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12月

いちになる

毎日人が死んでいく。人は生まれた瞬間から死に向かっているし、終わりがあるということは希望でもあると思うけど、あまりに非道なやり方で毎日、毎日死んでいくのは耐え難い辛さがある。

即時停戦を求めます、ジェノサイド・占領や領土拡大を辞めてとSNSに呟き、情報をリポストしても私のあまりに小さな声はあっという間に流れて消えていく。私だってこんな事態になるまでずっと続いていた問題に見向きもしなかった。いつだって私は誰かの声が大きくなってから問題にやっと気づいて向き合うばかりなのだ。いまこの瞬間も誰かの声を無視して、気が付かずに踏みつけている。自分の情けなさとか恥ずかしさに改めて向き合い、自分の声がさらに小さくなる。こんな私ひとりの力なんてないように思う。

そんな時に思い出したのは上京したての頃のことで、あのときは3.11の直後で、若かったこともあり、自分が罹災して避難生活をしている間に日常生活が送られていたことが結構ショックというかやるせない気持ちになったこと、数年経ってからは日常が続いている場所があったことこそが希望だったと気がついたことだった。どこかで日常が続いていたことを希望と思えたのは、同時に復興がある程度見える形で進んだことが関係していたと思っていて、だからウジウジ言っていないで自分も目に見える形になりたいと思うようになった。だから最近は出来る範囲でデモに参加して、自分が見える形になることを選びんでいる。

私は先頭に立つことは出来ないけど、いちになることは出来る。そして、その”いち”は決して無いことにはならないのだ。私は小さないちだけど、同時に大きくもなれるのだ。



つくられていた偶然

嫌だと感じた言動についてどれだけ言葉を尽くしても隣にいる人に伝わらなかった春。

ああ、無力、むりょくと思いながら大きな本屋に行って、家に何冊もある川端康成の「雪国」を買い、近くの公園で読む。言葉がビシビシと届いて、急にさびしさが込み上げてくる。私の言葉は届かなかったし、あなたの言葉も受け取ることができなかった。会ったこともない人の言葉はこんなに届くのに、近い人には届かないなんて、そのややこしさこそが人生なのだろうか。

頬に触れる手が暖かいことにすら腹が立ち、何もかも許せなくなったことを思うと、今まで通りの関係を諦めるほかないのだけど、また誰かと一から関係を築くことへの絶望のような面倒くささに腰がひけて、あなたの手の暖かさを許してしまいたくなる。

自分の罪とあなたの罪を比べて、その意味の無さがまたさびしさをつれてくる。この感情を時間が解決することを知っているから涙も出てこず、そのことがあまりに退屈だった。


思い出が止まったまま冬になり、久しぶりに並んで歩く。からだとからだの間にある数センチの隙間を風が通り過ぎ、あなたが作っていた偶然を思う。ふたりで歩けばいつだって体がぶつかって、私たちはいつも互いの一部に触れ合っていた。今日あなたが決して超えてこない数センチの誠実さが、また誰かを好きになってみたいと心を揺らす。

時間が奪っていった感情をそっと手放し、新しい気持ちとの出会いに少しだけ胸が高鳴る。


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