客さんのつてで回してもらった内職を母とせっせとやっていました。

今でも私が覚えているのは、木製のキーホルダーの穴に鎖を通す仕事です。

父は母の内職も手伝っていました。機械で手袋に指つけをするまえに、目打ちでしつけ糸を取る仕事がありましたが、父はこの作業をしていたのです。

平凡だけど幸せな結婚生活

家事や内職を熱心にやっていた母でしたが、あいた時間には趣味も楽しんでいたようです。近所の奥さんと、これまた近所のパン教室に通ったり、刺繍の作品を仕上げて部屋に飾ったりしていました。

母はガーデニングも好きで、花を植えることにも熱心でした。でも、生活はつつましく、この頃は、無駄なものはいっさい買っていませんでした。

子どもだった私には母が何を考えていたのかはわかりません。母が父のことをあれこれ言うこともありませんでしたし、父も母のことは何も言いませんでした。

まあ、幸せな結婚生活を送っていたのではないでしょうか?

父はお酒は一滴も飲めず、したがって付き合いもせず、仕事が終わると速攻で帰ってきて、家事や内職をするタイプ。

甘党で子煩悩だった父は、たまに納屋橋まんじゅうや、ボンボン(洋菓子店、喫茶店もあり)のショートケーキを買ってきました。

父は家では無口でしたが、働き者で子煩悩、車もあるし、30代のうちにマイホームを建てています。しかも、ビジネスの才覚があり起業も計画していました。

父が好きだったのは、プロ野球を見ることと仕事だったようです。

そんな人と結婚したのですから、まあ、幸せですよね?

突然の暗転

マイホームに入居した6年後の1973年の12月、突然父がなくなりました。

仕事中の事故による死で、朝、父はいつものように会社に行ったのに、翌朝、遺体となって家に戻ってきたのです。

その日、父はめずらしく残業をしており、その最中に事故にあって、病院に運ばれました。

母は、婦人雑誌の付録の家計簿の備考欄に毎日、短い日記を書いていましたが、「パパが死んだ。もうどうしていいかわからない」と書き、そのまま日記をつけない日が続きました。

お通夜、葬式、初七日など、一連の行事が終わったあと、母は、とりあえず、手袋の内職を拡大して生活費を得ることにしました。

家はあるから家賃は払わなくてもいい。必要なのは、光熱費、親子3人の食費、その他の生活費、子どもの教育費です。

母はこの内職を弟が高校を卒業するあたりまで続けていました。

「子どもたちが大きくなるまでは家にいてあげたい」と思ったそうです。

保険の外交員として働く

50歳近くなって、母は保険の外交員になりました。「生保レディ」または「保険のおばちゃん」と呼ばれる保険を勧誘する仕事です。

この仕事には、学歴や年齢はさして関係ありません(少なくとも当時は)。

仕事を円滑に進めるため、母は車の免許も取得しました。

母にはこの仕事が合っていたようで、思いのほかたくさんの収入を得ました。母は社交的で、簡単に友達ができるタイプです。

自分が突然大黒柱である夫を亡くして苦労したから、保険の必要性について、説得力のある説明をお客さんにできたのだと思います。

父も一応、生命保険に入っていましたが、たいしてかけていなかったので、ほんの少ししか保険金が出なかったそうです。

後年、母の口利きで、弟も保険の勧誘の仕事を始め、そのままその会社に入りましたが、彼によれば、母は「まじめにやることをやるから、契約が取れた」のだそうです。

収入が増えたので、余計な買い物が増えたのもこの頃です。

母が稼いだお金のほとんどは、子どもの教育費や自分の趣味の着物代に消えました。

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