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発達障害のお子さんに関わる全ての方に目を通しておいて欲しい記事の紹介と、小学生の頃の私

こんにちは、ふうこです。

今回は、オススメしたい記事があったので、
それを取り上げたいと思います。


「Y先生」という方が書かれた記事です。
この方は、現役の小学校の先生で、
配慮が必要な子供たちのことについて発信している方です。

その中でも「コレは!」というのがあったので、
紹介させてください。


↓それがこちらの記事です。


発達障害の気質を持つお子さんに関わる方の中には、
「成長すれば、落ち着いてくるかも知れない」と
淡い期待の様なものを持っていらっしゃる方も
いるかと思います。(かつての私の事)


そういう方も、そうでない方も、
「全ての方」に

是非是非読んでいただきたい。

切に思います。


なぜ、そう思うのかというと、
私自身が、この記事の中にある
『自然と我慢する事を身につけてしまった』
子どもだったからです。


ここから先は、私の過去話になります。
(書いている途中から、気づきもあったりして、
長文になってしまいました。
お時間のある時に読んでください。)



私も発達障害の気質があって、
気がついたのは、つい最近です。


上に書いた「我慢」の怖いところは、
「無意識にしている」という所です。

 
無意識にしているので、本人が気がつないところで、
サインが出たりするんです。


小学生の頃、学校がとても怖かったです。


教室にいると吐き気がしました。


授業中、この吐き気に我慢しきれなくて、
教室で吐いてしまったりしてました。
(今思えば、ギリギリまで我慢しないで、
授業の途中でも手を上げてトイレに
行けば良かったのですが、
「授業を中断させてはいけない」とか
「授業中席を立ってはいけない」という
思い込みがありました。)


朝、熱を出すのも多かったです。
親は「風邪」だと思っていた様です。
病院に連れて行かれて、大量の抗生物質を処方され、
飲んでいました。
(当時は、抗生物質万能説があった様に思われます。)

食べたものを吐いてしまうので、
栄養が取れないせいなのか、
熱のせいなのか分かりませんが、
よく点滴をしていたのを覚えています。

点滴している間は、横には誰もおらず、
あみだくじの様な天井の模様を
目で追いかけて過ごしていました。


この「風邪」のために学校を1週間休むとか、
割と普通にありました。
最高2週間連続で休みました。

当時は、「学校は必ず行くもの」と思い込んでいたので、
学校を休めると兎に角嬉しかったです。

学校を休んで、
「一人静かに明るいお部屋でお布団に入って横になっている」
というのが至福の時でした。


(両親は共働きだったので、
一人で学校から帰って来て、
一人でお布団の中でお留守番してました。)

ふわふわのお布団の中で、
大好きな図鑑を読むのが、安らぎでした。

 
「一人静かに過ごしたい」というのが、
当時の私の願いだったように思います。


私には、父、母、妹がいるのですが、
家族に違和感があって、誰かいると
くつろげなかったです。

時代あるあるだと思いますが、
父も母も褒めて伸ばすタイプではなかったし、
しつけには叩くのも、閉じ込めるのも、
追い出すのも、アリ、という考え方の人でした。
なので、無意識のどこかで緊張していたのかな?と思います。

気がつかなかったけど、当時の私は、
結構頑張っていましたね。

私のサインは「風邪の様な症状」でしたが、
家族を含む周り人は
「あの子は体が弱い」「風邪をひきやすい子」
という認識で、
「原因は、別のところにあるのでは?」と
誰も思いもしませんでした。


記憶にはありませんが、赤ちゃんの頃から
虚弱体質で体調不良のことが多かったらしいので、
その延長だと思っていた様です。

私自身も「学校が怖い」という表現を使った記憶がありません。
「学校に行きたくない」は、
もしかしたら使っていたかも知れません。


(今気づいたのですが、子どもは自分の気持ちを
的確に表現するのが難しいのですね。
よく言われることですが、
今、本当に今、実感しました。)


「学校に行きたくない」と思っていたけど、
明確には言っていなかった様に思います。


「学校は行くもの、行かせるもの」と
両者思い込みもあったし、
両親は共働きだったので、言ったところで
あんまり相手にはされませんでした。


共働きの両親にとって、
「学校に行きたがらない子」というのは、
「困った子ども」という認識のようで、
そんな雰囲気を感じ取ってもいました。


なので、「学校に行きたくない」とはっきり言うのをやめた様に思います。 


「学校が怖い」と言うのは、最初から感じてました。
正確には、「人がたくさんいる所が怖い」です。

「人がたくさんいる所が怖いから、学校を休ませて」
と言えたなら、両親から違う反応が返ってきていたかも知れません。

でも当時の私は、何が怖いのかさえ分かりませんでした。


怖いので、一年生の初めは、めちゃくちゃ駄々を捏ねて
学校に行く前に大暴れしてました。
班での登校だったので、六年生のお姉ちゃんのランドセルを思いっきり引っ張って、学校に行くのを阻止する、と言う暴れ方です。


