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第一回目モデルナワクチン接種

 太平洋戦争の末期、フィリピンのジャングルに取り残された旧日本兵の間で、「海軍の救援部隊が潜水艦で自分達を助けに来る」という流言が発生したという。その噂を信じて海岸線を目指し、二度と帰ってこなかった兵も居たという。もちろん、現実にはそんな計画など存在しない。極限状態に置かれた人間が抱く集団幻想であった。
 八月中旬を過ぎると、ワクチンの供給に関する明るい情報が、マスメディアから流れてきた。八月第四週、二十三日を過ぎると日本国内にワクチンが大量に流通し始めるから、現時点で問題となっているワクチン不足の状況は、一挙に解消されるであろうと。
 本当か? 本当にそんなに物事が都合良く進むものか? 自分は半信半疑であった。どんな物事も、過剰に期待し過ぎると、裏切られた時の失望も大きい。この情報が事実であるのかどうか、確かめる手段が自分には何もない。ポジティブな内容を伝える一連の報道に対し、静観し慎重な態度で構えていた。ワクチンに関する情報が、旧日本軍の潜水艦幻想と同種のものではないという保障は、どこにもなかった。
 
 報道の通りであった。八月二十日の午前、シフトや勤怠を管理している雇用先の担当社員から、一通のメールが届いた。八月二十三日から、職域接種の予約受付が始まるので、希望者はサイトにアクセスして、各自で申し込むようにとの内容だった。ワクチンの種別は、モデルナだった。
 現在日本で行われている職域接種に対して、自分はどちらかと言うと懐疑的な見解を持っていたが、止むを得ず、この接種会場に申し込むこととした。ご都合主義であり、言行不一致の軽薄な人間になったような気がしたが、他にワクチンを得られる当てもなかった。現在住んでいる自治体の、全く機能していないワクチン予約システムには、とにかく愛想が尽きていた。今回のワクチン騒動で、この自治体はもう嫌だ、嫌で嫌でたまらないという思いが強くなり、いつか必ず引っ越してやると、心に決めていた。
 また同日、千葉真一の死去が報じられた。死因はコロナ、ワクチンは未接種とのことだった。コロナで死んだ芸能人としては、二〇二〇年春の志村けんに次ぐ大物であったが、二〇二一年夏の日本においては、そこまで大騒ぎにはならなかった。コロナ死が身近なものとなり、皆その現実をある程度受入れ、慣れつつあった。
 
 説明によると、この職域接種は、職場で行うものではなく、雇用先が加入している健康保険組合が実施するものとのことだった。接種会場は、市ヶ谷と溜池山王の二ヵ所から選択可能となっていた。 二十三日、仕事の休憩時間に私物の携帯端末からサイトを開き、予約をした。必要な情報をフォームに入力し、リロードを繰り返しつつ申し込みを試みた結果、九月二日午前、市ヶ谷会場の予約枠を確保する事が出来た。市ヶ谷会場と言う呼称だが、その接種会場の最寄り駅は、市ヶ谷ではなかった。都営新宿線の曙橋と、都営大江戸線の牛込柳町の丁度中間ぐらいに位置していた。
 
 二十五日、その社員から再びメールが来た。現時点でのワクチン予約状況、接種状況を報告するように指示されたので、そうした。シフトを調整し、接種当日とその後数日間は休日にしてくれた。


 ワクチン接種に備え、前日から禁酒した。予診票を記入した。


 
 九月二日午前、東京都新宿区、雨。
 曙橋駅頭の周辺地図で、会場の大体の場所を確認し、外苑東通りを北に向かう。通りの向こう側は、自衛隊の市ヶ谷駐屯地となっていて、通信塔が目を引く。その敷地に隣接して、タワーマンションが建っている。通信塔とタワマンを仰ぎ見ながら、秋雨によって少し暗色に塗られた幹線道路を歩いて行った。






 会場の近くには、薬王寺町という都バスのバス停がある。交差点の名称も同様であり、何だか、いかにも、ワクチン接種に相応しい場所だと感じる。
 接種会場に入る。建物内には多人数の係員が死角なく配置されている。係員の性別、年齢は様々であり、特に統一されていない。医療従事者ではないようだ。そのひたすら丁寧、低姿勢な誘導に従い進む。来場者の動線は完璧に無駄なく設計されており、迷う余地がない。
 健康保険証を提示し、表面のQRコードを読み込み、本人確認を行う。接種券を提示し、事前に記入した予診票の記載事項を確認する。体温を図り、医師より型通りの問診を受け、接種同意欄に署名を行う。全ての事務が完全に定型化され、滞りなく流れ作業で処理されていく。……日本においてワクチン接種が開始されてから、既に数カ月が経っている。一連のオペレーションがカイゼンを重ねてきた結果だろう。
 
 トレーの上に、注射器を何本か並べた医師が待機している。左肩を出して医師の側に向け、力を抜いてその時を待つ。アルコールが塗られる。少しの間、痛みが走り、すぐに消える。針が刺さる瞬間は、直視できなかった。
 注射跡に厚みのあるバンソウコウが当てられ、上から医療用テープで頑丈に固定される。しばらくしたら、剝がしてよいとのことだった。
 異常が出ないかどうか確認するために、十五分ほど待機室にて待機するように指示されたので、従う。待機室のサイネージには、この時間を使って二回目の予約を行って下さいと告知されていたので、そうする。正確に四週間後、つまり今から二十八日後、九月三十日に、同じこの会場にて、二回目を打つこととした。
 待機時間が経過した後に、最後のブースに行き、接種完了の手続きを行う。接種券からシールを剥がし、予診票の該当欄に貼り付ける。予診票はここで回収される。その代わりに、一回目の接種が完了したことを証明する別のシールが、接種券に貼られる。この接種券は第二回目の接種の際に必要となるので、絶対に無くさないように念を押された。
 外に出ると晴れている。近くにあった、外苑東通り沿いのまいばすけっとを覗く。他の街のまいばすと比較して、特に変わった品物が売っているわけでも無い。
 都バスに乗って、外苑東通りを北に進む。左側の車窓に、現代美術家の草間彌生の美術館がある。予約制だ。
 首都圏には、自分が知っているだけでも、予約制のミュージアムが幾つかある。川崎市の藤子・F・不二雄ミュージアム、三鷹のジブリ美術館、近年開館した豊島区のトキワ荘ミュージアム。この春に開館したばかりの小田急ロマンスカーミュージアムも、予約制を取っている。これ以外にも、今回のパンデミックを受け、人数制限の観点から予約制を取ることとなった文化施設やイベントもあるだろう。
 予約手続きに煩わしさを感じ、また急な予定変更が入って、その予約が無駄になることを恐れ、自分は余り積極的に行く気にはならない。(自分が行った事があるのは藤子Fミュージアムだけだ。)
 しかし、今回は違う。四週間後には、自分は必ず、再びこの場所に戻って来る。それならば。
 自宅のパソコンから草間美術館のサイトにアクセスする。コロナ情勢を反映して、どの日、どの時間帯にも、予約人数には充分な余裕がある様子だ。ワクチン二回目接種日の午後に予約を入れ、電子チケットをスマホで撮影した。
 この日の夜に体温を測ると、三五度四分であった。ただ、この体温計は、どうも実際よりは低く測定してしまうような気がした。ワクチンの副反応はさほど無かった。翌日の夜まで、禁酒を継続した。
 


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