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港町から呼びかける声――横浜と神戸、句潤とSILENT KILLA JOINTについて


二つの港町と「MINATOMACHI」

横浜の街と神戸の街はとてもよく似ている。
それぞれ幕末期の開国に際して開港されたという成り立ちと、そこから国際的な港湾都市として機能・発展してきた経緯により、街を歩けばあちこちで共通項が見出すことができる。

主には中華街や異人館、60年代初頭のほぼ同時期に建てられたランドマークタワーなど。また、赤レンガ倉庫は横浜のものが有名だが、神戸にも素朴ながら商業施設として現存している。「兵庫県神戸市兵庫区」と「神奈川県横浜市神奈川区」という行政区名や、中華街周辺の“元町”という地名も(厳密には異なる部分もあるが)おおむね似通った由来から付けられたものだ。

神戸新聞の記事では、この類似性について「互いに参考にしながら発展してきた」と語る声が載せられている。

要するに横浜と神戸は、街そのものが発展をめざして切磋琢磨し合う同志――いわば“マイメン”的な関係にあるということだ。

と結んでみたところで話は変わるが、昨年とある2MCのラップと硬派な和物ビートにより、この二都市を繋いでみせた楽曲が世に出されたのをご存知だろうか。

タイトルはそのものずばりの「MINATOMACHI」。ビートを手掛けたのは、つい先日もオール和ネタの1stアルバム『和魂洋才をリリースしたDJ にっちょめ
そしてラッパーは、横浜の句潤と兵庫のSILENT KILLA JOINT。二人とも自身の生まれた土地で暮らしながら、精力的な活動を続けているHIPHOPアーティストだ。

メリケンパークの風が香る 南京町から道を辿る
平沼橋からのランドマーク 昼、中華 夜、野毛 頭がバグ

(歌詞情報非公開のため語句・表記は正確ではない/以下同様)

「MINATOMACHI」のMVでは二つの街の景色と、そこに集う人々の様子がノスタルジックな色合いで交差する。潮風が流れ行く港と賑やかな中華街という共通のシンボルから、句潤が勤めている日ノ出町のALL WELLへ。それから横浜元町のTHE BRIDGE YOKOHAMAと神戸三宮のstudio Bappleという、互いの馴染みのクラブで音楽を鳴らし、酒を酌み交わす様子も。

これは一体どちらの街の風景だったか、と時々混同しそうにすらなる映像を観ながら改めて考えた。やっぱりとても似ている。それとこの二人のアーティストにもどこか通じる部分があるような気がする、と。

何をかくそう私は、その理由をこの記事を通してなるべくつまびらかにしたいのだ。そこで一先ずはここ一年ほどの間、二人の作品やライブパフォーマンスと自分なりに向き合った中で感じたこと、語るべきと思ったことをそれぞれコラムとしてまとめてみた。

句潤については直近で出された3つのアルバムについて振り返り、SILENT KILLA JOINTに関してはそのラップの変遷について追っている。少し長くなるが、よかったら付き合ってほしい。


句潤のラップと『Allwell』『日の出』『句が呼ぶ煙』について

喜怒哀楽に当て嵌めるなら、まず第一に“楽”だ。トーンが高めでどこか小憎らしい脱力感の漂う声色や、時折ちゃらかすような笑いを含み断続的に揺れるフロウは、常に軽妙かつ不敵な印象を抱かせられる。しかしライブの現場においてその声は意外なほど力強く、歯切れよく放たれ、聴き手の耳元に直感的な楽しさを叩き込んでくれる。

そもそも“楽”、つまり(ここにおいては特に音楽的な)楽しさというのは、いつも少し不可思議な気がする。発生源がわかりづらく、根底に曖昧さが残る。ともすれば奥深くに何か未知の情動――なんならそれは喜、怒、哀の全てを含むものかもしれない――が隠されているような感覚すらある。

