リゾートバイトの思い出
店が夏休みになって子供の写真の整理をしていたらグーグルフォトのサジェストで15年前の箱根の大文字焼の写真が出てきた。
15年前、19歳だった私は花も恥じらう大学一年生だった。
高校よりも長い2か月の夏休み。といっても先立つものもなく、このままでは大学の図書館で涼み、誰かの家で酒を飲むだけで終わってしまう。
大学のPCでリゾートバイトの記事を2chか何かで読み、そのまま大学のPCを使ってリゾートバイトの派遣会社に申し込みをした。
今はどうかわからないが、当時のリゾートバイトの派遣会社は面接もなく電話で条件を言うとA4サイズで印刷された求人票を自宅に送りつけてくれた。まだガラケー時代で印刷環境やPDFの閲覧環境が個人宅には整備されていない時代だった。
「栃木県農家住み込み寮費無し」「群馬県旅館住み込み賄いつき」どの求人票にも若者が短期間働くことを前提としたもので、その世代の青年ならだれでも持ち合わせているだろう冒険心をそそる求人票ばかりだった。
「伊豆エリア観光ホテルレストランホール兼館内清掃スタッフ 海が近く休憩時間に海に行くことも可能です」少しばかりの下心を刺激される求人票を見つけて派遣会社に電話をすると無駄に声の大きい担当営業につながる。
「はい!!あー伊豆ですか!!!それ決まっちゃいましてね!!!!あー。今着なんですが。まだ出していないので海が近い!いーい!ホテルがありますよ!!!!!期間もぴったり!!んんん!!若い人も多いみたいですねええ!!!」
「じゃあそこに行きます」
いつだって世間知らずの若者はカモだ。
余談だが私はその後従事した不動産建築業の仕事で似たような人間が佃煮にするくらいたくさんいることを知った。
数日後着替えを詰めただけの小さなボストンバッグを持って箱根の温泉旅館に向かう。
初めて乗った箱根登山鉄道に揺られるうちに「海が近い」が大嘘だということに気づいた。
働くことになる旅館の前で掃除をしている高齢の従業員の方に「本日から働かせていただきます佐藤です」とご挨拶をし、帳場に案内していただく。
帳場で制服(作務衣みたいなの)の貸与と業務の説明を受ける。
業務は洗い場と男性用浴場の清掃だった。ここで私は担当営業が言っていた「レストランホール業務」が思ったより広い概念だったことを知った。
シフトはAM06:00~9:00~中抜け~PM17:00~22:00をベースに基本1時間程度残業があると説明を受ける。
「んんん!!休憩時間には海にも遊びに行けますよ!」と叫んでた営業はヘリコプターでも持っているのかもしれない。
賄いは仕出しの弁当でメニューが二種類から選べるとのことだった。担当営業が「こちらのホテルは板場がちゃんとしてますから美味しい賄いでしょうねええ!」と叫んでた記憶があるが考えるのを辞めた。
男性寮は3DKの部屋を3人で使っていた。
同室のメンバーはタイ人に貢いで会社を潰したAさん。(50代と推定)
お父さんが政治結社の代表で死んでも跡を継ぎたくなくて日本中渡り歩いてるHさん。(
40代)
だった。
「若い人も多い」と叫んでた担当営業の声が「知らない人の言うことを信じちゃいけません。」と教えてくれた母の言葉にかき消された。。
ちゃんと親の言うことを聞くべきだったかもしれない。
※Aさんはグルメで自作したマヨネーズを使ったサラダをたまに御馳走してくれた。
あと料理名のわからないタイっぽいごはんも作ってくれた。
仕事は食洗器を掛け終わった食器を種類ごとに籠に詰めて一杯になったら板場に持っていく単純作業だった。熱いの以外はなんて事の無い仕事だった。
風呂場の掃除の後は温泉に浸かって良かったので毎日温泉に入った。肌がつるつるになった。
お客さんの前に出ないホテルの下働きの仕事は単調なものであまり記憶には残っていない。
たまの休みも小田原に行く際女の子の従業員から雑誌のお使いを頼まれたくらいのもの。
それより、休憩時間にタバコを吸いながら眺めた大文字焼の風景や北京オリンピックの開会式、寮に置いてあった「国家の罠」(佐藤勝著)を何度も読み返したことが印象的だった。
北京オリンピックの前後で寮の隣の部屋に入ってきたのはご夫婦での住み込みで、非常に「ワケアリ」っぽい雰囲気が強くてなんの会話もできなかった。
世間には色々な人がいる。
帳場の女の子は元々SMクラブで働いていた(近場で飲んでた際こっそり教えてくれた。つねられたけど全然嬉しくなかった)やAさんとの入れ替わりで入ってきた元宝石屋さんもいた。
あとは早稲田を出て商社に勤めてフランス語の翻訳の資格(?)を持っている言っていた人もいた。ほんとは嘘かはわからないけど大学時代にヌーベルバーグにハマって原著を漁ったというエピソードには少し真実味があった。
こういう期間従業員が集まる所での話はその場だけでどんなに嘘っぽくても害がなければ冗談として流す心得も身に着けた。
人には本当に色々な事情があるが故にわかりやすく説明するためにペルソナを用意する大切さも知った。わかりにくい人間は打ち解けられない。
世間知らずの意識の高いだけだった大学生が人の話すことの裏表と人間関係の機微に触れて少しだけ世間を知ったつもりになって下山した。
(なおその後の人生で世間の荒波に揉まれた結果大きな勘違いだったと知った。
34歳の現在でも世間を知った気持ちにはなれない。)
19歳の8月の1か月分の給与は28万円(手取)だった。
賄いと宿代がかからなかったので稼ぎとしては悪くなかった。
派遣会社の担当に「明細を送ってください」と電話をすると死ぬほどめんどくさそうに「あーはいはい送っときます」と言われる。
繰り返しになるがその後従事した建築不動産業にて死ぬほど似たような人間を見ることになる。
15年経った今でも明細はまだ届いていない。
(派遣会社はまだ存続している。
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