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冬靄の街の守人┆約束の余韻

暗い朝焼けと同時に目を覚ます。部屋の中でも吐く息は白い。身震いをしながら僕は足早に寝室を出て、キッチンのカウンターのランタンをひとつノックして、「月の欠片」に今日の始まりを告げた。
忽ち灯りを放って、部屋中の同類たちが共鳴し、呼び起こされていく。明るくなったキッチンで小鍋に湯を沸かし、カーディガン一枚を羽織って洗面台へ向かった。

黒い直毛は、放っておいたが故にこうなったのか、以前の僕が好んで伸ばしていたのか定かでないが、前髪が目に掛かりそうなほどの長さで鬱陶しい。肩につく後ろ髪をダッカールで纏め上げて、鏡を見る。
紺青の双眸。色白の肌。何度見ても慣れない、思い出す兆しもない、自分の顔。どこの誰なんだ、お前は。胸の内だけに留めた虚しい独り言は、洗顔した水と一緒に流した。

今朝のスープは、葉野菜と卵。ブロックの干し肉を削り出汁をとって、ライムグリーンの薄い葉を千切って落とし込む。葉の色に鮮やかさが増す頃、溶いた卵を細く、ゆっくり注いで、火を止める。味付けは塩胡椒のみ。素材の味を楽しむスープ。付け合わせのヨーグルトには、茶葉の「瑠璃蝶」を混ぜて、爽やかな青に。こうして、僕の一日が始まる。

冬靄の街を受け持つようになって以来、この街に、この森にある色んな植物や鉱石、動物に触れて来た。
失くした記憶は、その枝分かれしている神経をざわめかせることで思い出すこともあるらしいが、今は兎に角「知ること」が先決だと思った。
何かを突き詰めたその先に、もしかしたらここに辿り着いた意味や理由を見い出せるのかもしれない。記憶の片隅に過ぎる、誰かを思い出せるかもしれない、と。そう、思ったんだ。

 

 

家事を終え、ログハウスを出た僕が向かったのはすぐ近くの川辺。特にこれと言うことは何もない。ただ澄んだ川の水がせせらぎと共に流れ行く様と、時々聴こえる鳥の鳴き声。この静かな情景が、より自分の心を穏やかにしてくれるから、よくここに座って、川を眺めている。

“雨だけの街”区長に頂いたルーン鉱石のペンダントを見下ろした。ニイドとは、必要と欠乏を意味するルーンで、特にネガティブな面が強いらしいが、大切なものを守る力があるらしい。

「大切なもの…か」

僕が守りたかった大切なものって、なんだったんだろうな。出来ることなら、その大切なものを庇って今に至るような英雄の代名詞であって欲しいけれど、何も持っていない僕なんかには不相応だな、と自嘲した。

川辺に群れを生して咲く「雨唄の花」が蕾を開いている。雨が降るのか。今日も今日とて、明けきらない朝を過ぎて、まだ昼時だと言うのに空は夕闇を迎えそうだ。僕は洗濯物を取り込んで、綿を取り出すために乾燥させておいた植物をリビングに移した。これの名前はまだ知らない。

作り置きしておいた芋のポタージュを温めて、マグに注ぐ。なんとなく今日は、あれやこれをやる気分にはなれなくて、かと言って家の中にいたいわけでもなく、落ち着ける場所を求めた結果、灯台に移動した。輝きを増した「月の欠片」が、「おかえり」と迎えてくれている気がした。

名前さえも思い出せやしないなんて、こんなに空っぽなことなんてあるんだろうか。
それでも区長は、僕にこの街と、“no.10”“ニイド”の鉱石を与えてくれた。
いつかあるべき僕自身を取り戻せるのか、はたまた、新たなこの地で再出発する方針に振り切るのか。それもいいなと頭半分では思っていても、心が頷ける答えはまだ、出ていない。

立てた膝に伸ばした腕を乗せて、珍しく首から外したペンダントを指先で揺らしながらぼんやり考えていたその刹那、白い影が僕の手元を掠めて飛び去った。何が起きたのか解らない僕は小さな悲鳴と共に後ろへ転ぶように飛び退いて、跳ね上がる心臓を押さえながら辺りを見回すと、頭上から間の抜けた「カァ」という鳴き声がした。
見上げると、白い鴉が木に留まっている。なんだよ、驚かせやがって…と胸を撫でるのも束の間、彼の狙いは僕のペンダントだったらしい。嘴が捕らえた革紐の先には、確かにルーン鉱石が煌めいている。身体中が緊張で冷えるのと同時に、白い鴉はペンダントを咥えたまま飛び立った。この鴉との攻防戦は、数時間に及んだ。