つまるところ私にとって、句潤というラッパーはそういう存在なのだ。各種ストリーミング配信されている作品だけでもざっくり10年ほどの過去作を振り返ることができるが、驚くほどイメージ像がブレない。それはライブの現場も同様で、ステージ上の句潤のラップは常に歯切れよく、かつ独自の温度感で届けられるグルーヴがあり、同時に底の知れないタフさがあった。

句潤は過去作のタイトルでもある“風呼ぶカモメ”をしばしば自称するが、これがいっそ悔しくなるほどしっくり来る形容なのである。自らの両翼で風を呼び乗りこなすカモメは、ビート上をも軽やかに飛び回り、日常のさまざまな情景を拾いあげては音楽的高揚に昇華する。それも作品ごとに少しずつその表情を変え言葉を変え、色味を変えながら、しかし根底には不動のスタイルを持って。

ここからは、昨年7月からの半年間で出された『Allwell』『日の出』『句が呼ぶ煙』を振り返り、それぞれに毛色の異なる3作品から魅力を探っていく。

『Allwell』

昨年の夏に出された傑作アルバム。一つの作品としてまず印象深かったのは、耳に残る残響音であった。80~90年代ロックを彷彿とさせるギターリフをはじめとした上モノの残響が作り出す湿度とノスタルジアによって、絶妙に奥行きある空間を幻視させられる。「INTROLL」の余韻を保持したまま始まる「Profile」はまさに自己紹介といった風情で、《神は笑わずも我は羽ばたく》やフックの《ContinueなきLifeにブチ込む弾》などのフレーズから句潤らしい味わいが早々に表出していく。

盟友たちとドープに聴かせる「4 Hands(feat. SHEEF THE 3RD, D.D.S & RHYME BOYA)」やリード曲的な「Supermoon」でその声とフロウが生む凄みが伝わる一方、合間の「ダイヤモンドは砕けない」「祝杯」「64 Bars」といったミドルテンポの楽曲でも個性が光る。特にこのテンポ感で大胆に音を抜いたり、あえて声を裏返らせたりして起伏を作っていく辺りはセンスの賜物か。いわゆる“句潤節”のようもなものだ。

リリックの趣向も楽曲ごとにバラエティに富むが、中でもアルバム内で境界線を作っている「夏産まれ」は秀逸。なんといっても“夏のせい”にしない選択に痺れてしまう。句潤は夏という季節を儚くも色鮮やかな幻想として扱うことなく、代わりにあれこれとボヤきつつも《お前が悪いわけじゃない》と語りかけるという、何とも軽やかな関係性を作り出してみせる。むしろそうすることで、夏の日を過ごす人々の情緒を生き生きと浮かび上がらせるのだ。この曲から続いて鎮座DOPENESSのグルーヴィーなフロウがクセになる「現世豪快」、そして「Supermoon」「Platinum」など後半の山場へと繋がっていく流れもまた小気味よい。夏らしく彩り豊かで、ボリュームの分だけの聴き応えある一作だった。

『日の出』

KOYANMUSICとのジョイント・アルバムとして昨年11月にリリースされた『日の出』。まずラップに関して目を見張ったのは、ビートに即して古典的かつポップな“歌”の成分が増していた点。と言っても一曲目の「KETSUI」に関しては深い残響といい、タイトル通りにヒリついたリリックといい、どちらかといえば前作の「Profile」や「64 bars」と近しいテイストが感じられはする。が、

何と何 比べて測る天秤
それよりも今日は晴れてて良い天気

KETSUI

と最後の小節で唐突に視点が切り替えられたのち、出し抜けにカモメの鳴き声が鳴る。この曲は『日の出』においての「INTROLL」的な役目を一部担っていて、作品が真に幕を開けるのはむしろこの部分なのではないかと思う。実際、その先は「守破離」のレゲエサウンドによって一気に港町・横浜の景色が色濃くなる。

