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ともに読む、ひとりで書く、そしてフィールドワーク

いい読書会に参加させてもらったな、と思った。

記録

昨年10月からの半年間ほど、第2期生として参加したメッシュワークゼミ「人類学的な参与観察によって問いをアップデートするトレーニング」。第3期がすでに始動していて、今期はオンラインでのディスカッションに1・2期生が交代でオブサーバとして参加するという試みが取り入れられている。

今回(9/14土)は「課題図書のディスカッション」の前半ということで、『人類学とは何か』(ティム・インゴルド 著)と、『フィールドワークへの挑戦』(菅原和孝 編)の前半を題材にディスカッションが行われた。

2024/09/14土 13:00-17:00@zoom
参加者:7名(比嘉さん、3期生4名、2期生2名)

ゼミに向けて、自分たちも読んだこの2冊を久しぶりに開いてみたら、こんなことが書いてあったのか、という驚きがいくつもあった。3期生のみなさんはどんなふうに読んでいるだろうか。オブサーバとして、自分なりに受け止めて、それに対して何かを返すことができたら、という期待を持って参加させてもらった。以下、その記録。
(今回のディスカッションで、ある方の、一冊を通した全体的な感想から入り、その後に個別の箇所についての意見や疑問点を述べる、というスタイルがいいなと思ったので、この記事の構成はそれを真似てみることにする。)

0. 「ともに読む」から感じたこと

課題図書のディスカッションを通して何よりも印象的だったのは、3期生のみなさんの真剣さ、学ぶことへの真摯さだった。

「よくわからなかった」ということを素直に表明しつつも、「どうわかろうとしたか」を言葉にしてみる。自分自身の経験や関心に引き付けて読むことによって理解の緒をつかもうとする。ここで述べられていることを踏まえると、もしこの著者にこんな質問をしたらどう答えるだろうか、という問いを共有してみる。読みながら生まれた思考の連なりのようなものを言葉にしようとして、やはりまとまらない…と途中で口をつぐむ。

人類学という世界に足を踏み入れたいち読者として、その世界の先達であるそれぞれの著者とまっすぐ向き合う。そういう姿勢に、「テキストを読むということは、その著者と対話すること」なのだと実感させられるとともに、とても前向きな切実さのようなものを感じた。各々の切実さは、絡まり合ってゼミの場にある種の緊張感を生む。そしてその緊張感は、それぞれがまもなく踏み出していく「フィールドワークの実践」に向けられている、ように感じられた。

同じテキストから自分なりの関心を拾い上げること。ほかのゼミ生たちの関心への関心を持つこと。関心の対象の、周縁や背後にあるものへの想像力をはたらかせること。課題図書の「精読」やディスカッションを通して、そうした試行が重なり合う。

このような営みは、著者や「ともに読む人」という「他者」をわかろうとする行為として、またその過程で自分の内側に「他者性」を見出す体験として、「フィールドワーク」と地続きだと思う。と同時に、読書というありふれた行為として捉えれば、「日常生活」の一部でもある。このことは、ディスカッションの中で投げかけられた、「フィールドと日常生活の往還」や「人類学の学びと日常における他者とのかかわりとのすり合わせ」といったテーマへの、ひとつの応答になるかもしれない。

一人ひとりからにじみ出る前向きな切実さや、それがもたらす場の緊張感に触れ、その最中にいる3期生のみなさんに羨ましさを覚えた。同時に、自分自身もまた違う形でこのメッシュワークゼミに帰ってくることができて、いろんなものを受け取ることができたことを、とても嬉しく思った。

1. 浮かび上がってきた問い

「フィールドと日常」のほかにも、今回のディスカッションの中には印象に残った問い・テーマが多くあった。

  • 人類学の価値を、人類学に馴染みのない人たちにどう説明すればいいか。
    (人類学を形式知化することは可能か。人類学は「方法論」ではない?)

  • インゴルドの言う、「ともにする哲学」とはどういうことか。人類学は哲学なのか。

  • 人類学とアート(芸術)にはどんな類似性や差異があるのか。

  • 記述することで自分のフィルターを通して「事実」を歪めてしまうかもしれないという恐れとどう向き合うべきか。
    (→比嘉さん:その考えには客観的な「事実」なるものが存在するという前提がある。フィールドワークは、ファクトよりリアリティをつかみにいく、という感覚。こういう関わり方とプロセスによってこれが書かれている、ということを示せば、後の人がフォローできる。自分を透明化しようとしてはいけない。)

  • フィールドワークで得たデータを取捨選択する怖さとどう向き合えばよいか。(何かを切り捨てる自分は何様なんだ、というセルフつっこみにどう対処すればよいか。)

  • (非言語などの)「弱いC(コミュニケーション)」について。
    (→比嘉さん:霊長類研究者は徹底的な観察から霊長類の社会性など複雑な内容を論じる。彼らからは「人類学者はインタビューができていいよな」と言われる。)

いずれも、普遍性を持った、明確な答えのない問い・テーマだと思う。時間を置いて改めて向き合うと、また違ったものが見えてきそう。

これらのうち、方法vs方法論、「ともにする」の意味、人類学とアート(vs科学)、事実vs「真実」といったテーマが、インゴルドの講演で語られている。ほかにも彼の様々な著作で論じられている内容が凝縮されているので、ぜひ多くの人に観てほしい。
(実は謎の使命感に駆り立てられて自分で日本語訳を作ろうと着手してからはや数ヶ月。自動翻訳でだいたいの意味はつかめるが不十分な部分も多いので、ちゃんとした訳とともに多くの人に触れてほしい、という思いが今回のディスカッションで改めて湧いてきたので、なんとか近いうちに…)

