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旅を通して戦争について考えること

日本にいると、戦争の話題としては「戦争に負けた被害者」という方向で触れられることが多い。

原爆での被害や沖縄での地上戦など、実際に経験をされた方の話を聞くと、本当に苦労をされたんだと心が沈む。

一方で、海外に出ると、話す相手によっては日本は第二次世界大戦の加害者という認識の人もおり、日本の学校では習わなかったことを次々と教えてくれる。

そして、それについてどう思うか?と聞かれる。

こういう話題は急に出てくるし、初めて聞くことなので、どう反応したらよいか分からない。どう思うか?と、聞かれても答えがわからない。


アメリカに住んでいたときに、大学のプログラムの一環で、ユタ州の原住民族ナバホ族(Navajo)の学校に1週間通ったことがある。

ナバホ族は今のアジアから北アメリカ大陸に渡った民族で、見た目は欧米系というより、日本人に似たアジア系だ。

元々はアメリカ北東部に居住していたが、ヨーロッパから入植した開拓者によって西へ追われ、現在の中西部が居住地となった。

住む場所を強制的に奪われ、何万キロもの道のりを歩いて移動した。食事は限られたもので、身の回りのもので栄養を摂取していた。

その一つとして、ナバホ族の伝統的な食材の「ジュニパーパウダー」というものがある。

松の木をパウダー状にしたもので、味はほんのり甘く、色はラベンダーのように薄く青みがかっている。オートミールに混ぜて食べることで、貴重なカルシウム源となっていた。

また、移動の道中で、ベーコンを生のまま食べてしまい、人が亡くなったという話も聞いた。ナバホ族の人たちが加熱が必要だと知らないと分かった上で、開拓者はわざと生のベーコンを渡していた。

このような不遇な話を滞在中はたくさん聞いた。悪いことをしていないのに追われてしまう、その道のりで家族を失う。

現地の歴史館にも行った。

ナバホ族の言葉は独特で、その解読難易度の高さから第二次世界大戦中のアメリカ軍の暗号(コード)として利用されていた。

当時のアメリカ軍は日本軍に暗号を解読されており、最後の砦としてナバホ族の若者を招集し、コードトーカー(code talker)としてアメリカ軍に従事するよう依頼した。

こういった繋がりから、訪れた歴史館にはコードートーカーの戦地での活躍を讃える展示が並んでいた。

中には、日本軍の軍服、茶のみ、日本兵がもっていたであろう女性の写真があった。

誰かの夫、誰かのお父さんだった人が大事に持っていたものが、日本から遠く離れたユタの歴史館にあった。その茶のみや写真を家族のもとに返してあげたい気持ちになった。

ナバホ族のコードトーカーは硫黄島など日本の島々にアメリカ軍として上陸している。敵の日本兵が、自分たちナバホ族と見た目が似たアジア人であることに驚いた、というエピソードも聞いた。

色々と話を聞き、歴史館の敷地に併設されているマクドナルドに向かった。

ここのマクドナルドは特殊で、歴史館と同じ敷地内にあるということで、店内にも戦争関連の展示品が置いてある。

その中に縦40cm、横60cmほどの日の丸の国旗がガラスケースに収められていた。国旗の右側には「日本万歳」とあった。記憶が曖昧で申し訳ないが、おそらく沖縄からのものだったと思う。

この旗がここにあるということは、この旗の持ち主は亡くなったのだろう。日本の勝利を最後まで信じ、手元に持っていた日の丸を奪われてしまった兵士の気持ちを想像した。

マクドナルドでまさかこのようなものを見るとは思わなかったから、気持ちの整理ができず、ただひたすら見ていた。

そこに、同じ大学の教授が私に話しかけてきた。国旗には漢字で色々とか書かれていたので、私はこれは沖縄から来たんだと伝えた。

すると、教授は "Cool." と言った。

瞬間的に、私はCoolではないと思った。

人が死んで大事にしていたものが奪われて、今異国の地にあるこれのどこがCoolなのかと。

教授はアメリカ人だから、漢字で書かれた「日本万歳」は読めない。"Cool"にも色々な意味があって、私が知らない意味で発したのかもしれない、とこの後色々考えた。

だがやはり、「良いね」というポジティブな意味合いで発したものだったというのが、今時点での結論だ。

この教授とは仲が良く、大学在学中に自宅に食事に招いてもらったりと大変お世話になった。会えば、いつも明るく前向きな言葉をかけてくれた。

だからこそ、この教授なら私に寄り添った、気遣った返しをしてくれるはずだと無意識に期待していた。

怒りというより、驚きと哀しみで心が埋もれた。

ここで言いたいのは、教授からの言葉がショックだったとかではなく、「瞬間的にこれはCoolではない」と感じた自分に驚いたということだ。

普段は特段愛国心が強い訳ではなく、日本社会で生活している1人の人間に過ぎないのだが、こういう出来事があると自分は日本に属していると感じる。


つい先月、韓国のチェジュ島に旅行に行った。あわびとみかんと海を楽しみに訪れていた旅行者の私は、再び戦争について考えることになる。

あわびの炊き込みご飯を食べに海沿いの定食屋に行き、その後チェジュの市街地に戻るため、近くのバス停を目指して歩いていた。

その途中、漢字で「抗日」と文字が入った高い塔を見つけた。その塔の敷地はかなり広く、公園のようだった。

気ままなひとり旅だし、時間はあるということで興味本位に入った。他に人はいない。

公園には先ほどの塔と女性の銅像が3体立てられていた。この女性はいずれも海女さんで、日本兵に海女の道具で対抗したと銅像に書いてあった。

この海女さん3人はその後日本軍に捕まり、そして、釈放された。

男手がいない中で島民を守った功績を讃え、銅像が建てられたとのことだった。

銅像には色々と当時の説明が書かれているのだが、英語の記載はわずかで、大半は韓国語で書かれていたので私には読めなかった。

漢字で「抗日」と読めなければ足を止める人は少なさそうだし、そもそもチェジュ島は中国人と韓国本土からの旅行者が大半だったから、韓国語以外の説明はあまり必要ないのかもしれない。

英語であれば全文読めたのにと、残念に思った。

こういう大事なことは被害を受けた側が広く伝わるように発信しないと、理解が浸透しないのだと改めて感じる。

いじめであれ、戦争であれ、被害者が労力をかけて被害を訴え続けなければ、不遇な出来事は歴史に残らない。


海外に出ると、被害者であることを意識させられることもあれば、「被害を及ぼしてしまったのだ」と知ることもある。

戦争を捉える際に、何が本当のことなのか、少なくともどういう出来事があったのか、国内にいるだけでは見えてこない。

日本にいると、そういう「前提」を忘れ、便利な暮らしを当たり前に享受してしまう。

#創作大賞
#エッセイ部門


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