FORTUNE D、AICHINら神奈川のレゲエディージェイ二人と組んだ「守破離」は、今作の中でもリード曲的な存在感を放つ。ゆったりとした横揺れのサウンドから、急に時空を歪ませたようにジャングルの音色が挿入される後半の展開は思わずニヤリとしてしまうほど痛快だ。音階とつかず離れずの距離感でラップする句潤と、レゲエの節回しをしっかり聴かせてくれるディージェイ二人の対比も、このサウンド展開のお陰でよりバランス良く味わえるようになっている。

まずもって今さら言うまでもない話かもしれないが、句潤のラップはとにかく歌謡の要素を含む楽曲との相性が良い。主には節回しのクセ、そして生っぽい声の質感をそのまま活かして聴かせるスタイルもその要因と思われるが、先行配信曲だった「HARDEST」ではその特長が顕著に感じられる。前半後半でリズムが異なるバースも軽快で心地良いが、特に惹かれるのはフックの強度だ。いわゆる四七抜き音階のメロディーで《耳にラップ捩じ込み広げるカーテン》と歌うフロウは文字通りキャッチーで耳に残る。

そして、最も驚いたのは「東雲」のフォーキーでブルージーな趣である。《まるでパーティー明けの朝の日差し/のように寂しさを歌い/グラスは雫垂らし/静かに動き出す時を遡り/肩についた灰と振り落とす埃》と、閑寂をまとった街の情景を描く冒頭からして、明らかに他の曲とは異なるリズムが感じ取れる。浮遊感を伴って心地良く揺れるビート、その上を漂うようにしてグルーヴするラップは“語り”、そしてフレーズの微量なレイドバック感は“字余り”とでも言いたくなってしまう。

ただ、私がそう感じるのには、この曲だけにとどまらず「日の出る町へ」や「水面」「OASIS」など、ここに至る流れのあちこちに散りばめられた“暮らし”の描写にも起因しているのかもしれない。そもそもが“暮らし”のある街の名にちなんだタイトルである。全7曲というミニマルさも、こうした作品の空気感とマッチしているように感じる。普段あまりHIPHOPを聴かないような歌モノ好きにも好まれそうな、味わい深い作品である。

『句が呼ぶ煙』

今年2月にリリースされた最新アルバム『句が呼ぶ煙』。メロディアスでキャッチーな大作『Allwell』、意外にもブルージーなソウルが垣間見えた『日の出』を経て聴いた今作は、三作の中で最も原初的な句潤のポテンシャルが引き出された一作という印象が残った。そう感じさせられた一番の所以は、やはり呼煙魔によるクラシカルかつタイトなビートだろう。低彩度の紫がかった写真にリングウェアがあしらわれたレトロなアートワークも、ある要素と範囲における回帰の象徴のように思える。

特に前半の「Show Up」から「問いかけ」「その日のBestを」という流れは、それぞれテイストが大きく異なるビートによってラップの技巧がストレートに発揮されているのが分かる。ソウルフルな声ネタと共に抑制のきいた質感で聴かせる「何処へ?」から、続く「最後だとしても…」で句潤自身のソウル的バイブスが発揮されるという流れも、ラップと“歌”が持つ底力のようなものを感じさせられる。

リリックの面でも「問いかけ」「最後だとしても…」で連ねられる脚韻や《俺は他人を踊らしLet's parade》《FreestyleしてちゃバトルMC/いや俺はラップバトルしに来たMC》のいかにも句潤らしい言い回しなど、作家性がとりわけ伸びやかな形で活かされていると感じる。
また、1stアルバム『秋雨の宴』収録曲の後継作「火灯し頃 Pt.2」で過去作のキーワードを丁寧に振り返ってみせる仕草などは“回帰”的な要素も多分に含まれている。総じて、元来そこにある旨味をビートの中で実直に引き出し、そして引き立て合っていくような作品であった。

