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廃墟マニア 5(最終回)

 白色LEDが、私たちの頭のうえを、蛇の肋骨のように連なっていった。
 「ここも、昔はナトリウム灯のオレンジ色のひかりに満たされていたのよね」
 運転席のviridiがなにか感慨深げに呟いた。たしかに、あたらしくはないようで、コンクリートのドーム型の壁面にはよごれや、つぎめから水が漏れているのか黒いシミがところどろこに目立った。それほどきれいな白い肋骨なんて、ほとんど手に入らない、と私は思うともなく思った。壁面の汚れや黒ずみが、骨にこびりついた肉や皮の名残を思わせた。用水路の草むらで捕まえられるささやかな蛇の肋骨なんて、土に埋めておいたら、とけてしまうのだ。人の肋骨だって……。母は白いさらさらの灰になって積もっていた。肋骨なんてみつからない。茶入れをふると、すずしい音色をかなでるあの大腿骨。そういえば、母のあの大腿骨はどこへいったのだろう。どこにしまったのだろう……。LEDの燦めきは、目の奥に刺さるようだった。それが、チクチクとした蛇の肋骨を思わせた。
 トンネルを抜けると、どうしようもなく、濃く、おもい、粘っこい闇が私たちをつつみこんできた。トンネルのむこうにおいてきた人々の明かりとさらさらとした闇が恋しかった。山ひとつ、くぐり抜けただけでただの闇がこんなにも違うものだろうか。その闇のなかに私たちの車のヘッドライトがてらしだす昼の光景が、ぽっかりと空白になっていた。ただ、白く抜けていた。白く抜けているように見えた。闇につつまれるとともに光のなかで存在していたものは闇のなかに溶けてしまい、光があたっても、ただの虚無がぽっかりとくちをあけていた。
 深紅に身をつつんだviridiはいつものように昂揚していた。すでに淫らな香気を分泌して、トンネルのなかでも、深紅をまくりあげ下着を着けていない腿から恥毛をむき出しにしてきた。Viridiの白いなめらかな内腿の肌は、ざわざわと泡だっていた。幾たびも繰りかえしてきた、交わりのたびに、私の腰を抱くその内腿の泡立ちの感触が生々しくよみがえってきた。私の腰や脚に、ざわざわとした泡だちがこすれ、そのたびに私の肌も感応して泡だった。私はなぜか気が進まなかった。今夜は。今夜に限って。一ヶ月近く、いつものように、viridiからのメールを待ちわびていたはずなのに。肌は、腰に絡まるviridiの泡だちの快楽をもとめて、もう、ざわめきはじめているというのに。
 私は験担ぎにカリカリ梅をひとつ頬張った。
 「前から気になってたんだけど……」
 すかさずviridiが言った。
 「それ、なに?」
 「カリカリ梅」と私。
 「カリカリ梅? 好きなの?」
 Viridiはむき出しになっていた恥毛を深紅で覆い隠した。
 「いや、べつに。……一時代前の小説なら、ここで、たばこを一服したり、缶ビールを一口、といったところさ」
 「意味不明」
 Viridiは笑った。
 それでも、まだ、車が走っているあいだはましだった。車が止まるとどうしようもなくねっとりとしたタールのような闇が息苦しかった。
 「さあ、着いた。降りよう?」
 座席から動く気配さえない私にviridiが言った。Viridiがドアを開けた途端、流れ込んできた闇が室内灯に中和されるのがわかった。闇は、濃く、おもく、粘っこいだけではなく、蒸し蒸ししていた。その闇が沈殿するままにおりかさなり、地層のように押し固まった巨大な直方体の闇が目の前にそびえ立っていた。
 「あしもと、気をつけてね」
 Viridiが車から降り立った私の足下を懐中電灯で照らして言った。ぽっかりと白い空虚が私の足下にあらわれた。
 「ここは、むかし、公営住宅だったの。いわゆる、団地ね。例の地震で放置された。もともと建物も老朽化していたうえに、地盤の液状化でどうしようもなくなって」
 「ああ」と私はぼんやりとした頭で返事をしていた。「例の地震」とは、どの地震か、それさえぴんときていなかった。
 「もう、二十年以上もこんな状態。市もお金がないのね」