 


 

黒い街を白い靄が覆う。
僕がログハウスに戻った頃、雨は止んでいたけれど、鴉に奪われたペンダントを取り戻すべく全力疾走をしていたら日中の雨に降られ、すっかり冷え切った身体をいつもより熱めのバスタブに沈めていた。ペンダントは着けたまま。炯眼の白鴉が声高に嗤う。
誰のせいでこうなってると思ってるんだ。悪態を吐けば、いいものをくれてやっただろう、と悪びれる様子はない。

確かに、いいものは貰った。分けて貰った彼の羽を相性の良い石と加工して、頭か耳に着ける装飾品を作り出すことが出来れば、僕の左耳の聴力の手助けになれる、と云う。

「それを伝えるためだけに、あそこまで逃げ回ったのか」
「否、必死に追い掛けて来る御前が面白くて、ついな」

喉でくつくつと笑われて、余計に腹立たしかった。

「そう云えば、忘れ物をしてや居ないか?」
「え?」

 

 

白鴉に言われて、灯台へ戻った。卓上に置きっぱなしのマグを遠目に見付けて、事の発端を思い出す。取ってくださいと言わんばかりに、指先でペンダントを振り回していたのは、僕だったな。
溜め息と共に辿り着くと、マグの隣に煌めく細長い何かを見つけた。背後で鳥の羽音が聞こえて、姿を確認する前に素早くそれを回収する。

月の欠片の明かりに優しく照らし出されたそれは、白金に輝き、角度を変えると淡い青やピンクにも煌めいてはまた白を取り戻す、全面が真珠層の栞。施されたシンプルな細工は、手に取る誰からもきっと愛されるであろうデザイン。
指紋をつけることも忍ばれるような美しさに、まじまじと見詰めては、吐息をもかけまいと気遣うほど、洗練された螺鈿細工に惚れ惚れしていた。

きれいだ、と。稚拙な感想しか出ない自分の語彙力に嫌気がさしながら、けれども、うつくしい。これに尽きる。

鴉に取られまいと胸に押し当てながら、一体誰が、と周りを見回すが、近くに物音や気配はない。置いて去って行った、誰かがこの街に来てくれたことが、奇跡のように思えた。

「四番街へ往け、ニイド」

鴉の声に、振り返る。

「ニイド?…ああ、この鉱石のことか?」
「どうせ名乗る名前も無いんだろう?」

図星だった。

ここに来てからというもの、色んな動植物と触れ合うことはあっても、他に喋る相手が居らず、名前を掲げる意識もなかった。“no.10”と名乗るには機械的過ぎるか。でも、“ニイド”なら──まるで今の僕を表しているようなそれなら、いいかもな。

何より、この栞をくれた誰かに逢いたい。感謝を伝えたい。考えたこともなかったけれど、四番街──もしかして、僕と同じような境遇の人が近くにいるかもしれない、ということか?

「“二十五の真祖が訪れ、百の眷属を産む”」

小馬鹿にするような声色が凛としたそれに急変して、僕は思わず白鴉を見た。

「どういう意味だ?」

聞き返せば、また間の抜けた「カァ」とだけ残して、宵闇へ飛び去って行ってしまった。

解らないことだらけだ、この街も、僕自身のことも。
それでも、全ての意味が、これから起こり得る事象のひとつひとつ、点と点が線を結ぶように、答えに辿り着けるかもしれない。

僕は、十番街、冬靄の街の守人──ニイド。
いつか逢えた時には、そう名乗ろう。
氷のように冷たいマグを片手に、白銀に誇る螺鈿細工の栞を黒い空に掲げる。月の欠片が乱反射して、光が零れ落ちる。これは僕の街が作る光とは、全く違う輝き。

「でも」「なんでだろう、落ち着くほどに」「うつくしいな」

決意と約束の余韻を肺いっぱいに吸い込んで、待ち遠しい夜明けと、まだ知らぬ四番街に思いを馳せた。

 

✻✻✻

 

 

4番街、雨露の街のアンスールさんが遊びに来てくれた、その日のニイドsideです。ぜひ、併せてお楽しみください。

 

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