それだけにこうして3作を辿っていくと、この『句が呼ぶ煙』に至り改めて実感するのだが――句潤のラップには曲調やBPMを問わず、俳句や和歌的な、それこそ“句”が作り出すリズムの心地良さを感じる場面がとても多い。
おそらくは、あの日本語の音節をはっきりと伝えるフロウとの兼ね合いで形成されたものなのだろう。ついでに言えばリリック上の“我”や“~なき”といった少し硬めで特徴的な文体も、小節内でおさまりよくリズムを作るのに一役買っていると見える。この“句”と発音の妙技に基づいた独自のリズムが、句潤というラッパーの強い持ち味となっているのだ。

……というのが現状、私の考える“句潤節”のようなもの、もといあの“句”に“潤う”という名乗りの意味を考えた上での、一つの暫定的解釈である。こんなにも明確に個性的なフロウの持ち主なのに、何故か私はずっと“わからなさ”を抱えながら聴いていた。にもかかわらず、そのラップが音に乗り、耳元へ届けられてくることの楽しさに没入した。

正直未だに“底が知れないな”と思いながら相対してはいるが、ひとまずこの直近の3作品をじっくり追ってみたことにより、ようやく朧気ながらその魅力をとらえられたような気がしている。

SILENT KILLA JOINTのラップの変遷について

昨年のnoteでは、そのラップとアーティストとしての美点について、私個人が見つめてきた範囲のことをまとめていた。ただ当該記事では『静寂麻巻』という快作とそのリリースライブの話題を中心に据えたため、あまり触れられていなかったそのラップスタイルの変遷に関して本項で改めて辿っていきつつ、その特長や特性について考えたい。

活動初期の代表作「BlAqDeViL」や「Think feel」を収録した『Light Side Black』がリリースされたのは、今から約10年前。

ダークでドープなサウンドへの感性といなたいラップが似合う声質は当時から変わらないが、初期作品において特徴的なのは自身のルーツとするハードコア・ヒップホップのスタイルが前面に出ている点。音楽への挑戦心と向上心、また自身の生い立ちや環境に対する苦悩と葛藤、そして何よりも強い反骨精神。若き表現者としてのありったけの心情が、当時は主にそのリリックとフロウの攻撃性として表出していた。

服役を契機とした内省的リリックの深化

しかし以後そのスタイルは明白に、かつ段階的に変化を遂げている。もっとも大きな転機であったと推測されるのは2017年、保釈中に制作されたEP『Refuse not to Be cool』と『True Life Diggers(Squad Words名義)』だ。

これらの制作を含めた収監前後の経験がその後のSILENT KILLA JOINTの作風に大きな影響を及ぼしていることは、本人の口からもメディアを通して語られている。

“もうどうやっても懲役行くってのは分かってたんで、「それならこの3ヶ月、仕事も辞めて曲制作に没頭しよ」って思ってやったんです。それで作った曲たちやったんですけど、本気出してやってみたら結構上手いこといけそうな気がしてきて。

そう感じた時…それまでは若さゆえの破壊衝動みたいなものを全部曲にぶつけてたのが、もうちょっと人としての抑揚を表現してみようって思ったんです。
やっぱり自分も人間やから上がり下がりがある中で、この下向きな…自分の弱いところをさらけ出されへんのはリアルちゃうかもなって。そう思ってもっと弱さや優しい言葉、人間の深層心理、みたいなところを意識して制作するようになりました。

2021.03.25 PRKS9インタビューより)

収監前に別のビートで録ったバースから制作された「Sick Time」と、服役中の心情が綴られた「NEVER MIND」はその初期微動と言える。

絶望に打ちのめされちゃダメ
自分を失わないのがコツだぜ
「もうダメ」って時に思い出せ
「こんな辛い現実も今だけ」

「Sick Time」

弱さを知って強くなれた
jailは俺の人生を変えた
取り戻せないあの頃の時間
過ぎて初めて分かる実感

「NEVER MIND」

これ以後の作品は本人も語る通り、リリックに表れる内省的表現が深化していき、感情の揺らぎや浮き沈みが一段と繊細に描写されるように。フロウの面でも『Light Side Black』の頃にあった“がなり”の強い声色と熱感は、少しずつ鳴りを潜めていくようになる。