 Viridiの懐中電灯の白い円光が、直方体の闇の一面をさくさくと掘りかえしていった。まったくの平面で、こういった公営住宅にありがちな記号がそこには刻印されている。
 「5号棟ね」
 Viridiは掘り出した記号を拾い読みすると、歩き出した。
 「ここには全部で七棟の団地がある。七棟だけど、最後の一棟は、8号棟。1、2、3、……、5、6、7、8、って。……病院でもあるまいに、なぜか、4号棟がないのね」
 「ああ」
 私はうわのそらで相づちを打っていた。
 「つまり、実質の4号棟がここ、この5号棟っていうわけ」
 ……私が大学進学まで住んでいたのも、ちょうどこんなところだった。そこも、なぜか4号棟がなく、私たち家族は5号棟に住んでいた。
 「鉄筋コンクリート四階建て。全部で、二十四家族が暮らせる。各部屋には番号がふってあって、一階の右から一列目が、511、二列目が512、三列目が513。2階は……」
 「521、522、523、……」と私。
 「あら、トモくん、ちゃんときいててくれたんだ」
はしゃいだ声でviridiが言った。
 「ああ、聞いてたよ。……そして、五棟の一階の四列目の部屋は、515……。二階もおなじで、525……」
 「くふふ……。よくご存じね」
 Viridiはいったん立ちどまり、私の方に振りむいた気配がした。
「そうなの、だから、たとえば、一階の六列目の部屋は、517。これは、ラッキーセブンだから、なんて、希望者が多くなったりしたんだって」
 「ウソ? それは、いわゆる都市伝説ってやつじゃないか。公営住宅だから、申込者が多い場合は当然抽選になったよ。でも、入居希望者は部屋まで選べなかったって、聞いてたけどね」
 「誰から?」
 「親から」
 私は、めくれあがり、つき立ったアスファルトを懐中電灯のひかりで囲いこんで言った。
「へえ、そうなんだ、トモくんって、団地暮らしだったの?」
 Viridiの注意は、アスファルトの方ではなく私の方に向いていた。
 「ああ、十八までね。大学に行くまでね」
 私はぞんざいに言い捨てた。早く話しを済ませたかった。
 「ふうん……」とviridiは私の方を見たまま感慨ぶかげにうなづくと、しばらくして言った。
 「行きましょう?」
 Viridiが先に立って、さらに、液状化で荒れ果てたままの道を注意深く進んでいった。道は舗装が剥がれ、突きたち、裂け、陥没し、ひどい状態で、そもそもそこが道なのかどうかも見分けがつかなかった。アスファルトが、私がいた頃は砂利道だったところに敷かれていた。5号棟の前庭だった。もっともここも液状化でひどく荒れ果てていた。建物の向かいには、砂利道を挟んで、ヒマラヤシーダーとサツキが交互に植えてあり、私が家を出た頃にはヒマラヤシーダーは建物を抜くほど巨大になっていたが、今その影は見えなかった。
 砂利道をすすみ、まん中の入口の前で、viridiは立ちどまった。517号に住んでいたおじさんは植物いじりがすきで、部屋の前の敷地の一角をかってに柵で囲い込んで、ちいさな庭を造っていた。この闇につつまれて、今は、その庭のかげもない。入口は三つあり、階段をまん中にして対生する葉っぱのように部屋がついている。
 「ここから入るのよ」
 「あぁ、こういったところはどこでも似たようなもんだから」
 懐中電灯の光で現在に切り取られてくる断片には見覚えがあった。ちょっとしたホールのようになっている。右手には金属製の郵便受け。513から555まで。ある時を境に、なぜか、郵便受けにダイアル式の南京錠で施錠することがはやった。子どものいたずらなのか、郵便物が紛失するというのだった。あるいは、到底配達間違いとは思えないような筋違いの部屋の郵便物が入っていたり。郵便受けの反対側の空間には、いつのまにか自転車がおかれている。ちゃんと自転車置き場があるのに。災害時に避難の妨げになるといけないから置かないように、と何度も回覧がまわっても、ずっと置きっぱなしになっている。
 「もっとも、自治体によっては部屋まで選べたのかもしれないけど」
 私はふと、話を戻して言った。
 「そうなの? 階段、気をつけて」
 Viridiは感心なさげに、ホールから階段をあがっていった。すぐ、一階のふた部屋が、踊り場をはさんでむかいあっている。
