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他人をわかった気になるな

バカと話すのが嫌いだ。

一番腹の立つバカは、「人のことをわかった気になる」バカだ。

ある人間が、ほかの人間をたとえほんの少しでも理解できたと思った瞬間、そこにはどうしようもない思い上がりがある。

たとえどれだけ長い時間を共にしようが、言葉を交わそうが、本質的に人間が分かり合えることは絶対にない。

彼の痛みも、苦しみも、悲しみも、喜びも、何一つ我々には知りようがない。

「お前よりもつらい奴はいくらでもいる」論法を用いてうつ病の人間を追い詰める人間がこの典型だ。

この言葉には、発言者が他人のつらさというものを「わかった気になっている」という前提が存在する。

ウィトゲンシュタインの言葉を借りるのならば、我々は他人の事情という語りえぬもの、測りえぬものには沈黙するしかないのだ。

この勘違いを一番起こしやすいのが、「親」という人種だ。
親にとっての子は自分の分身であり、自分が長い時間をかけて育てた存在だ。
そのために、子供の思考回路、思っていることがわかるなどと思いあがる親が一体どれだけいることか。

子供は自分ではなく、全くの他人であるという事に気づけない親がどれだけいることか。

親に限らず、年齢が進むほど脳の中で自己中心的な一般化がすすむため、「わかっているつもり」による、無配慮で人の神経を逆撫でするような言動というものは増えていく。

これを回避して、老害化を防ぐには学び続けるしかない。
学びを捨てて、インターネットの娯楽に流されるような人間は、年齢に関係なく老害化にむかって全力疾走しているようなものだ。

読書でも、楽器でも、場合によってはゲームでもいい。
能動的に脳みそを使う事をやめた瞬間から、人間はどうしようもない「わかったつもり星人」に変貌していく。

「わかったつもり星人」だらけの地球に、嫌気がさしている。

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