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南米はいかにしてナチスの巣窟となったか

(ラットラインは重要項目:フランク)
午前9:46 · 2024年1月19日 CHRISTOPHER KLEIN
https://www.history.com/news/how-south-america-became-a-nazi-haven

第二次世界大戦後、多くのナチス戦犯が
身分を変えて大西洋を渡って逃亡した。
捕らえられ、裁判にかけられたのはごく一部だった。

第二次世界大戦でドイツが敗戦し、
ナチスの 戦争残虐行為の大きさが世界に明らかになった後、
党のエリートの多く、
特にホロコーストの死のキャンプの首謀者たちは、
姿を消す必要があることを知っていた。

友好的な政府、さらにはカトリック教会からの援助を受けて、
何千人ものSS隊員が身分を変え、
静かに南米に逃れ、新しい生活を始めた。
ある者は捕まり逃れたが、
ある者は追跡され、裁判にかけられた。

アドルフ・アイヒマン Adolf Eichmann
「リカルド・クレメント」の偽名で交付されたアイヒマンの赤十字渡航証

「リカルド・クレメント」は後者の一人だった。
1960年5月11日、メルセデス・ベンツの自動車工場で
組立ラインの主任として勤務を終えた彼がバスから降りると、
アルゼンチンの空に稲妻が走った。

ブエノスアイレス郊外の中流階級にある
レンガ造りの小さな家に向かう途中、
運転手と2人の男が黒いビュイック・リムジンのボンネットを開けて
作業しているところを通りかかった。
突然、クレメントは男たちにつかまれ、
蹴飛ばされながら車の後部座席に引きずり込まれ、
夜の街へと走り去っていった。

拉致に関わった全員が、欺瞞のゲームを演じていたのだ。
クレメントの正体は
アドルフ・アイヒマンで、
ヨーロッパのユダヤ人を強制収容所に移送する指揮を執った
悪名高いナチス親衛隊の中佐だった。
そして、リムジンに乗っていた男たちは
イスラエルのシークレットサービスの諜報員で、
国際的な裁きを受けさせるために
元ナチス親衛隊の高官を追跡する
ナチ・ハンターのエリート・チームの一員だった。

第三帝国崩壊後、
南米に亡命したナチスはアイヒマンだけではない。
2012年の『 デイリー・メール』紙の記事によると、
ブラジルとチリの秘密ファイルを調査したドイツの検察当局は、
9000人ものナチス将校や他国の協力者が
ヨーロッパから逃れて南米諸国に聖域を求めたことを突き止めた。

ブラジルは1,500人から2,000人のナチス戦犯を受け入れ、
チリには500人から1,000人が落ち着いた。
しかし、圧倒的に多かったのはアルゼンチンで、
その数は5,000人にも上った。

アルゼンチン、元ナチスをヨーロッパから密入国させる「ラットライン」を設置

ラットライン
ラットライン(ドイツ語:Rattenlinien)は、第二次世界大戦後の1945年以降、
ヨーロッパから逃れたドイツのナチスやその他のファシストのための
脱出ルートのシステムでした。主なルートは2つあり、1つ目はドイツからスペイン、次にアルゼンチンです。2番目はドイツからローマ、次にジェノヴァ、そして南アメリカへ。2つのルートは独立して発展しましたが、最終的には一緒になりました。
アルゼンチンとのつながり
ファンPerón § アルゼンチンのユダヤ人そしてドイツのコミュニティ
フィンランドのラットライン
詳細は「フィンランドにおける親ドイツ抵抗運動」を参照
オデッサとゲーレン・オーガニゼーション
詳細は「ODESSA」を参照

アルゼンチンには何十万人ものドイツ系移民が住んでいたため、
アルゼンチンはドイツと緊密な関係を保ち、
第二次世界大戦の大半は中立を保っていた。
終戦後の数年間、アルゼンチンのフアン・ペロン大統領は
外交官や諜報部員に密かに命じて、
スペインとイタリアの港を経由するいわゆる
「ラットライン」と呼ばれる逃走ルートを設けさせ、
何千人もの元ナチス親衛隊将校やナチス党員を
ヨーロッパから密航させた。

他の多くのファシスト寄りの南米の指導者と同様に、
ペロンも第二次世界大戦初期に
イタリアで軍事担当官を務めていたときに、
ベニート・ムッソリーニとアドルフ・ヒトラーのイデオロギーに
惹かれていた。
アルゼンチン大統領はまた、
自国を助けることができると信じて、
軍事的、科学的、技術的な専門知識を持つ
ナチスをリクルートしようとした。
これは、冷戦時代に第三帝国から科学者を引き抜いて
自国を援助したアメリカとソ連のようなものである。

1946年、ペロン政権は
アルゼンチンのアントニオ・カジアーノ枢機卿を通じて、
アルゼンチンが戦争犯罪で訴追される可能性のある
フランスからのナチス協力者を受け入れる用意があることを
フランス側に伝えた。