 「513と515……」
 どちらも鉄製の扉は閉まっていた。515は鈴虫を飼っていた。六十センチの水槽何個も。いや、はじめはちいさな金魚鉢からはじめたのが、何年かするうちにこんなにふえてしまった。夏の夜になると、鈴虫の大合唱がはじまる。まるで515号が巨大な鈴虫になったように響きわたり、近所では迷惑だと陰口をたたくものもいた。地震さえなければ、こんやも、あの鈴虫の大合唱が聞こえてきたかもしれない。
 とおりすぎながら部屋番号を口にし、viridiは階段を登って行った。
 「それはそうと、ともくん、さっきの欠番のつづきだけど。この建物は四階建てで……」
 「あぁ。そうだよ、だから、515のうえは、525、535、……」
 525のおばさんは有名デパートでパートをしていた。そのことが自慢で、社員優待があるからなにか買わないかと、ひまさえあれば近所の主婦を誘っていた。うちにもよく来ていた。主婦たちはいつも玄関先で立ち話をしていた。下校した私はそれがいやでしかたなかった。なぜかいつも帰宅する私と鉢合わせになった。狭い玄関で。人ふたりがやっと立ち話ができるくらいの玄関なのだ。そしてつねに自分の子とよその子をくらべて、うちの子はと自慢したがっている、そんな下心で他人の子どもを値踏みする目。口では聞くに堪えないお世辞をたれながしながら……。
 「だよね。そして、どうしてもここで注目なのが、この階段を登りきったところの……、つまり、五棟の四階の四列目の部屋。その部屋は、……」
 「そう、もったいぶらなくてもいいよ、viridi。当たり前のこととして、その部屋は、555。5が三つ。ゾロメの部屋」
 「そうよね、トモくん、5が三つ。GO、go、GO! なんて、なんか、ヘンにテンションあがりそうで、素敵。きっと、イケイケになっちゃうんでしょうね、住んでる人は」
 Viridiはうわずった声でさえずるように言った。闇の中で、viridiの空いている手が深紅のなにか潜り込んでいるのを私は感じていた。耳を澄ませば、五つの蛇の目のような深紅がviridiの最後の深紅をなぐさめている、しめっぽく、粘ついた音が聞こえてくる気がした。
 階段を登ると、外を眺められる踊り場があり、その壁に、たまたまviridiの照らす光がなにかを見つけた。
 「これ、なに? やだ、取っ手があって……こっちにひらく……」
 金属の取っ手を握り、ひくと、ぱっくりと口を開く。
 「ダスタシュート」
 憮然として私。
 「ここから、各家庭がゴミを捨てたんだよ。この下にはゴミダメがあって……」
 月に一度、第四日曜日の朝、とつぜん、ベルが響きわたる。班長が鳴らす手持ちベルだった。団地の住人総がかりで掃除がはじまる。そのとき、このゴミダメも掃除した。うるさかった。私はまだ寝ていたいのだ。……そう、ダスタシュートは開くたびに汚臭があがってきた。掃除などしても臭いがこびりついている。いまは……もう、生ゴミの臭いなどしなかった。廃墟の腐った時間の臭い。そして、犬や猫の飼育は禁止されていたこの団地で、なぜか、ときどき、ゴミダメに子犬や子猫の死体が見つかることがあった。
 「でもね、トモくん、よく考えてみて。この部屋は、ほんとに、555なの? 実態のある、充実した、ほんとの5の三つのゾロメなのかしら?」
 「あぁ」と私。
「ちがうよね。ほんとうは、この部屋は、444。縁起の悪い4が三つも折り重なってる、ゾロメの部屋。それを5だと偽ってる。ほんとうは、存在しない部屋。そんな虚偽とそんな空虚が三つ、折り重なってる部屋……。こんな部屋でなにか起きないわけがない、なにか起きたにちがいない。……廃墟マニアって、そんな思考がだいすきなのよ、トモくん。この部屋は、ただの部屋じゃない。ただの廃墟の部屋じゃない。なにか曰くがあるにちがいない部屋……。有名な部屋なのよ、ここの、555号室は。廃墟マニアの、いわば聖地のような部屋。そして、いろいろ、奇妙な体験をしたって……ブログでの報告が絶えない部屋……」
 奇妙な、体験? 私の十八年間。ものごころついてから、家を出るまでの歳月は、奇妙な体験だった? 私は失笑していた。5号棟を充たす闇に私の哄笑がこだました。