より自然体に、口語へと近づいていくラップ

2020年5月にリリースされたEP『2020』では、そのラップとリリックにまた新たな表情がみられるようになる。

加古川のビートメイカー・SULLENのメロウに寄ったビートが時に優しく、時に哀愁を漂わせる『2020』。そのサウンドスケープに即してラップも一段穏やかになり、どちらかというと地声の質感を聴かせる部分が多くを占める。

頑張ったとこで褒めてもくれない 言いたいことなんて何も言えない
受け入れられないことの寂しさ それでも、なお、人を愛した
心が痛いと泣いて叫べば 外傷がないと蔑まされた
この世のせいにしないで 全ては何かの巡り合わせで
誰にも罪はないPainのChain Gain上げて音のRainに濡れる

「Get wet wiz love」

元来の力強さやエッジの立った明瞭な響きはそのままに、たとえば「Notice」のように独白的でシリアスなリリックにおいては淡々と、「Get wet wiz love」のようなメッセージ性の強い自伝的内容では諭すように柔和な語りへ。EPを締め括る「Late」のアンビエント感のある四つ打ちに乗せて《詳しい話はアルバムでまた》と爽やかな後味で終わる意匠も、これ以前の作品ではみられなかったものだ。

こうしてラップがビートに対してより柔軟になり、ゆったりとしたグルーヴをきかせる形へと移行していくにつれてリリックもまた自然体に近づいていき、どちらかというと平常の本人に近い“口語(話しことば)調のフレーズ”がこれ以降ぐっと増加する。

と同時に、この頃からある二つのワードの登場頻度が格段に増える、という点にもここで触れておきたい。

今日以上の幸せが俺達の周りに降り注ぐよう
優しい言葉で締め括ろう
“みんな今日もありがとう”

「Kind words」

何はともあれただいま
迷惑かけた皆ごめんな

「Late」

感覚の海 深海 拾い上げた罪
繰り返します ごめんなさい
なんでこんなにありがたい
家族仲間に新たな出会い

「Monday loop」

“ありがとう”“ごめん”

これについては、ちょうど先日公開されたABEMA『THE LYRICS』でも「ALL FEEL NICE」のリリック解説(↑)に際して「“ありがとうごめん”は、僕が一生言い続けなあかんテーマ」とストレートに言及されていた。

また、直接それらのワードが登場しなくとも、遡っていくと「BRAIN」「Depend on me」「Ideal Reality」「hAs」等、“ありがとう”と“ごめん”に通ずる心情を綴るリリックは収監前後を境として数多く発表されている。
中でも、やはり「Sick Time」のそれが象徴的だ。

俺を愛してくれる者たちに
最大の感謝と懺悔の毎日

「Sick Time」

《ありがとうごめん》、つまりは《感謝と懺悔》。それが今日までのクリエイティビティにおいて比類なき重大なテーマとして据えられている、という事実もまた、ラップの変遷に少なからぬ影響を与えたと思われる。何せDisもFlexも、このテーマの下では無用の長物になる。むしろ弱点をもさらけ出すくらいの自己開示の表現方法を、必然的に追い求めていくことになったのではないだろうか。

訛りが生んだ効果と意味

ところで、ここ一、二年ほどのライブと昨年のアルバム『静寂麻巻』を通してSILENT KILLA JOINTの作品を知った私が遡って聴いた『Light Side Black』『Refuse not to Be cool』のラップは、フロウだけでなく、ある特定の要素においても新鮮な驚きが感じられるものだった。

簡単に言えば「訛りの有無」である。部分的にいわゆる京阪式アクセントと思われるイントネーションはみられるものの、当時のリリックは基本的に標準語に即した文体となっていた。

