『時間を哲学する』

「過去はどこへ行ったのか」
過去とは知覚できる物理的事象などではなく、現在において語られることによって初めてその姿が立ち現れる意味的事象である。
「昨日は暑かった」と「いま」我々が語るとき、その「昨日」も「暑かった」という現象もどこにもない。想起しているし、温度計を映した証拠の動画もあるし、と反論するかもしれないが、それは「いま」我々が語っているだけなのである。
時間を空間上に並列させられた線のように捉えるのは誤りだ。過去は今我々が語ることによって現出するだけであり、過去そのものが存在するわけではない。例えば空間におけるように、机のよこに棚があってその横に自分がいるというような並列関係は時間の「未来・現在・過去」に適用させられるものではない。
過去と現在が分岐するまさにその転換点は、「昨日は暑かった」「さっき風呂に入ってきた」と過去を振り返って語る言葉の中、概念のなかにこそある。
過去は想起可能だし、歴史的遺物も証拠もあるので存在しているとはいえるが、過去の事象そのものを取り出してくることはできない。大脳のなかにコピーされているわけでもない。
夢のアナロジーとしても過去を考えることはできる。夢は「見た」といえるが「今見ている」と言うことはできない。なぜなら寝ていて意識がないから、目覚めてから「こんな夢を見た」と言葉でもって語るという形式しかとれないからだ。
そして未来に関して言えば、そんなものは影も形もないといえる。過去が現前していないのとはまったく異なる仕方で「ない」と言えるのだ。明日死刑が執行されるとして、その「明日」は死刑が執行される事象自体を「いま」思い描いただけのもの、または死刑囚がその明日を恐怖に打ち震えて待っている心理状態を指すに過ぎない。
「いま」というものも、実は触れようとすれば消えてしまう頼りないもののように思える。「今」「今」「今」と時計を見ながら言い続けても、それは一分一秒後には「過去」になり抜け落ちてしまう。掴むことができないように思える。「いま」というのはそれが「過去ではない」ということを意識することによってのみ実感できるといえる。「不在への態度」を意識することによって「在」ることを知る。
画鋲が足の裏に刺さって「痛い!」というとき、それは痛くない状態を知っているからその苦痛を言明することができるのである。ここでの「不在」はすなわち痛くない状態のことである。
我々は「いま」が「過去ではない」ということを知っている。つまり「不在への態度」に裏打ちされて、「いま」を「いま」だと思えるのだ。


厳密に読解できたわけではないが自分の中ではだいたいこのように解釈した。
かなり濃密な読書体験であった。
私は著者のような「死が怖くてたまらない」とか「自分とはなんだろう」という問いにがんじがらめになっていた経験はないからおそらく哲学的センスはゼロなのだと思う。だが本書は転回的な発想や物事の根源を疑うという姿勢を思い出させてくれた。良書に出会えたことに感謝したい。

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