古典の価値は「情報」にあるのではない

 以前、下記のようなツイートをした。

”古典を解説した佐藤優の本に純理があったのはいいが、良さがあまり紹介されていない気が。歴史的な位置付けとか、アインシュタインの相対性理論によってその空間/時間論が崩れたとかそれはどちらかというとどうでもいい。立花隆との対談を想起しているのかな。橘玲の悪本を私は思い出した”


↑確か立花隆との対談本で、立花はカントを全く評価していないというようなことを言っていた気がする。後の時代にアインシュタインの相対性理論によって、非ユークリッド幾何学という新たな視点(よう知らんが)が出てきたのでカントの前提としている空間論時間論が無意味なものになったと。橘玲の、読まなくていい本、みたいなタイトルの本(覚えてない)にもだいたいそんなようなことが書かれているらしいが、くだらないと思う。

 科学が発展したからそりゃ今まで前提としてきた知識が崩れ去ることもあっただろう、しかし、だからといって時代の風雪に耐えてきた古典中の古典を「読まなくていい」と断じていいのか⁉︎古典の価値は知のパラダイムシフトなんかで一掃されるようなものではない。古典の中に書かれている知識の真偽を問うことなどはさしたる問題ではない。自分の頭の中で文章を解体し、一つ一つ取り上げて調べ、再び組成する。また自分の理解の及ぶ範囲で文章を書き直し、論理展開を確認する。そうやって自分の血肉としていく過程を与えてくれる、これこそが古典の価値なのだと私は信じている。

 古典というのは例えて言えば筋トレガイド本のようなものだ。そこに書いてあるトレーニングメニューを書いてある通りに行なったり、また少々発展させて独自にトレーニングをしたとしても、それは全て自分の血肉(文字通りに)となる。内容が多少古かったり、間違っていたとしてもトレーニングを行なってきた肉体や過程、はたまた筋トレ自体が無駄とは言えないだろう。

翻って知識自体が古くて無駄、というのはそういった知的営みを招かないような本のことをいう。知識の羅列のみ、その中になんら文学的価値や知的魅力が含まれていないような本だ。そういう本は「新しい知」が登場した途端古びて無価値なものとなる。例えば朝日新聞の慰安婦誤報道問題の発端となった本多勝一の『中国の旅』などが挙げられるだろうが、古典と比較してはあまりにかわいそうなのであまり深入りはしないでおく。

このように、読む人の知的トレーニングになるような本を「古典」というのであって、そうでなければ「古典」ではないし、内容の真偽など瑣末な問題にかかずらうのはやめようと声を大にして言いたい。以上。



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