しかし、おそらくこれも先述した“口語調のフレーズの増加”の影響から徐々に変化していったのだろう。音源化されたリリックの中ではっきりと関西弁、ないし神戸弁か淡路弁(「~している」が「~しとう」になる等)とみられる文法が登場するようになったのは2020年11月の『Alliberation』、そして同年12月の『漂流街』辺りからだ。

誰が誰とか覚えられへんなぁ

Depend on me

お天道様よう見とう世の中 上手いことできとうもんやな

I do anything

言うまでもなく、方言がフロウとリリックに与える影響は大きい。例としてわかりやすいのが2021年3月のアルバム『DAWN』収録の「Smoke Mo」だ。この曲のラップが持つ(メッセージの方向性はさておき)抜群のキャッチーさは、音節が間延びし丸く響く言葉がすこぶるいなたく、聴き手にのんびりと脱力した印象を与える関西弁――これをなくしては成り立たないと言っても過言ではない。

生来の関西弁話者である上に、その濁声寄りの声質をとっても、人間味あふれるキャラクターをとっても、関西弁でのラップ表現というのは親和性が高かったのだろうと思う。現在では曲調ごとに割合を変えながら(※)、ごく自然な形で関西訛りを聴かせる作品が多く、またそれが一つの個性として確立されている。

(※『FALLIN'』や直近の『Signal』での客演など、エッジーな曲では完全に封印される場合もある)

なお近年では、淡泊な述懐や情景描写のリリックから不意に弛緩するように関西弁の口語表現が挟まってくることが特に多い。

まだ長いだろう そう信じて生きる
一途なぶん 荒い本当の自由求め
熱くなる時はごめんなって 反省と懺悔ハレルーヤ
と あとなんやっけ?

Smoke 2 ma mann

私がこのラッパーに対して最も深くリリシズムを感じる部分が、この口語が出し抜けにあらわれてくるときの詩情である。その時点まで語り手と聴き手との間に一定以上保たれていた距離感が、こちらへ語りかけるような口語の出現によって瞬時に、限りなくゼロへと近づく。その瞬間、それまで透明化されていたリアルな思考の流れと奥行きが、まざまざと臨場感を持って感じられるようになるのだ(ついでに言うと上の詞は《なんやったっけ》ではなく若者言葉として自然な《なんやっけ》である点も重要)。

また、当人がどの程度意識しているものかはわからないが、そもそも自身の住む土地に通ずる言葉を音楽表現に落とし込むというのは、それ自体がいわゆる“フッドを背負う”行為であると言える。それでなくともSILENT KILLA JOINTはフッドに対する意識が強く、土着的な活動を継続しているアーティストであるため、その行為にはおのずと強い意味合いが生まれる。

生田川を横切り三ノ宮
そろそろちゃんとしなあかん

「Loved」

ここまでの文脈を踏まえて、最新アルバム『静寂麻巻』収録「Loved」の冒頭フレーズを聴いてみてほしい。この関西弁イントネーションのフロウと《三ノ宮》《ちゃんとしな》というライムに、いっそう深い意味と因果が積み重なっているようには感じられないだろうか。住み慣れた街の、おそらくもう数えきれないほど通ってきた道を行き過ぎる途中ではたと気がつき、自らを戒める。そんな情景を“その街の名”と“その地で親しまれ受け継がれてきた口語”でライムすることによって紡ぎ出してみせるのが、この一節なのだ。

この「Loved」は《許せる限りは許していく》など現在のSILENT KILLA JOINTのあり方を端的に伝えるリリックが多く、私のような一リスナーにとっても象徴的に意味づけられた一曲になっているのだが、そうした叙情が発露していく起点がこの《三ノ宮》からのライムである。よって私はこの曲を耳にするとき、ここに至るまでのラップの変遷と、その意味に思いをめぐらさずには居られなくなるのだった。