 「いくらなんでも、viridi、それはちょっと染まりすぎじゃないか? 都市伝説にせよ、迷信にせよ、そこまで言うと滑稽だよ。偽りだとか空虚だとか。数字がどうであろうと、ここはただの部屋だよ、viridi。ふつうの、部屋。いまは廃墟となってるけど、もとは、公団住宅、団地の、ありふれたただの一室で、何でもないありふれた家族が生活していた……」
 555号室の鉄の玄関扉の前に、viridiと私はたたずんでいた。扉はぴったりとは閉まっていず、蛇やトカゲなら出入りできそうなスキマが空いていた。
 「液状化で建物がひずんで、締まりきらないみたい……」
 なにかが流れ出していた。このスキマから。なめるように階段を這い降りていき、入口のホールに沈殿している。この建物に入るなりかんじていた重苦しさはここからだったのだ。いや、今夜の、この闇の粘っこさも、つづまるところ、ここに発しているにちがいなかった。
 「入る?」
 なぜかviridiが聞いてきた。
 「いまさら……?」
 「うん、なんか……へんな気分。この部屋は存在しない、虚偽と空虚の部屋だなんて……。いざ、部屋を目の前にして……。ミイラ取りがミイラになっちゃったかな……。へんな自己暗示にかかってたりして……」
 「淫らなこと、考えたらいい、viridi。それが、目的だろ?」
 「そうね、トモくん……」
 Viridiは私にからだを預けて、唇をもとめてきた。きっと、深紅をひき裂いてとがった深紅がつきだし、私の唇を割ってはいっているにちがいなかった。ねっとりして、つるつるとして、ひくひくとして、viridiの深紅は私の記憶を、この555号室にまつわる私の記憶を、愛撫した。愛撫し、溶解してしまうことなく、むしろ、硬く、堅固なものにした。深紅をまくりあげ、背中から、私とviridiはひとつにつながった。深紅につつまれたviridiのやわらかな肉。しろい、乳房。母の乳房もやわらかかった。乳房をもみながら、私はviridiを二三度突きあげた。
 「あん、んんっ」
 尻を突き出しviridiは私の欲望を迎えいれはしたが、掌を私の腰にあてると、不意に突き放して言った。
 「まだ、ダメ」
 「でも、トモくんが望むなら、お口でしてあげる」
 私の勃起した生殖器が闇のなかでヒクヒクと脈打っていた。光さえあたれば、きっとviridiの愛液にてかついているにちがいない。
 「いいよ」と私は断った。
 「今夜は、何度も出したい気分じゃない」
 掌に焼きついたちぶさの感触がなまめかしかった。しろいちぶさが頭を離れなかった。Viridiの乳房、カナイミチコの乳房、クマダミチコ先生の乳房、母の乳房。掌には乳房にやけどしてしびれるような感覚が残っていた。もう一度、背後からだきしめて荒々しく乳房をもみあげながら、唇を奪ってしまいたい……誰の……ちぶさ……? 母の乳房が頭を離れなかった。しろい乳房。やっと私は乳房のつけねのあたりを、ちぶさの下を、布で清めることができた。母の、……へそや、ちもう、……。もう一度viridiを背後からだきとめて、深紅を無理矢理にでも剥ぎとってしまい、下腹部やちぶさを鷲づかみにし、抵抗しようが、もだえ苦しもうが、viridiを手に入れたかった。打ち消しても、なんどもその私の姿が頭のなかを去来した。私は下着とズボンをあげて生殖器をしまった。丸見えになっていた尻を深紅で覆いつつむ衣擦れの音がした。ふと、ポンペーイ展で見交わしたあの瞬間のことが思いうかんだ。
 「憶えてる? ポンペーイ展のこと……」
 「なに、いきなり?」
 金属のドアノブをつかんで鉄の扉を開こうとしていたviridiの動きがとまり、一瞬こちらに気をやる気配がした。
 「あ、ううん、なんでもないよ」
 しろいちぶさの感触がまた私を悩ませていた。
 「へんなトモくん」
 Viridiの手がノブから離れる気配がした。
 「今夜はここまでにする?」
 「いや……。いいよ、行こう、せっかくここまで来たんだから」
 
 「一九五〇年代の後半くらいから、日本各地に雨後の竹の子のように建設された団地。乱立した団地。行き場のない、棲み家のない、下層労働者たちのねぐらとして建設された団地。じつは、そんな団地は結構な人気だったのよね、その設備の良さのために」
