見出し画像

気前が良くなりたい

noteを始めてから毎日「死なないマガジン」を書いてきたけれど、ずっと同じシリーズでは飽きてしまう。ということで、今日は思い切ってエッセイを書いてみようと思う。

とはいっても、なにについて書こうかまだ決まっていない。エディター画面のタイトル入力欄はまだ空欄のままだ。なので、ここにとりあえず適当な言葉を入れてみる。

とりあえず「気前が良くなりたい」と書いてみた。なんとなく、いま、ふとそう思ったので。

すると、なんでだろう、さっきまで全然そんなことなかったのに、「気前が良くなりたい」という気持ちが沸きあがってきて、それについて書きたいことがどんどん思い浮かんできた。



私がいま思い浮かべたのは、ひとりの友人、Kさんとのやりとりだ。彼女は私が知っている人間の中で一番気前が良い。

例えば、彼女を含めた数名で集まってご飯を食べに行ったときのことだ。集まった友人のうちの一人が、仕事を辞めて就職活動中のためそろそろお金のことが心配だ、という話を、それほど深刻にではなく、なかば相談、なかば雑談といった感じで話していた。

しばらくするとすぐにまた別の話題に移り変わっていって、楽しいおしゃべりとおいしい食事でひとしきり盛り上がり、やがてお会計の時間になった。気づいたのは本当にたまたまだったのだけれど、それぞれがかばんの中から財布を取り出しているとき、Kさんがさりげなく、ひょっとしたら他の人は気づいていないくらいさらっと、就職活動中の友人に向かって「あ、2000円でいいよ。いいからいいから」と言って、自分だけ多めに払っていたのだ。

正直なところ、私はそのとき、その友人が仕事を辞めて金欠だと話したことなど、すっぽり頭から抜けてしまっていた。Kさんの声が聞こえてきて初めて、あ、そうだった、と気づいたのだ。

私は後日、そのとき感心したことをKさんに伝えた。そして、Kさんはどうしてそんなに気配りもできるし気前もいいの? と聞いてみた。



えー、なんでだろ、と、自分でも考えたことのなかった質問にKさんは少し面食らっていたけれど、彼女の生活環境をいろいろ聞いていくうちにわかったことがあった。

Kさんはガールズバーで働いている。お客さんが店員との会話も楽しんだりするようなお店。だから、まず彼女は私と比べて、桁が違うくらいたくさんの人とコミュニケーションをしていて、しかも水商売なので、気配りが欠かせない。その経験が体に染み付いているのだ。

しかし、それ自体はわかっていたことだった。私が気になったのは、気配りよりも、その気前の良さだ。友達が数名いる中で自分だけが多く払うのは、仕事の営業のためでもないし、不公平に感じたりしないのか、と。

すると彼女はこう言った。「お金のことで揉めたりするのって、嫌じゃん? 私が払うことでそれがなくなるんだったら、そのほうがいいの」

それを聞いてなるほど、と思った。面倒事をスキップする感覚でお金を払っていたわけだ。Youtubeのプレミアム会員になれば広告をスキップできるのと同じように。

「私が人の目を気にしすぎてるっていう部分もあると思うけどね」と彼女は続けた。「場の力関係とかを深読みしすぎて、どうすればいいかわからなくなっちゃって、とりあえず私が多めに出しておけばみんな悪い気はしないでしょ、ってなっちゃう」

「でもそれって、結局お金に余裕があるからできるってこと?」

「もちろんね。余裕ないときは私もやらないよ。でも仕事柄、付き合いでご飯行ったりすることも多くて、そうすると、奢ることも奢られることも普段から頻繁にあるんだよね。だから、それが普通っていうか。払えない人がいれば払ってあげるし、いっぱい払える人がいれば払ってくれる。そういう意識だから、最初から私の持っているお金だけが私のものじゃないっていうか、そのへんの境界線が曖昧なのかもしれない」

この指摘も鋭い。確かに、私は普段から誰かに奢ったり奢られたりすることがない。そもそもそういう関係性の人がいないのだ。会社の上司にはごくたまに奢ってもらうこともあるけれど、職場に私より若い人がほとんどいないので、私から奢ることもない。だから、彼女の言うような「私の持っているお金だけが私のものじゃない」という意識を私は持ったことがなかった。



