高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』に見る距離感の適切さあるいはメタファーとしての料理たち

主人公の男性社員二谷は、芦川という先輩社員となんとなく交際していた。彼女のか弱さや可愛らしさに惹かれてはいたが、手料理や手作りの菓子を振る舞ったりするわりには頭痛や花粉症などですぐに早退してしまう様子をやや冷めた視線で見ることもあった。芦川の後輩である女性社員押尾はそんな彼女に誰よりも苛立ちと嫌悪を感じている。押尾は芦川と正反対のタイプの、いわゆる「デキる女」だ。ある日二谷と二人で飲みにいった押尾は、いっしょに芦川に「いじわる」をしないかともちかける−−−−−。

社内の日常風景や場を支配する微妙な空気、それによって微かに歪む人間心理が細部の整った描写で綴られ、登場人物のネガティブな感情がじっとりとにじみ出てくる。一人称のときの男性心理の描き方がややリアリティに欠けたが、女性が同性に感じる苛立ち、中年男性社員のほぼ本能的といってもよい好色に向ける嫌悪に関してはさっぱり書き流してはいるものの、いや、だからこそざらついた感触を伴ってありありと読者の面前に出現する。

代わりに、「申し訳ございません」と謝った。その声が自分でも驚くほど尖っていた。藤さんがため息をつく。しんどそうにする。芦川さんの早退の話は労わるようにほほ笑んで聞いていたくせに、とむかつく。(中略) 会社の上司は特別な訓練を受けた教職者ではないのだから、えこひいきをする。

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』講談社2022 p.57

このシーンは藤という中年男性社員に仕事のミスを謝っている押尾の視点だ。作者は女性だから女性の描き方がうまい、などという浅薄なことを述べるつもりはないが、「おじさんに庇われる可愛いか弱い女性」に苛立つデキる女を拳ひとつ分くらいの距離を保って点描している。どの登場人物に対してもその心情にあまりにも肉薄せずに写し出すことで、一見ドロドロの人間模様を淡々と展開することに成功しているといえよう。

本作はタイトル通り食べ物のシーンが多く出てくる。「ごはん」がこの小説のメインテーマなのだろうか。しかし手軽なコンビニ飯を是とし、丁寧な手料理を嫌う二谷や料理好きの芦川に比べて押尾の食べ物に対する態度があまり描きこまれていない。彼女が食べ物について語るシーンは散見されるが、どれも目の前の二谷に調子を合わせるように様子を窺いながら話している程度なのだ。

ここでの「ごはん」は人との距離の取り方や態度のことかもしれない。ジャンキーな即席飯を好み、丁寧に作る料理を嫌悪する二谷は他人との関わり方も浅い。大学時代からの読書仲間とのラインも自分は発言せず既読をつけるだけ。芦川は端的にいえば性欲の対象なだけだし、本音を隠しながらのような押尾との会話はいつもおざなりだ。
一方で芦川は何度も職場に凝ったケーキなどを作って持っていくほど料理や食を大切に捉えている。しかし望んでいない相手への手料理は、人に対して優しいが善意を押しつけがちな彼女の特徴を表しているようにもとれる。
問題は押尾だが、内心は嫌がりつつも芦川の手作り菓子をきちんと食べたり、二谷に合わせて食にこだわりがないように振舞う彼女の人間関係は良くも悪くも器用で、自分を押し殺して周囲に合わせてしまうようなところがある。

この物語のあちこちに登場する食べ物のシーンがやたらと詳細でそのわりにはあまり食欲をそそられないのは、彼ら3人の対人態度が少しずついびつで、そのどれもが少しずつ読み手の共感を誘うからではないか。おいしそうなシーンのはずなのに、誰かに対する自分の態度(しかもあまりプラスではない面の)がつまびらかに書かれているので、読んでいて居心地が悪くなってしまうのだ。

登場人物の心理に一定の距離を置いて描いているのと対照的に食べ物のシーンはとても細かい。それは気づかれぬように読み手のそばにそっとはりつくためだ。3人のストーリーを追っていると思って読んでいたのに、ふと見るとすぐ横に自分の心が暴露されている。本作を読んで読者が感じる「不穏さ」「不気味さ」「緊張」は、読者自身がこれは他人の物語ではないと気づく瞬間にやってくる。おいしいごはんに成りすましながら。

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