 人ふたりがやっと立ち話ができる狭い玄関を抜け、左手に六畳の和室。右手に四畳半のキッチン、キッチンにつづく三畳ほどの風呂、風呂を抜けて半畳ほどのトイレ。トイレのドアを開けてviridiは言った。便器はTOTO製で、水洗。たしかに、viridiの言うとおりだった。一戸建ての友達の家に招かれたとき、玄関のドアを開けた途端臭ってきた汚臭。肥溜めのような臭いがタカシの家中にただよっていた。いっしょに蛇やカエルを捕まえて白骨採集に夢中になった親友だ。ひどく驚いた。誰もが私とおなじような暮らしをしていると、そんなことさえ思ってもみなかったあのころの私。タカシは自分の部屋をもっていた。それにも驚いた。私の自分の場所といえば、六畳間の勉強机と二段ベッドの上の段。おなじ部屋に妹の勉強机とエレピアン。父親が下の段に寝て、母と妹は昼間はリビングとしてつかっている隣の六畳間に寝ていた。私が中学になった頃から、ずっとこんな部屋割りだった。本棚も共有。あの「ベルバラ」……。そう、妹が大好きな「ベルバラ」。家にいるあいだ、ほとんどの時間をサンドバッグのように漫画に熱中していた妹。私にはこの現実からの逃避のようにみえた。そんな妹に母は、高校生にもなって、ろくにお手伝いもせず、勉強もせず、いい加減にしないと漫画を処分する、としょっちゅう叱り、悪態をついていた。つい、この前までは「中学生にもなって……」が決まり文句だった。母親はずっと忌み嫌ってきた。漫画というものを憎んでさえいた。だが、妹の漫画本は減るどころか増えていった。口ではどう言おうと、いざ実行となるとできないのが母で、妹もそれをよく知っていたのだ。ある朝、キッチンの食卓で、「ベルバラ」に耽溺している母に、偶然、私は出くわしてしまった。驚いた母はしばらく私を見たまま時間を失った。母は、それを持った手をそっと食卓の下に隠した。私もなにかしてはいけないことをしてしまった気がした。どんな些細な欲望でも人に知られることを嫌い、極度に恐れる、母はそんな古風な女だった。私たちは言葉を交わすこともなく、私は忘れた体操着をもって、そのまま家を出て学校にむかった。大学に進学してから、体操着をとりにもどる夢をよくみるようになった。そこには母もいず、体操着は見つからず、私は遅刻してしまうとただ焦っている……。もし、玄関からすぐにキッチンがのぞけるような団地の狭隘な間取りでなければ、こんなことは起きていなかったかもしれない。高校三年の春のことで、その後、母の態度が変わるようなことはなかった。漫画に熱中する妹にも相変わらず悪態をついていた。私も母への態度を変えることはなかった。
 「ああ、たしかに、設備はよかったよ、viridi……」
……タカシの部屋に案内されて、私はどうしていいのか、戸惑った。私の居場所のなさに落ち着かなかった。うちに帰ったところで、勉強机と二段ベッドの上の段、たったそれだけの居場所しかない私が、惨めだった。そして、この肥溜めのような臭い。タカシの家はいわゆるくみ取り式のトイレだったわけだが、くみ取り式というのさえ私ははじめてなのだった。とてもがまんできなかった。臭いも。タカシがこんな自分だけの場所をもっていることも。こんな場所があるタカシには秘密の場所など必要ないと思った。だまされていた気がした。だされたお菓子や飲み物も飲まずに、私はそうそうにタカシの家から逃げだした。「おぬしは……」と中学になってもなぜかタカシはそんな言葉遣いだったが、「親友やないって、母親が言っていた」とあとで私に言った。タカシは「漫画ばっかり読み腐って、家事もろくにしない」母親を軽蔑していた。そんな母親の言葉などあてになるか、といった口調だった。だが、私は、心のなかをすべて見すかされたような気がして、すこし恐ろしかった。いくら家事もろくにせず漫画ばかり読みくさっていて息子に軽蔑されていようと、大人は大人だ、と。それは不吉な予言のようでもあった。それから、うわべはそれまでと変わりなく付きあっていて、タカシもながく私のことを親友だと思っていたようだが、あの日以来、私のなかにはタカシにたいして隔たりができていた。部屋と臭い。