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「たとえたい」という病

最近、いわゆる「話が上手い有名人」に思うところがある。私は、話が下手なので、彼らの話術は魅力的に思う反面、「そのたとえ(以降、喩えと書く)は、的確なの?」、と。

見ている人は、彼らのファンなので「本日も、貴重な、お話ありがとうございます!」の、コメントで溢れているのだけれど。

そんなファンも、「とんでもない失言」をしてしまえば、突如として消えてしまうのだが。


私は、そんな彼らが、得意げに自分の話術に浸っているのを、見ると「気をつけなはれや」と、思うのだ。


誰にでもわかりやすいようにと、彼らはしばしば喩える。

それは、「私は、賢いのだ」という誇示をしたいようにも映る。

実際、「この比喩は、よろしくない」と思うことがある。


いつから日本人は「喩える」ことを、こんなにも

多用するようになったのだろう。


「喩える」のは、魔物だ。

中年男性が作者のビジネス書によく出てくるのは、「野球」のたとえ。

私は全く理解ができないし、その人は私のような年代の読者や女性などの視点を想定していないな、と冷静な視点になる。

彼らの作品の中には「女房に、よくなじられます。うるさいですけど、そう言う時は、女房に従います」などという、男性向けの内容も良く入っていて、

私はその度に、「あなたの、事情はいいから、話を進めてくれ。その愚痴は建設的ではないな」などと感じ、読むのを止めることもある。


わからない比喩ならまだ良い。問題は、人を傷つける比喩だ。それを使う彼らには悪気がない。

また、政治などの分野では、しばしば言わなくても良い発言が、起こる。それは、喩えることから成り立っている。


先日、ツイッターをたまたま見ていたら、「ロシアが今、ウクライナに起こしていること」で、物事をたとえていて、寒気がした。


その人は、一般人だろうし、その発言は叱責されることもないだろうが。

きっと、そのたとえをした自分が天才だなぁ、とほくそ笑んでいるのだろうが…


あんまりに話している本人が、恍惚としているたとえは、冷める。

それに、どうにも「日本人にしかわからない、たとえ」が多い。そして日本人も、多様化している。これなら、みんな知ってるでしょう?、はもはや通用しない。喩えは、筋トレと一緒だ。何にも練習せずにできるわけもない。


わかりやすくするために、策を弄すより、そんなことは諦めて、「私は、身の丈で生きます」と言う方が、よっぽど魅力的だ。


さぁ、言葉の鎧を、早く捨てた方がいい。

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