なるほど、Kさんは関係性の中に生きているのだな、と私は思った。私を取り巻く人間関係は、ほんの数名の友人と、会社の同僚くらい、それで終わり。でも、彼女の人間関係は、職場を中心に複雑なネットワークを形成しているのだ。

彼女のお店に来るお客さんどうしが、彼女の知らないところで交流していることもよくある。つまり、ある知り合いに対してとった言動が、人間関係のネットワークを伝って、別の知り合いとの関係にフィードバックする、ということが頻繁にあり得るのだ。

ひょっとしたらこれは、多くの人にとっては当たりまえのことなのかもしれない。しかし私にとっては衝撃的な発見だった。私も学校に通っていた頃は、人間関係のほぼ全てがその閉鎖空間の中で完結していたので、そういう人間関係のネットワークの中にいたはずだ。でも社会人になってからは、そういう意識を長らく持っていなかった。

よく言われることだけれど、「情けは人のためならず」ということわざは、「情けは他人のためにならない」という意味ではなく、本当は「情けは回り回って自分のもとに返ってくるものだから、他人のためではなく自分自身のためにするのだ」という意味だ。彼女は私と違って、実際にそういう人間関係の中に生きているのだと思う。

Kさんはこんなことも言っていた。

「アフターだって仕事なわけだから、タクシー代もらえないとマイナスになっちゃうじゃん。だけどタクシー代とかも、渋る人もいるのね。でも、真正面からはくださいって言いづらいじゃん。だから、私はいいから、他の女の子たちのぶんだけでも出してもらえない? って聞くの。すると、嫌な感じもしないし、絶対出してくれる。しかもほとんどの場合、私のぶんも出してくれる。
他の人のためにお金を使ったりするのも同じだと思う。それを見て評価してくれる人が絶対にいるから。
でも、それって見返りを求めてやるのとは違うんだよ。見返りを求めていると絶対に相手にも伝わる。だから、誰も見てくれてなくてもいいっていう気持ちで、私の気が済むためにやるの」

彼女の言っていることは、世間でよく言われているようなアドバイスと言葉の上では同じことのように聞こえる。けれど、そのとき彼女と話していてひとつ気づいたことがあった。

それは、彼女自身が誰よりも、気遣いができる人や気前よく人のために一肌脱げる人のことを評価しているということだ。だから他人のそういう行動をよく見ていて、そういう人間を大事にすればいいと知っている。

Kさんは他人の気配りや気前の良さを、人一倍観察している。よく見ているから、真似ができるのだ。そうやってお店の先輩や知り合いの良いと思う行動を自分にも取り入れてきたのではないだろうか。



ここから私が得た気づきは、気前が良くなろうとする前に、他人の気前の良さにちゃんと気づけなければならない、ということだ。気前が良くない人はたいてい他人の気前の良さにも鈍感で、表面上でやりとりされているおしゃべりの裏で、そういう気遣いのメタ・コミュニケーションが行われていることに気づいてもいない。

他者からなにかを与えられているとき、そのことにちゃんと気づけるようにならなければならないと思う。そういう他者を信頼して、感化されて、自分もこういう人間になりたい、と思うようになっていくのだ。

それは関係性のネットワークの中に身を投じて、他者によって自分の人格の形が変形されていくのを受け入れる、ということでもあるのではないだろうか。自分と違う他人のよいところを見つけて、その人に近づいて、影響を受けて変わっていくこと。

それにはまず、この人みたいになりたい、と思える人に出会わなければならない。そんな人、身近なところにいるのだろうか。いや、きっといるはずなのだ。だって私は、Kさんだったら気づいているような他人の気配りや気前の良い行動の多くをおそらく見落としているのだから。

人が恐ろしく多面的な存在であることを時々忘れてしまう。どのお客さんの前でも違った顔を見せるKさんを見ていると、そう強く思う。ある一面を見て、こういう人間だと決めつけていてはダメなのだ。気前が良くなるためには、まず他人の気前の良さに気づけるように、もっとよく人を見なければならないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?