なぜ、タカシはあんな自分の部屋をもっているのに私はもっていないのか。なぜ、そのタカシはあんな汚臭のなかに住んでいるのに、私は臭いのないところに暮らしているのか。それからも、友達ができて、彼らの家に招かれるたび、この疑問がいろいろな形にかわって私のなかで渦巻いた。それどころか、家に招かれ、彼らの部屋に招かれることで、彼らにはもちろん悪気はないことはわかっているが、恥をかかされている気がした。悪意を感じた。屈辱さえも。私は、絶対に、彼らを家に招くことはなかった。私は恥じていた。自分の部屋のない私を。こんな団地で暮らしている、私を……。絶対、彼らに知られたくなかった。知られなければ、彼らは私も彼らとおなじような暮らしをしていると、勝手に、そんなことは意識することさえなく、思っているにちがいなかった。私の虚栄心。クマダミチコ先生のやさしい、やわらかい乳房の感触が、ふと、私の掌によみがえってきた。
 「……そう、設備はよかったよ、当時の、そこらの一戸建ての連中よりも。水洗トイレなんて、ヤツらはもってなかったからな」
 私はぶっきらぼうに言い捨てると、不意にviridiの肩を掴み、トイレの壁に押しつけ、荒々しく深紅をめくりあげ、むき出しになった白い乳房をむさぼった。Viridiはあの華奢な両腕で私を押しのけようともがいた。私は体重のままにviridiにのしかかり、押さえつけ、片方の腿を膝下からもちあげると、すばやくズボンと下着をおろし、むりやり、viridiのなかに突き入れた。突っ張ろうとしていたviridiの腕の力が抜け、その腕が私の背中にからみついてきた。私は乱暴に、夢中に、あらあらしく、viridiを突きあげていた。
 「こんなことって、あるのね、トモくんでも。ぁ、ああ、……」
 Viridiは息も絶え絶えに声を絞り出した。
 「いい、トモくん……」
 私ははっとして、突きあげるのをやめていた。
 「こんどはどうしちゃったの?」
 Viridiの声の調子が、とんでもなく素っ頓狂にきこえた。
 私はため息をつき、viridiから離れた。「ごめん、わるかった」と一言断ることさえ、しらじらしく感じた。
 「さっきの、意趣返し、ってわけ?」
 Viridiはふたたび白い肉を深紅で覆い、整えながら言った。
 「意趣返し?」
 私は真摯に聞きかえしていた。私の意識はviridiのうえにはなかった。
 「マジ? それとも、皮肉? それとも、そんなに根ぶかい怨恨?」
 Viridiはふざけた、耳障りな調子でつづけた。
 「怨恨?」
 「さっき、拒んだあたしへの……」
 私は、やっと、viridiの言葉に引っ掻かれた気がした。
あはは……と、力ない笑い声が私の腹からもれだした。怨恨ね、たしかに、そう言われればそうかもしれない。ただし、viridiには関係ない。Viridiにではない、怨恨。ふるいTOTO製の便座に崩れ落ちるように腰をおろした私から、まだ、力ない笑いが漏れつづけた。
 「やだ、トモくんったら。まるでお腹でもこわしたみたい」
 Viridiが無邪気に言った。
 「ああ、そのとおり。うちの団地とそっくりのトイレ、そのくそ古い便器に、垂れ流してる、こうして……腹のなかで糞詰まってた、とりとめのないこの笑いの種を……」
 Viridiの懐中電灯の光にきりとられて、私の男根が女の愛液につやつやとかがやき、そそりたったままでいた。
 「……家族が寝静まったころ、夜中に、よくこうして、ひとり、トイレにこもって、したもんだよ、viridi、……自分のねぐらのない高校生がね……。そのとき、どんなに、自分の部屋をもってるあいつらのことを羨ましく思ったことか」
 「トモくん……」
 「高校のトモダチなんて、女の子ツレコンデ、ヤることヤってるヤツだっていたしな」
 暗闇のなかに私の腑抜けた笑い声だけが溶けていった。
 「団地なんて、ね、viridi、たしかに設備はよかったかもしれないけど、人の暮らすところじゃないよ。ただただ、ゆきばのない、ねぐらのない下層労働力の再生産のための画一的な施設。収容所並みの。人権なんてありゃしない。マスひとつ、満足に、ろくにかけないんだからね、viridi!」
