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映画「コンタクト」感想

(完全ネタバレ)
科学者のエリー・アロウェイは地球外生命体との接触を夢見てアレシボ天文台で研究を重ねていた。しかしプロジェクトに将来性を感じないという天文学者らによって研究予算を打ち切られてしまう。窮地に立たされたエリーだが、富豪スポンサーの援助のもとでニューメキシコに超大型干渉電波望遠鏡群を設立することができた。宇宙からの電波信号を待機する日々だったが、ある日ヴェガ星からメッセージを受信する……。

人間にとって未知なる存在というのは究極的には自分以外の他者である。
決して踏み越えることができず、自分にとっては外なる存在であるところの他者と意思疎通するには、言葉を介さなければならない。
ヴェガからの暗号をもとに造られたマシーンでエリーは宇宙に行くのだが、マシーンはこんなに高度でハイテクなのに、記録用ビデオは壊れてしまう。それで結局エリーは口頭で自分の体験を説明している、というシーンがある。これは、自分の見たもの聞いたもの感じたものを他者に伝えるには究極的には言葉でもって行なうしかないというメタファーだといえる。言葉というのは自分とその他の存在の共通了解を得るための最も原始的な道具なのだ。
そして、我々が決して超越できない境界を越えるとき、それは死という他者を知るときだ。
ヴェガ星人はどんな奇怪な姿で登場するのかと思いきや、亡くなったエリーの父親の姿で現れた。究極の他者であり、我々にとって未知なる存在の最たるものというのは、死である。そのことを、未知なる存在と亡くなった父親を重ね合わせることで端的に描き出したのは、この作品の至宝ともいうべきシーンだろう。
戻ってきた(他の人間にはマシーンが落下しただけのように見えた)エリーの体験が周囲には信じてもらえないというシーンで彼女はこう語る。「経験したのは確かです。証明も説明もできません。けれど私の全存在が事実だったと告げています」
「雨が降っていたことは証明できないが私が『雨が降っている』と思ったことは事実だ」という思考実験の命題があるが、エリーが体験したことは全ての人間一人一人に当てはまる。
全ての人間は一人一人単体であり、脳内を実質的には他者と共有できないという意味で、当たり前だが、孤独である。しかし我々は言葉を通して、メッセージの受信を通して、他者とコンタクトが取れる存在なのである。そのかぎりで、我々は「決して孤独ではない」。我々が生ある存在として言葉を使っているかぎり、他者と接触を図るという可能性は限りなく大きく開かれている。これから先未来がなん億年と続こうと、我々は他者からのコンタクトを拒んではならない。これからも「通信」を待機し続けよう。我々は「受信機」を持っているのだから。

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