人間らしくないが人間であるために
人であること
なぜ人として生まれたのか?
仏陀は
人として生まれただけでとても幸せなこと
と言ったとか言わなかったとか
でも、つまり、わたしが人らしくないのに人としての特徴をあまり備えていないのに
思いやりがない
人と仲良くできない
人からよく嫌われる
おしゃべりが苦手
集団行動とれない
などと人としての特徴をあまり備えていないのに、なぜ生まれて、この年まで生きているのか?
その理由について考えてみると、
要するに新人類として、新たな人間らしくない人間として生まれ生きていくためのひとつのチャレンジなのだと感じる。
神はわたしという人間(生物学的にいう人間)を道徳的な人らしからぬ存在として存在させた。
道徳律も人の特徴も人自身が作り上げたものならば、また新しい思想の世界価値観の世界もその先の地平に広がっているのだろう。
この感覚を持てば、わたしは誰かのようになることではなく、わたしはわたしそのものとして、わたし自身の人生に責任を持って生きていく(誰のせいで、なんのせいで、どうなったとか言わずに考えずに)自らの行動によって起こされた過去の部分をひとつの端緒とする。
すなわち、わたしは、オリジナルな(他の誰でもない)1人の人間である。
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