「MINATOMACHI」と生活のフレーズ、瞬間のアート

何を言いたい この街ごと上げたい (中略)
Everyday Everynightも変わりはしない

MINATOMACHI

二人が「MINATOMACHI」で歌っていることは実に明快だった。ここに居ることと、パーティーを更新し続けること。その点において“変わりはしない”ところに意義がある。その街と、そこに鳴る音が生み出す大小さまざまな出会いとかかわりを広げていくという、深くて大きな意義が。

人と音楽と共に暮らし、そこから生まれたフレーズをまた音と声に乗せてグルーヴし、フロアの人々を踊らせる。それは口で言うほど並大抵のことではないのだろうが、彼らのようなアーティストはそうしていく中で、人と人とが音を介して向き合い何がしかを共有する“瞬間”を生み出す。そして、きっとその“瞬間”を愛している。おそらく私が二人を見ていて感じた共通項は、作品の端々からみられるそうした姿勢の部分にあったのだと思う。

二人がフリースタイルバトルの現場に求められ続けている理由には持ち前のスキルやセンスだけでなく、そうした姿勢による所もあるのではないだろうか。シーンの盛衰やコロナ禍の影響もあり、ここ数年の間にも現場は様々な面で変容しつつあるが、近年の彼らのスタンスはほぼ一貫している。ライブでもバトルでも“今”が作る生活のフレーズを、そして“この場所”が生み出す瞬間のアートを届けるのがこの二人だ。

 (↑5月の『KING OF KINGS vs 真 ADRENALINE』で二人が当たった試合。)

――ところで、わざわざ昨年に出された一曲と二つの街までからめて二人の作品を、しかもそれぞれ違う角度で辿ったのには理由がある。
それは「MINATOMACHI」でみた二人の親和性が、それぞれの「作品ごとの変化」や「経年、経験が反映された変化」の過程を経たからこそ生まれたものだと思ったからだ。

より具体的に言うと、先に述べたSILENT KILLA JOINTの音楽面での変化が、二人のスタイルを近いものにしたのではないかと考えている。それがなければ、きっと何かの折で楽曲が生まれるにしても、そのテイストは大きく異なる形になったのだろうと。

そしてこれはほぼこじつけに近い話だが、この2020年の試合での句潤がSILENT KILLA JOINTに対し、名前の“KILLA”で掛けて吐いたバースは“Kill out”という明確な攻撃性を持ったものだった。

そしてそこから何年か経た昨年の「MINATOMACHI」のバース、そしてそれを引用した直近の二人の試合で、句潤は同じように名前に掛けてこう言うのだ。“キラキラ輝いてる目玉”
私はこの差異がどうも好ましくて思えてたまらない。これもまたその瞬間と、そこに至るまでの巡り合わせが生んだものだ。

人は変わるし、忘れていく生き物である。
だから私もこうして書くことにした。それがまた新たな、思いがけない瞬間を連れてくることに少しだけ期待しながら。

作成したプレイリスト(Spotify)

Spotify上でまとまった音源に収録されていない楽曲と客演参加曲を確認可能な範囲で発表年月日順に並べただけのリスト。何かと便利だったので随時更新予定。

※Squad Words名義含む

※MEATERS、クリティカルヒッターズ名義含む

参考URL

◎神戸新聞NEXT - 【てくてく神戸】旧居留地編(7)~(9)

◎横浜外国人居留地研究会 - 居留地Q&A

◎神戸元町商店街 - 元町マガジン - 元町点描「ここが神戸のもとの町」

◎Yahoo!ニュース - GW前に知っておきたい神戸と横浜の違い 歴史と文化と市政編【横浜市】

◎神戸市公式note - 神戸と横浜は何が違う? 横浜には「須磨海岸」みたいな場所がなかった!

◎PRKS9 - インタビュー:SILENT KILLA JOINT, dhrma & rkemishi – 全て乗り越えた先の景色

◎Real Sound - 句潤『風呼ぶカモメ』インタビュー

◎京阪式アクセント - Wikipedia
◎近畿方言 - Wikipedia

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