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僕のプロフィール ① 【幼少期〜社会人】

こんにちは。
心理カウンセラーのフミです。

今日は僕についてを少々、書いてみたいと思います。

本当なら一番最初に書くべき内容だったようにも思いますが……どうせ書くならたくさん書くぞ!と意気込みは大変良かったものの、ズルズルと先延ばしにする悪い癖が発動し、今ようやく投稿することになりました。

この記事を通して、僕のことを少しでも知っていただければ嬉しいです。

幼少期

あと数年でバブルが弾けるという1980年代後半。
僕は九州の南、鹿児島県で生まれました。

会社員の父親、専業主婦の母親、2つ上の兄、そして僕の4人家族。裕福でもなく貧困でもなく、ごくごく普通の一般的な家庭で生まれ育ちました。

幼少期はとても活発で、好奇心旺盛な少年でした。とにかく外で遊ぶことが日課になっていて、友達と川や山に遊びに行ったり、いろんな虫を素手で捕まえたり、路上で裸足でサッカーをしたり、自転車で遠くへ行ったり、家族で年中キャンプに行きまくったり。怪我もたくさんしました。大切に育てられ、幸せな家庭の中で、何一つ不自由ない幼少期を送っていました。

そんなある日、僕が小学校4年生の時でした。
父が癌でこの世を去りました。享年46歳。

入院してから3ヶ月という短い闘病生活。あっさりと天に召されて行きました。当時9歳だった僕は、父親の死という事実が理解できずにいて、お葬式の時には涙も出なかった記憶があります。

老若男女いろんな人から慕われて、お葬式には100人以上の人が参列していたと思います。誰に対しても柔らかく接し、イケメン高身長で誠実だった父。生きてる時に怒られたことは一度だけで、家の中でもいつも穏やかで優しかった父でした。

父親を失い、母と兄と僕での3人暮らしがスタート。ここから家族の形が徐々に変化していき、僕の人格形成に大きく影響していきます。

母親は次第に過干渉になり、捻くれていた兄がさらに捻くれ、家庭内でのコミュニケーションが困難になるほどキツイ性格になっていきました。クセの強い2人に囲まれての生活は、大変でした。苦しいでした。

生きづらさはもちろんのこと、自分の気持ちを誰からも汲み取ってはもらえず、母親の期待に必死に応える人生を選択をするよになっていき、言葉と暴力でイジメてくる兄に対しては必死に強がって生きていくようになりました。

本当の自分を押し殺した人生が、ここに幕を開けたのです。

中学〜高校時代

中学校を卒業後、県内有数の進学校へと入学。

ところが、世間体や家族の期待に応えるための高校選びだったため、入学と同時に完全に燃え尽きてしまいます。

通学するだけでやっとな状態。勉強は全くせず、成績は常に学年でビリから10番目ぐらい(学年全体では300人ぐらい)。共学で、かわいい女子も多くて有名な学校だったのに、男女共に友達と呼べる人は誰1人おらず、先生たちからも諦められていました。成績至上主義の先生たちは、僕にような落ちこぼれが質問しに来ると鼻で笑ってくることもしばしば。校内放送で校長先生から名指しで呼び出され、喝を入れられた時もありました。

家に帰れば、過干渉オカンから指示出しのオンパレード。兄はただただ僕をイジメて、傷つけてくることしかしない。もうどこにも”居場所”というものがなく、心も体も崩壊寸前でした。いや、崩壊していたんだと思います。誰からも構われず、希望もない、孤独で、空っぽな3年間でした。

今思うとなぜあんなに無理してでも学校へ行っていたのかが不思議で仕方ありません。きっと世間体を気にして、学校に行かないという選択肢はなかったのだと思います。その時に選べる選択肢が、それしかなかったのだと思います。

この3年間は、僕の最大の黒歴史となりました。

大学時代

高校時代に微塵も勉強をしなかった僕は、当然のように大学受験に失敗。大学に行かないと就職できないという将来への不安(思い込み?)から、母親にお願いして予備校へ通って地元の大学を目指すことに。