2. その人の発露

ほかにも、上に挙げたような問い・テーマとはまた少し違った質感を伴って印象に残った場面(発言)がいくつかあった。

  • パウル・クレーを引きながら人類学とアートの役割は同じだと論じられている部分を読んで「気持ちがキラキラした」。

  • 「文化の盗用」について気になっている。マオリの神聖なチャントをサンプリングしてK-POPに使った事例が話題になっていた。

  • 石に命はないと言う子供に、あるかもしれないと(信仰的に?)説くことと、石に命があると信じる人々に、そんなものはないと(科学的に)説くことは同列なんじゃないか。

「少し違った質感」というのはとてもあいまいな表現だが、もう少しはっきり言葉にするなら、より「個人的なこと」ということかもしれない。個人的な、その人ならではの感覚や視点、発想、連想。そういうものが、グループでのディスカッションのふとした拍子に表出することがある。

なかなかわからないテキストを、冷静に、論理的に読み進めていた中で、ある一節に「気持ちがキラキラした」という感覚的な体験をする。ディスカッションの流れから少し逸れてしまうことを気にかけながらも、連想されてしまった「文化の盗用」というテーマ(に関する象徴的な事例)について話をしたくなる。

このような、もしかしたら本人も予期していなかったような、何かが「発露」する、あるいは何かに「触発」されるような場面に立ち会うことは、いつだって楽しい。これは、人類学的なフィールドワークの面白さにも通ずるものだと思っている。メッシュワークゼミでよく言われる「旗を立てる」に対して、「旗が立つ」(あるいは「立っていた旗に気づく」)瞬間とでも言えようか。

3. 書くことについて

人類学的なフィールドワークの実践において書くという作業がいかに重要か、といった文脈で、比嘉さんから次のような話があった。

人には、分析や編集をするからちゃんと思考する、という側面がある。だから(フィールドワークで得た)データを自分の中にいったん取り込んで、そこから何かを取り出していくという作業が必要。

フィールドワークと一対になっている「ホームワーク」(デスクワーク)、その中でも特に、自らの手で書くということ。直接的な「データ」になる記録としてのフィールドノートに加えて、フィールドとホームの往復の中で、そのときどきの「work in progress」をある程度のまとまりのある文章にしておくこと。そういった作業を通して思考は進んでいく。
「現役生」のときの自分は、おすすめされていたnoteでの記録にどうしても手を伸ばせず、半年のゼミ期間を振り返る終了報告レポートを書いてみてようやくそのことが体感できた。(その反省からようやくnoteを始めてみた。)

このような書くことの重要性は、「思考」を「観察」に置き換えて語ることもできるように思う。フィールドノートの大部分は「参与観察」に基づいて記される。観察は、「観察の最中」に完結するものではなく、その記録をつけることで、記録された内容や記録の過程で頭の中に再生されたものが「観察されたことになる」というような性質を持っていると思う。少し言い方を換えれば、観察するから記録できる(書ける)というよりも実は、書くから観察できる(できていたことになるし、よりできるようになっていく)んじゃないか。
メッシュワークゼミを経験し、その後も自分なりの実践を続けている中で、そんな実感を持ちつつある。

ではどうすれば書けるのか。これについては人類学の偉大な先達であるレヴィ=ストロースの言葉がとても参考になった。3期生の中にはすでに着々とnoteを更新している方も何人かいらっしゃるようなので、かれらからの刺激とともに、誰かの背中を押してくれたら嬉しい。

一言でいえば、とにかくまずは一気に書け(読み返したり直すことを考えたりしない)ということ。(このアドバイスはいろんなところで見かけるので、機会があれば別途まとめてみたいと思っているが、一気に書けるだろうか。)

余談

最後に、箇条書き的にでも書き残しておきたいと思ったあれこれ。

  • ディスカッション自体は1冊ずつでも、事前課題として2冊を読んでくると、2冊を対比したり類似性を見出せる、いわば「立体的」に読むことができていいなと思った。(人類学は哲学なの?生き方なの?とか。)

  • 誰かのふとしたアウトプットがほかの人にとって大切なインプットになる。そういう連鎖が、豊かな学びの場をつくっていくのだな(=メッシュワークゼミっていいな)と改めて思った。

  • オブサーバという立場で参加すると、一歩引いて落ち着いてディスカッションを追うことができてとても充実感があった(ディスカッションに参加していると実は人の話があまり聴けていない、という反省でもある)。

  • その反面、この文章を書いていると、ディスカッション中に取ったメモが自分の言いたいことの材料集めだったように思えてくる部分もあり、やはり結局は「自分の見たいように見ている(聴きたいように聴いている)」という自覚を忘れてはいけないと思った。

  • 今回のディスカッションの中で比嘉さんが「人類学的な知を立ち上げていく」という表現を繰り返し使っていたのが印象的だった。(「立ち上げていく」という表現からは、己一人で成し得ることではないというニュアンスが感じられる。)

  • 「マリノフスキ(次回の課題図書)は全部を精読できなくてもいい。でも彼が描こうとした、彼が捉えた「全体像」を理解しようとすることは重要。」という比嘉さんの言葉を聞いて、1年前には全然読めなかったあの一冊にももう一度向き合ってみようと思った。

  • 「なんだってずっとwork in progressだからねー」といつもの調子でさらっと核心を突く比嘉さんfromアムステルダム。

  • エドワード・ホッパー、いいよなあ。全然知らなかったけど、ニューヨークで彼の展示に行けてよかった。

このカフェの特等席はここなのではと思うほど幸せな焙煎の香りが漂う駐輪スペース。
ゼミ前日、ここの店内で隣の席に座った人が今回の課題図書2冊をテーブルに置いていて、思わず話しかけてしまったところ案の定3期生の方(はじめまして)だったという小さな奇跡が起きた(→サムネイルの写真)。


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