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科学と聖書にまつわる随想(10)

「虹の7色」

 太陽光のスペクトルと人間の目の視感度のスペクトルのグラフは、どちらも500nmほどの波長(緑色の光)のあたりにピークがあって形が似ています。進化論者はこれを、人間の目が太陽光のスペクトルに合わせて進化してきたからだ、と言って片付けます。しかし、だとすれば、植物の葉が緑色なのはどうしてでしょうか? 緑色に見えるということは、波長500nm付近の緑色の光を良く反射しているということです。光合成のためには光を吸収する必要があるのに、一番強いところの波長の光を反射してしまうという、そんなもったいないことをするように、どうして進化したのでしょうか?

 人間の目には光の波長によって色が違って見えます。色の区分け方はいろいろあり得ますが、波長が短い方から順におおよそ、紫・青・水色・緑・黄色・橙色・赤・茶色のように並んでいます。どうして波長の違いでこのように色が違って見えるのかも、考えてみれば不思議です。波長が違うということは光子(photon)のエネルギーが異なるということですので、それが目に入射した時に、網膜の細胞の刺激の受け方が異なるので、それが色の違いとして認識される、というメカニズムは理解できます。しかし問題は、その刺激の違いと認識される色との対応関係がどのようにして決まるのか、ということです。

 RGB(赤・緑・青)が光の三原色ということはよく知られています。 赤・緑・青は、それぞれ波長が異なるので、それぞれの強度の配分を調節すれば、三つを重ね合わせて合成したスペクトルのグラフの形を様々に変えることができる、ということは理屈では理解できます。赤と緑を合成すれば、その中間的な波長の黄色のところにピークができ、青と緑を合成すれば、その中間的な水色に見えることも頷けます。しかしそれでは、赤と青を合成すると紫に見えるのはどうしてでしょう? 赤は青より波長が長く、紫は青より波長の短い光です。ちなみに、もっと波長が短いのが紫外線です。ひょっとすると、単色光(特定の波長だけの光)といくつかの波長が混じった光とでは、視神経の刺激に対する感じ方が異なるのかも知れません。気体放電の発光スペクトルを観察していると、分光器で測定したスペクトルのグラフ形状はほとんど同じなのに、目で見ると明らかに色が違って見える、ということをしばしば経験します。人間の感覚は、物理的な要素だけでは説明の困難な何かを持っているように思えてなりません。

 電気工学・電子工学の分野では、素子のパラメータ(特に、抵抗器の抵抗値)の数値を色を使って表現します。0は黒、1は茶色、2は赤、3はオレンジ、4は黄色、5は緑、6は青、7は紫、8は灰色、9は白です。色を3つ並べて、最初の2つの色で2桁の有効数字を、3つ目の色でその後に続く0の数を表します。これをカラーコードと呼び、日本だけでなく世界で共通の約束になっています。カラーコードの色と数字との対応については、1~7は虹の7色を外側から並べた順番になっていることに気付きます。残りの3つについては、0は何も無いということで“黒”が相応しい気がしますし、9は一番大きい数字なので、R・G・Bがそれぞれ目いっぱい大きくなって“白”、8はそれに少し足りないので“灰色”、と考えれば、なんとなく全部が合理的に並んでいるように思えます。ちなみに、太陽光のスペクトルを7色に区分したのはニュートンだそうです。日本人も虹は7色と一般にいいますが、どういう訳か欧米ではもっと大雑把な分け方をするらしいです。抵抗のカラーコードは世界共通なのに、なんだか不思議な気がします。

 聖書では、“虹”は“契約”のしるしとして登場します。

「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。」

(創世記9:13 )

虹を見て“創造主”との“契約”を思い起こす、ということが私たちに求められているのだと思います。虹を見た時、誰しもが先ず思うことは「美しい」ということではないでしょうか。創造の初めの、まだ“契約”の破られていない「すべてが良かった」という時のことを想像してみなさい、ということだと思います。

 虹にしても、絵画にしても、様々に咲く花にしても、鮮やかな色彩を纏ったものを見て、どうして私たちは「美しい」と感じるのでしょうか? 色彩と同様に、均整のとれた形や秩序の正しい配列、などにも美しさを感じます。筆者が思うに、要するにこれらは全て“創造主”の持つ属性であるが故に、私たちにはそこへの回帰本能がある、ということではないでしょうか。“創造主”の属性を表現するキーワードとして他には、「聖」「義」「愛」などが挙げられるでしょう。

「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。」

(レビ記19:2 )

「私が呼ぶとき 答えてください。 私の義なる神。」

(詩篇4:1)

「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」

(ヨハネの手紙第一4:8 )

 虹には、よく見ると外側に“副虹”が見える場合があります。副虹も美しくはあるのですが、色の並びが主虹とは逆になっています。主虹は、雨滴の中で光が1回反射してできるのに対し、副虹は2回反射してできるのがその理由ですが、なんだか主虹に逆らっているようで、天邪鬼な気がします。ちなみに、“創造主”に逆らった御使いがサタンです。

「しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。」

(コリント人への手紙第二11:14 )

美しさへの憧れは大事ですが、よくよく気を付ける必要もあるようです。


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