しかし、その予備校時代にある大学教授と出会ったことがきっかけで、進路を思いっきり路線変更。下した決断は、海を越えて海外の大学へ進学することに。

「このまま地元で大学行っても結局遊ぶだけだしな」

心のどこかでそう思っていたのでしょう。潜在意識の中にあったものが現実化したのかもしれません。留学なんかできる裕福な家庭でもないのに、なぜか”もうこれしかない!”という気持ちで頭がいっぱいになっていました。何とか母親を説得させることに成功し、奨学金制度への申し込みと同時に、南半球オーストラリアへ飛び込んでいきました。

知り合いゼロで英語もまともに話せなかった僕にとっては、留学生活は毎日が戦いでした。お店で差別を受けたり、発音をバカにされたり、大学の入学手続きでやらかしたり。失敗の無限ループでした。でも日本人の僕にとっては当時は毎日が非日常でもあり、スリル満点の刺激的な生活がとにかく楽しかったように思います。ホームシックなんてしませんでしたね。

それから、これは高校時代の反動だったのか、人生初めて”死ぬ気で”勉強というものをやりました。無理をしすぎたのか、ストレスが原因で逆流性胃腸炎も発症しました。が、死ぬ気で勉強しました。そのおかげもあってか奇跡的に海外大学を無事に卒業し、学士号を取得。

人生で初めての成功体験だったように思います。

キャリアについて

大学を卒業後は日本へ帰国。しばらくニート期間を経て、東京にあるイベント会社へ新卒入社。26歳で社会人デビューを果たします。

超絶ブラック企業だったイベント会社で約3年ほど勤務した後、逃げるようにして退職。これから時代は手に職をつけないとヤバイ!という思いに駆られ、外資系のIT企業に入社します。

が、業界のことも全く調べないまま適当に応募しての入社だったため、たった4ヶ月という短い在籍期間で会社をクビになりました。

人生で初めてく”クビになる”という経験をした僕は、心が潰れていました。しばらく心を休めた後、同じく東京にある通信インフラの会社へと転職。入社して1ヶ月後、その会社の札幌支社への転勤を告げられ、2年半ほど北海道で働くことに。雪国ライフを初体験。

しかしこれまた大変な業務内容で、夜勤地獄と仕事のつまらなさに限界を感じて2年で退職。退職後は札幌に残って職探しをしていましたが、なかなか次の仕事が決まらず半年間プーとなった挙句、経済的にも限界が近づいてきたため、地元鹿児島へ避難するように帰りました。

久しぶりの鹿児島。帰国以来の地元でした。戻ってきて割とすぐにWEB制作の会社から内定をいただき、入社することになりました。ずっとやりたかったウェブ制作。非常に楽しかったです。

が、、、しかし。
コロナの影響が深刻で、会社の業績が大きく傾いていたみたいで。約3年間の在籍期間を経て、会社都合という形で人生二度目のクビを経験することになったのです。会社都合ではあったものの、ここで完全に燃え尽きてしまっていたようで、またしばらくニート期間に突入します。

30代半ばで実家暮らしのニート。この期間は、僕の人生の中でも特別な時間だったと思います。人生における仕事のあり方、仕事との向き合い方、本当に自分がやりたいことについてなど、真剣に向き合いました。

そしてちょうど失業保険が切れるタイミングの時、何かを引き寄せたのか、いろんな偶然や不思議なご縁が重なってついに就職先を見つけました。3年ぶりにIT業界へ戻ることになり、無事に会社員として社会復帰することになりました。in 名古屋で(笑)

これまでの経歴と居住地
オーストラリア(大学時代)→鹿児島(ニート)→東京(イベント業)→東京(IT業)→札幌(通信業)→鹿児島(ウェブ業)→名古屋(IT業)


という感じで、まだまだ長くなりそうなので、続きは次のブログで書きたいと思います。

フミ

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