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逃げること、常識を脇に置いて考える

以前、安楽死の問題に関して書きました
今回はその延長でもう少し書いてみたいと思います
以下、私個人の感覚的な主観ですので、そういう視点もあるかと、いったん一般常識を抜きに読んでいただけたら幸いです

挫折や弱さに関して、私自身がそうで、それを幾度もしてきました
しかし、それは同時に得難い知恵になると信じたいのです

本題です

死にたいと思っても現状で楽に死ねる制度がない以上、では、どうしたらいいでしょう?
以下は、偽善と思う人が多く居る筈ですが「死なないために」を書いていきたいと思います

ほとんどの場合、環境、家族間のこと、あらゆる人間関係、社会問題、孤立、経済苦、怨恨、裏切り、絶望、失望、強い不安、恐怖、そして鬱などの疾患
衝動的なものから長期に渡る不安、絶望など、あげたらキリがないです

そこから選べる選択肢も人によって様々です

私も当然、そう思ったことが幾度もあります
外傷のストレス障害を負った経験があるためです
昔のことですが、今でも寝るとたいてい悪夢を見ます
まぁ、私の話は置いておいて、本質は「逃げられない」また「逃げてはいけない」という心理が根底にあるのが大きいのではないでしょうか

後者の「逃げてはいけない」とか「負けないこと」は、命を前にした時、厄介な常識、捉われだと思うんです

これはきっと逆ではないかと思います

逃げないといけないし、負けるが勝ちで、勝負からいったん降りないといけないんです
そうしないと、本当により深く精神を痛めてしまいます
意見が分かれることでしょう
しかし、話を進めていきます

逃げる勇気、投げ出す勇気はプライド、理想などが高いほど難しいと思いますが、1番に考えることは自分のこころと命を守ることでしょう
私は「負けないこと」を脇に置いたほうがいいと考えます

私はある時期、ギリギリまで逃げることが出来ませんでした
かっこ悪いとか世間体、友人や周囲からの見られ方や比較、仕事に穴を開けてしまう怖さとか、色々な思いが巡っていました
しかしある日、立てなくなりました
そこからは想像にお任せします
結果的に倒れて逃避が出来たことによって、今自分が生きてるのかなと思ってます

最近強く思うようになったのは、逃げる勇気は自分の心身、命を考えた場合、それが最適解だと思うということです
勿論、私的な主観です

走って疲れてしまったら、誰でも休みます
歩き続けたら、座って休みたくなります
座ってられなかったら横になります
これらは、人間ならば当たり前でとても自然なことです

身体の疲労と違って精神の疲労や傷は、外からはあまり見えることがありません
挙動不審に見えたりはあるかも知れません
しかし、そういう人なのかな!?と思われたり等、現実はあまり人は人を気にしていません
なので、外からはさほど認識されずわかり難いものです

貧困もそうです
日本の相対的貧困率は16%弱で、約6人に1人、およそ2000万人ほどが低所得者です
これも外からは見えません
外で人とすれ違えば、普通にその確率でお金のない人が居る計算です
しかし、みな最低限の身なりだけは整えてますから、この貧困は見えないのです

こころの状態もそうで、目には見えません
最初にわかる(気がつける)のはたいてい自分自身です

私は、それが「死なないために」ならば、逃げることは「自分を守ること」だと思いますし、かっこ悪いことだと思いません
それを遅らせれば遅らせるほど、傷は深くなるのですから、気がついて勝負から降りること、歩を止めることはむしろ「賢いこと」だと思うのです

社会のためばかりに生きるのではなく、自分や自分の身近な人のために人生があると思います

周囲は色々と好き勝手にいってくるかも知れません
しかしそれは本当に当事者のために発せられたものなのでしょうか
そして、自分の人生はその周囲の人のものではありません
リスクを負うのは当事者、自分自身であって、相手側に本気で救い行動する気持ちがないのならば、その人には何も意見する資格などないのです
優しさとは行動を伴って意味を成すと思います

私はいつからか皆に優しく振る舞う八方美人の優しさをやめました
自分自身の器の限界を感じたのです
私は多くの人から見て優しい人間ではないでしょう
自分を偽らずに狭く深くいたいです

