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佐藤伸治が触れたもの

「映画:フィッシュマンズ」を新宿バルト9で鑑賞。
リアルタイムでは知っていたし、佐藤伸治が亡くなって数年遅れでCDも買って聴いていたが、ピンときていないぐらいのリスナー。小室哲哉の楽曲がひしめくカウントダウンTVの中で、エンディングテーマとしてタイアップされていたフィッシュマンズ。(wiki調べだと97年の夏頃)
田舎生まれの僕は「変わったバンドだな。」と初めてそこでフィッシュマンズを認識した程度であった。
彼らの音楽を聴ける"耳"になるには、昨今の北米を中心とした海外評価の高まりまで待つことになる。


ここからはドキュメンタリー映画としての雑感。

・3時間という尺

さすがに長い。シーン終わりを長めのフェードアウトで終わる事が多く、些か単調。映画としてのゆったりとしたテンポが佐藤伸治に対する鎮魂やバンドの音楽性とも重ねているのは理解出来るが、もう少しシーンを区切りをまとめて(特にインタビューシークエンスの繋ぎ)、スッキリとしてもう少し起伏のある編集に出来たのではないか。
但し、シン・エヴァがアニメ映画としては長尺の2時間半越えである事がファンにとっても必要な時間であったように、この映画もまたフィッシュマンズのファンにとっては長ければ長い程に良い事は理解出来る。

・バブっていた日本の音楽業界から垣間見える、レコード会社とバンドの関係性

バンドブームに乗って、メルボルンで学生上がりのまま浮かれながらのレコーディング。しかしセールスが付いてこない。それでもドラマとのタイアップを獲得して、必死に売れ線の楽曲を作る、がそれもからっきし売れない。映画を観ている僕らは後年のバンドの音楽性を知っているから、バンドと楽曲とリスナー層がマッチング出来ていない歯痒さ故に、当時のフィッシュマンズの焦りも判る構成。
鳴り物入りのヴァージン・ジャパンがいかにレコード会社としてノウハウなく杜撰だったか。映画でも軽く指摘される通り、実態は流行りモノとお金に群がっている広告代理店のようなもので、恐らく楽曲制作の生産性は脆弱で指針なくやっていたんだろう。今なら差し詰めYouTuberの事務所とか、オンラインサロン程度の集まり。
僕のようなライトなリスナーを獲得するまでに時間を擁するバンドになってしまったのかは単に彼らの音楽性の問題でもなく、レコード会社にも責任の一端があるのは間違いない。
そこから一転してポリドール・佐野氏の登場はなんとも心強い。単にスタジオを構えたという物理的な話ではなく、レコード会社側の人間に「1曲40分の曲、面白いね!」なんて言ってくれる気構えの良い人がいるって、バンド側は嬉しいですよ(物作りの端くれとして痛切にそう思います。)
制作者にとっての環境づくりの大切さが身に染みる展開。楽曲の良さもそこから尻上がりに良くなるのも気持ちいい!


・佐藤伸治

俗に言う「世田谷三部作」の道程で、佐藤伸治が目覚ましく覚醒してゆく。それに付いてこれないメンバーの離脱。僕のいるアニメーションの現場でも、制作の初動と末期ではスタッフの人員配置が監督の作家性や作品性に合う・合わない等の諸々の事情で絶対に変化します。クリエイティブとは、時に人を傷付ける残酷さがあると、この映画からも判ります。
意外なことに、その矛先がフィッシュマンズの魅力でもある、ベースの柏原氏とドラムの茂木氏であるリズム隊に向けられ、その"もつれ"から「男達の別れ」に至ってしまう。
一方、メンバーを追い込む以上に自分を追い詰め、顔付きすら別人になっている佐藤伸治の姿がなんとも痛々しい。
多分、彼はこの映画で語られるほど、天才的なミュージシャンではなかったんだと思う。はじめはもっとチャラチャラしていたその辺にいる若者だった。だけど、次第に社会や時代の空気を吸い込み、楽曲制作とライブに打ち込むウチに、遂には常人が触れてはいけないような世界の深淵のようなものに触れてしまった。
そして、彼は死んだのではなく、"そこから帰ってこれなくなってしまった"と言うのが、真相ではないか。
まるで、MTVアンプラグドのカート・コバーンが見ていた景色、あしたのジョーの最終回のような異様な凄みが「男達の別れ」には漂い、佐藤伸治は華開き、そして散る。
「向こう側に行きたい!」と思って、破滅願望的に作ることの強さと儚さが、得てして時間軸を越えた表現になる事を証明しており、胸が痛くなった。

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