めちゃくちゃ迷惑な行動ですよね。
これが、私の「学校に行きたくない」のサインの一つでした。


六年生が困っているのも、周りが迷惑しているのも
うっすら分かっていたように思います。
でも阻止したかった。そっちの気持ちが強かったです。


母がしばらく登校に付き添っていました。
そうしていくうち、大暴れもなくなって、
学校に行くようになりました。

 
母も大変だったと思います。
ごめんね、お母さん。

 
「困った子ども」と言う認識をされていると
思い込んでいた私は、自己肯定感がとても低かったです。


成長するにつれて、父や母を恨む様な憎しむなところもありました。


(今は憎しみも恨みも手放して、それも必要だったと認識して、
ぺちゃんこだった自己肯定感も爆上がり、
自己受容も進みつつあります。
↓手放しについては、こちらの記事をご覧ください。)


ここまで書いて思うのは、
やはり、当時は「辛かったんだろうなぁ」というところです。

不思議なことに、明確に「辛い」という気持ちはありませんでした。
当時の私の語彙に「辛い」という文字がなかったからです。

気持ちに当てはまる言葉を知らなければ、
それを表現するのは難しい。

当時の記憶から、そう思います。

何が辛かったかというと、
「理解者がいなかったから」というところです。


今振り返って、当時の気持ちを表せば、
「母に理解してもらいたかった」
です。


小さい頃のお母さんの存在は最強です。

あくまで、私の感覚ですが、
それゆえ、周りにどんなに思われても
お母さんさえ理解してくれたら、
それでいいとさえ思えるのです。

 
ここまで来て、
ようやく息子への受容の大切さが身に沁みて来ました。

 
手放しをする前は、私は、息子を見るたび自分を責めてました。
「あの時ああすれば、そもそも特性はもっと抑えられたんじゃないか」
「自己肯定感の大切さを知っていながら、
(両者の特性のせいで)叱ってばかりいて、
息子の自己肯定感は大丈夫だろうか?」
「そもそも妊娠していた時のあの出来事が影響しているのでないか」
「あの時、もっと…」(エンドレス)

こんなのばっかりでした。
 
昨日も子ども達と一悶着してしまいました。
(こちらもどこかで記事にします。)

 
今は、気持ちを切り替えて、
「私も子ども達もそういう経験が必要だったんだ」
「『今』は『過去』の積み上げではない。
『今』と『過去』は別物。バラバラのもの。
いつからでも、『今この瞬間』から切り替えることが出来る」
と思っています。

一悶着あった件は、感情に隠されてその時には見えなかった
「本当に子ども達に伝えたかったこと」
を見つけ出して、今朝、それを子ども達に伝えました。

 
「母から言われる罵倒」
「母から叩かれる」

やっぱり、これは子どもへの強烈な一撃になってしまうと
感じました。


こんなの当たり前だと思いますが、
身に沁みてというか、
私の特性のせいか分かりませんが、
本を読んだだけでは、頭では分かっていても、
自制が出来なかったんです。


ヤミコさんの講座を受けてからは、
そこからは脱却したのですが、
こうやって、記事にして振り返るのもとても大切なことだと
この記事を書いて、改めて思いました。

 
息子も娘も丸ごと受け入れ愛する。
私自身も丸ごと受け入れ愛する。
ちょっと照れちゃいますが、
夫も丸ごと受け入れ愛する。
 

言ってしまえば、夫も息子も娘も外の世界。


「私自身を丸ごと愛する。」

まずはここからだと思います。


一般的にネガティブと思われるところ
(例えば、聞くのが苦手とか。)、
そういうところさえ、受け入れ愛する。

一見ネガティブに思えることも、
私の必要なところだから存在している。
私を形成する必要なパーツ。
それが欠けたら、私が成り立たない。
私が私でいるために、必要で貴重なパーツ。


「私が私でいることを認める。」
「私がこの世界で存在することを認める。」
「どんな私であろうとも
私は私の最大の理解者であり続ける。」


改めて自己受容の大切さを感じました。


最後の方は取り留めのない文になってしまいました。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。



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