ウキ・ゴニ Uki Goñi

The Real Odessa: Smuggling the Nazis to Perón's Argentina』
の著者であるウキ・ゴニによれば、
その年の春、国際赤十字が発行したパスポートに
アルゼンチンの観光ビザのスタンプを押した
フランス人戦犯が大西洋を渡り始めたという。

バチカン聖職者が元ナチス支援に一役買う

アロイス・カール・フーダル Alois Karl Hudal

戦後、ヨーロッパ全土で共産主義政権が台頭する中、
カトリック難民を支援しようとしたバチカンの多くの当局者は、
知らず知らずのうちにナチス戦犯の逃亡を手助けしていた。
しかし、アロイス・フダル司教のような一部の聖職者は、
自分たちの行動を十分に理解した上でそれを行った。

ゴーニによれば、
フダルはオーストリア生まれのヒトラー崇拝者で、
ローマで捕虜の司祭をしていたが、
ナチスの戦犯を幇助したことを認めた。
具体的には、バチカン発行の偽の身分証明書を彼らに提供し、
それを使って国際赤十字からパスポートを入手した。

フダルはまた、
アイヒマンにアルゼンチンのビザを与え、
彼の偽造赤十字パスポートの申請書に署名した
イタリアのジェノヴァのフランシスコ会修道士を援助した。
その文書によって、彼は
1950年にリカルド・クレメントという仮の身分で
ブエノスアイレス行きの蒸気船に乗ることができた。

2012年に南米のファイルを調査したドイツの弁護団は
『デイリー・メール』紙に、
南米大陸に入国したほとんどのナチスは
偽造赤十字パスポートを使っており、
その中にはアルゼンチンに旅行した
800人のSSメンバーも含まれていると語った。

捕まらないナチスもいた

南米に逃亡したナチスの多くが裁かれることはなかった。
少なくとも10万人を殺した移動式ガス室を作った
SS大佐ヴァルター・ラウフは、1984年にチリで死んだ。
リガの虐殺者」エドゥアルド・ロッシュマンは
1977年にパラグアイで死亡。
「野獣」として知られたSS将校グスタフ・ワグナーは、
書類上の不正確さを理由に同国の最高連邦裁判所が
ドイツへの身柄引き渡しを拒否した後、
1980年にブラジルで死亡した。

ナチスの大量殺人者アドルフ・アイヒマンを逮捕したイスラエルの大胆なスパイ作戦

ホロコーストの首謀者アイヒマンは、
第二次世界大戦後、南米に逃亡した。
イスラエルのシークレットサービスは、
アイヒマンを根絶やしにし、罪を償わせようと決心していた。

ニュルンベルク裁判についてあなたが知らない10のこと

ニュルンベルク裁判の被告席
(前列奥からヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘス、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、
ヴィルヘルム・カイテル、
後列奥からカール・デーニッツ、エーリヒ・レーダー、バルドゥール・フォン・シーラッハ、
フリッツ・ザウケル)

第二次世界大戦後の裁判は、
ジェノサイドと人道に対する罪に対する史上初の訴追となった。

ヨーゼフ・メンゲレ Josef Mengele
南米潜伏中のメンゲレ(1956年撮影)
アウシュヴィッツ強制収容所にて撮影
(左からリヒャルト・ベーア、ヨーゼフ・メンゲレ、ルドルフ・フェルディナント・ヘス)

逃亡者の中で最も悪名高いのは、
アウシュビッツ強制収容所で不気味な実験を行った、
いわゆる "死の天使"ヨーゼフ・メンゲレ博士であろう。
彼は1949年にアルゼンチンに逃亡し、1959年にパラグアイ、
1年後にブラジルに移った。
1979年にブラジルの海岸で溺死した後、
偽名で埋葬されたメンゲレは、
1985年に遺体の法医学的検査を受けて初めて身元が確認された。

ニコラウス・“クラウス”・バルビー Nikolaus 'Klaus' Barbie

場合によっては、アメリカは
ナチス戦犯の南米への流出に加担した。

戦後、アメリカの防諜部隊は、
フランスのリヨンのゲシュタポ長官であり、
何千人ものフランス人ユダヤ人や
フランス人レジスタンスメンバーの死に関与した
クラウス・バービーを、
反共産主義活動を支援する諜報員としてスカウトした。

彼はボリビアに密航し、そこでスパイ活動を続け、
軍事政権に政敵の拷問や尋問の方法を指導した。

いわゆる "リヨンの虐殺者 "は、
1983年にようやく身柄引き渡しに直面し、
人道に対する罪で有罪判決を受け、終身刑を言い渡された。
バービーは南米に逃亡した数少ないナチスの一人となったが、
結局は正義から逃れることはできなかった。
アイヒマンもまた、イスラエルの裁判所によって
人道に対する罪で有罪判決を受け、1962年に処刑された。

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