優しい言葉の多くは知識としての技術です
最初は優しい言葉をかけられても、親密度によって徐々に放置されていく場合が多いかも知れません
寄り添うとは、相手に自分の時間を与えることだと感じます
上からではなく横に居ることだとよくいいます
私は、そう出来る相手と出来ない相手がいます
私は自分自身を少し残念に思います

私の理想は最後まで聞くことと、偽らない共感です
そこにアドバイスは不要で、理解が出来ない苦しみには、わからないけど辛かったんだねでいいと思うんです
言葉に変換して理解されるものなら、それは深い苦悩ではない場合でしょう

痛みを全て理解することなど当人以外は不可能ですから、見解を意見しないでいいんです
耳を傾けること、肯定や否定ではなく横に居ること、そのことが寄り添うことで見守ることだと思います

人を守ることはたぶん一般的にはかっこいいです
でも正確には少し違う気がします
守りたい気持ちとその行動を傾ける熱がかっこいいんです
長くかかるものだと思うので、見守り続けること、瞬間の優しさよりも見離さない安心感が必要なんだと思います

そして人を守るのと一緒で、自分の命を守ることも同じようにかっこいいのではないでしょうか

常識、空気、同調圧力、マウントなどから、出来る範囲で自分を守ってほしいです


死なないこと

辛い思いを抱えながら生きている人は、本当は皆かっこいいです
傷を追いながら自身を守り続けてるからです
死にたくても踏ん張って生きているからです
そう考えます


さて、もし機会があればいつか「助けて」を訴えることの難しさについて述べてみるかも知れません

私のかなりの苦手分野で、上手く書けるかは全然自信がありません
しかし、今回話したことと本質的には似てくるではないかと感じます
より難易度は高いです
それが出来ないからもがくのです

環境的な問題から脱することが出来ない場合の「逃げられない」については、出来るだけ早く近隣のNPOなどに連絡してみてほしいと思うのです
私自身はそこまでの辛い環境に居たことがなく、経験がないため、話すことが推測でしか叶いません(義父から荒い言葉や殴られたりはありましたが、命の危険を感じるなど、耐えられないほどではなかったです)

そうした「逃げられない」環境下で死にたい気持ちを抱えてる場合、そうさせるのは環境がかなり強い要因だと思いますから、専門知識のある方やNPOに連絡をするのが1番の手と感じます
解決を数をこなしている人に預け、こっそり連絡を取るのがいいかも知れません(履歴を残さないなどの注意が必要な場合はあると思います)
自分の居住自治体と、虐待等からの避難を手助けしてくれるところを探すのがいいと思います
その環境を得てはじめて負った傷を手当て出来ると思います
時間はかかりますが、最後に時間が1番優しいと信じます


逃げることは「自分を守ること」だと思います

危機意識からのごく自然な生存本能だと思います
恥じなくていいと思います
人生はまず自分のためにあること、それを思い出してほしいですし、私もそうありたいです


長くなってしまいました
一つの視点でした


注)正解は個々人によって全く異なります
1人1人、関わる人や環境、状況、経済的なもの、辛さの程度によって最適解は柔軟であるほうが良く、現実は変化し理想と違ってきます
より複雑だと思います
似て見えたとしても皆違ってます
勿論、私も人と違います

ここで書かせていただいたことは、私的な主観を少し極端に、信じたいことを書いた部分を含んでいます



※誰一人同じ考えの人は居ないでしょう
ここまではわかるけどそれは違うよ等、それでいいんです
こうした内容はより苦しみの中にある人には現実は違うと受けとめますし、また逆に甘えたことを書いてるなと正反対に思う人も居るでしょう
誰一人同じ人は居ません
だからこそ死なないことに拘ります
もしも、誰かに届いたら嬉しく思います
しかし、違うからこそ価値があります

普段私は、経済社会問題を考えます
社会問題や経済状態は必ず暮らしに影響するからです
社会が今のままでいいでしょうか
様々なことが見えない中で繋がっていて、私達はその中に居ます

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