影が揺れる

屋上で影が揺れている。白い雲が流れる空を背景にして佇む影は一体誰のものか。
僕はじっと見上げた。邪魔そうに僕を避けながら同じ制服を着た生徒が歩いていく。時折僕の視線を辿って見上げる人もいたが、首を傾げて立ち去る。好奇、冷徹、憐憫。向けられる視線の種類は様々で、共通しているのは良い感情が含まれていないことだけ。
慣れたものだと気にせず見ていると影が大きく揺れて、消えた。何もなくなった屋上を見ている理由はない。僕は人波に紛れて立ち去った。

何時からだったか、明確な時期は忘れてしまったが僕には影が見えていた。晴れた日の放課後、通っている高校の屋上で影が揺れていたのだ。
最初は幻覚かと思った。周りの反応を窺う限り、僕以外には見えていないみたいから。
それでも幾度となく視界に映りこんだ。見ないようにと俯いても端っこでゆらゆら揺れていて、煩かった。仕方なく顔をあげて凝視していると影はすうっと消えていく。数秒で消える時もあれば五分近く揺れていることもあった。
正体は不明だが、見ていれば消えるし危害を加えてもこない。だから僕は影を放置していた。

状況が変わったのは夏休み直前だった。長期休み前独特の浮かれた空気が教室に蔓延していて、居心地が悪かったのを覚えている。
授業は退屈で、僕は意味もなく教科書をパラパラめくっていた。視界の隅で何かが動いた。若干の間の後、女子のものらしき甲高い悲鳴が外から聞こえた。窓辺に野次馬が集まる。教師の着席を促す声はざわめきに消されてしまう。
所々聞こえてきた会話を繋ぎあわせると、男子生徒が飛び降りたらしい。同級生の呟いた名前には聞き覚えがあった。確か隣のクラスの人ではなかったか。僕にはそれ以上のことは解らなかった。
彼は死んだのだろう。漠然と思った。何処から飛び降りたのか解らないが、それなりの高さからクッションになるものが何もない所へ落ちたのだ。無事であるはずがない。
ようやく落ち着きを取り戻した教室では授業が再開された。人がいなくなった窓辺では影が揺れていた。何時もと違う場所で何時も通りに揺れている影は不気味だった。

夏休みになった。両親は共に出掛けており、家には僕一人しかいない。課題は早々に済ませており、僕は時間を持て余していた。
手持ち無沙汰に本のページをめくっているとカーテンがはためいた。何気なく、窓に視線を向けると影があった。
僕は本を閉じ、網戸を開ける。影は物音一つたてずに佇んでいた。
初めて間近で見た影は人の形をしていた。しかし、顔はない。表面は平らで滑らかだった。
「入らないの?」
「……」
影は喋らない。もしかしたら口がないから喋れないのかもしれなかった。僕は机の上に無造作に置いてあったノートとペンを影に突き出す。影は受け取らない。手らしきものはあるが、物は持てないのか。だとしたらどうやってコミュニケーションをとればいいのか、お手上げだった。
「どうすればいいのさ」
溜め息混じりに呟くと影が消えた。次の瞬間には家の前の道路に立っていた。かと思えば揺れながら歩き出す。
追いかけないといけない気がして、僕はスマホと財布をポケットに突っ込み、家を飛び出した。
影は一定の距離を保ったまま、僕の前を進んでいく。僕が離れたら立ち止まって待ってくれた。試しに早歩きをしたら影も進む速度を速める。
何処かへ連れていこうとしている。風景の変化の仕方で何処へ行こうとしているのか解ってしまった。
大人しく着いていくのは目的が解らないから。期待半分不安半分で僕は影の後を着いていった。

到着したのは僕が通っている高校だった。部活が行われているお陰か、校門は開いていてすんなり入れた。
あちらこちらから聞こえてくる掛け声を聞きながら、校舎内を歩く。階段を昇り、教室の前を通りすぎ、影が向かったのは屋上だった。飛び降りの一件があってから鍵がかけられていたはずだが、ドアノブをまわすと扉はあっさりと開いた。
近くなった太陽に目を細める。影は柵の向こう側に立っていた。何時も下から見た時に影が揺れている位置とほぼほぼ同じだった。
「君、もしかして――くん?」
後ろ手に扉を閉めながら問い掛けると、影が頷いたような気がした。
「どうして僕を此処に連れてきたの? 学年が同じって事以外に接点ないよね」
影は静かに揺れていた。イエスノーで答えられない質問は返事のしようがなくて駄目なのか。僕は質問を変えた。
「僕じゃなきゃいけない理由があるの?」
影が頷く。
「それは、僕にしか見えていなかったから?」
またしても影が頷く。
何で僕にしか見えていないのか。喉元まで出かかった疑問を飲み込む。投げ掛けたところで無駄だと気付いたからだ。
さてどうするか。僕は考える。イエスノーで答えられる質問となると限られてしまう。
考えれば考えるほどに頭の中は真っ白になり、僕は思考を放棄した。
影の背後には青い空と建物の頭が並んでいる。いっそ憎たらしいくらいに綺麗な景色を眺めていると案が浮かんできた。
影と同じ景色を見る。同じ場所、とはいかないが近くに立って景色を眺めてみたら何か解るのかもしれない。そう思い付いたのだ。
実行しようと影の近くに立つ。扉付近から見た時より、空も建物も大きく見える。風に流れる白い雲が景色に穏やかさを増していた。
あの日、影が飛び降りた日も今日のような日和だった。僕は今、影が最期に見た景色を見ているのだ。
ほう、と息を吐き出すと影が不安定に揺れていた。影が透けて、景色がフィルターを通したようにくすんで見える。
消えるのだ、何時もの消え方とは違う、完全に消滅するのだと、感じた。
「……さようなら」
別れの言葉を何となしに呟く。答えるように一際大きく揺れて、影は掻き消えた。

影の正体は何なのか。インターネットにも文献にも似たような事例は載っておらず、推測しかできないから、僕なりに考えてみた。
影は死の予兆なのだ。近々誰かが死ぬ場所に現れて、死を予言する。そして誰かが死んだ後、僕の間近に現れて死んだ場所に連れていき、影の考える条件を満たしたと判断した場合に消滅するのだ。
条件は影によって様々だ。最初に出会った同学年の影みたいに景色を見せる謎めいたものもあれば、生前親しかったものに想いを告げるという解りやすいものもあった。
面倒くさいことも多々あるが、暇潰しにはもってこいで今も影に振り回されていた。
今日も影が揺れている。次はどんな影に振り回されるのだろうか。僕はじっと影を見つめた。

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