 Viridiは深紅のネールの指先を、おそるおそる、つやつやした私の男根にはわせていた。
 「Viridiには、……たぶん、キミにもワカラナイと思うけど……あのとき、自分の部屋でオナニーができた女子高生のキミには、ね……。夜中の、冷え切ったトイレで、ひとり、……そう、ここはただ、くさいものを排泄するためだけの場所、そんな場所で、こそこそオナニーするのが、どんなに、屈辱的で、みじめか……」
 「トモくん……」
 一本だった指が五本になり、やさしく私の男根をつつみこむように撫でていた。
 「その惨めさといったら……そう、たとえば、正体もわからないほどぐでんぐでんに酔っ払って、それでも、まだ、頭の片隅に自分というのがちょっとでも残っている、そんなときに、トイレの便器に頭をつっこむようにしてこみ上げてきたものを嘔吐する……そんな経験が、キャリアなんて呼ばれる側のきみにはあるのかないのか知らないが、たとえて言うなら、そんなところだよ、viridi……」
 母は知っていた。私が夜な夜な、深夜のトイレで何をしているのか。そして、母は歓待した。不意に尋ねてきた私の友人を。やつらを。高校三年の十二月。とつぜん、タカシが、小、中、高校とおなじだったあのタカシが、高校での私の「トモダチ」をひきつれて私の家を訪ねてきた。私の虚栄心は無残にもずたずたにされた。それが目的だったのだ。自分より劣ると思っていた私が推薦で一般入試のタカシよりも格上の大学に進学するのを妬んで。  「タカシくんですよ。友達も一緒に」。母に呼ばれて玄関に出た私は、青ざめ、言葉も出なかった。母は平然とやつらを歓待した。
 「なら、トモくん、あたしが、惨めじゃなくしてあげる……」
 Viridiは愛おしげに十匹の深紅のいきもので私のそそり立った男根をあいぶしながら、やさしく、深紅の裂け目でついばみ、くわえはじめた。浅く、亀頭を撫で、やがて、ふかく、出し入れした。
 「いいよ、トモくん、イきたくなったら、いつでも……イッて……」
 私は、……泣いていた。止めどなく涙があふれてきて、嗚咽していた。やがて、私は涙のなかで射精し、viridiの喉の鳴る音がきこえて、さらに涙があふれてきた。
 
 
  Viridi、先日は唐突なことになってしまって、すまなかったね。
  いまだに、なにが起こったのか、きっと、きみには理解できないと思うが。むろん、viridi、それはきみの理解力不足ではないことは、私が保証するよ。
  ありがとう。
  それはさておき、唐突ついでに、もうひとつ、告白に、つきあってくれないかな。
  母のことなんだが・・・。
  母が亡くなったのは、私の高校の卒業式の日でね。当日、世間体をなによりも重んじる母が式に来ていなくて、なにか変な感じがしたといえばしたものだよ。帰宅してみると、すでに母はなくなっていた。私の進学が決まってから、母は眠れないと愚痴をこぼしてはいた。睡眠導入剤の服用量を誤ったということになったが、家族の誰も母が薬を使っていたなんて、気づいていなかった。あんな狭小な間取りの、団地暮らしだっていうのに。してみると、あの団地も、まんざら、プライバシーがまったくないというわけではないのかもね。
  告白、聞いてくれてありがとう。
  そう、あの日、Viridiは555号室が特別な部屋だなんて力説していたけど、ほらね、特別なんかじゃないんだよ、555号室も。
  人が生きて、死ぬ、ごく普通の、ありふれた部屋なんだよ、viridi。
 
 それからも、viridiとわたしは、廃墟を渡り歩いて、性交しつづけた。このようにviridi とわたしは奇妙で神聖な愛をはぐくみつづけたのだったが、人口が減りつづけていくこの国では、あたらしい廃墟に事欠くことはなかった。いや、すでにこれほど人口が減りつづけていくこの国こそが廃墟に違いなかった。なので、わたしたちはことさらに新しい廃墟を求める必要などなく、この国のどこにでも、どこででも、気ままに、気まぐれに、神聖な愛をはぐくむことができるのだ。
 

  *   テクストの快楽 ロラン・バルト 沢崎浩平 訳


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