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『THE LIVING』刊行に寄せて(令和四年十月吉日 東京キララ社)

 私、釣崎清隆は死体写真家である。
 約三十年にわたって世界の修羅場を渡り歩き、人間の死を見つめてきた。
 そして平成三〇年、集大成としての死体写真集『THE DEAD』を上梓した。
 私、釣崎清隆は死体写真家である。死体しか撮らない、というドグマを己に課してきた。
 しかしながらこの三十年の間、全く死体以外のものを撮らなかったのかというと嘘になる。死体写真家として存続するために撮らざるを得なかった「裏」の写真があり、要するに「ジャーナリスト」の真似事をせざるを得なかったのだ。
 世界中どこへ向かおうと、私の目的はもちろん死体を撮ることである。しかしながら同時に、世界中で人生を謳歌する人々の表情、喜怒哀楽、子供たちの笑顔も撮った。
 それは、私にとって主戦場である死体現場の舞台裏であり、なおかつ「生と死」という世界総体の膨大で最重要な半分である。
 この作品集は『THE DEAD』と対になるアンソロジー、私が撮った死体以外の写真の集大成である。つまり、この作品集によって私の世界は完結する。
 タイの交通戦争に始まり、世紀末から果てしなく続く中南米の麻薬戦争を追う中で、9.11を迎えてパレスチナの対テロ戦争を越え、3.11の東北の災禍を取材してからここ最近は、特に我が祖国を見つめなおす旅路にある。
 直近ではウクライナの戦場に赴いた。その必要があった。それは我が国の行く末を占う旅でもあったからだ。ウクライナは日本を映す鏡だ。
 我が国は世界で最もきな臭い「力の空白」である。三島由紀夫が自決の少し前に喝破した「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の」脆弱を情けなく暴露している。
 我々は世界から、武の放棄という物理的な弱さはもとより、穢れた建前に対して抵抗できない表現力の弱さをこそ、実は嘲笑されているのだ。もはや本音の存在も軽く曖昧になり、森羅万象を近視眼的にしかとらえることができない、神話を冷笑することしか能がない弱さをこそ、侮蔑されているのだ。つまり美意識の欠如こそが、我々の危機の淵源なのだ。
 私は芸術家である。だからこそ近年加速する詭弁の蔓延には耐えられない。この時代に審美的違和感を覚えない者に表現者の資格はない。
 表現者は時代と寄り添い、並走し、叛逆するのだ。我が国最大の問題は、真の問題が問題視されないことだ。実に現実が見えていない表現者の問題なのだ。戦争は起こる。世界の均質化を拒否するかのように。
 時代は世界史的分水嶺にある。我が国はその渦中で存亡の危機に瀕している。世界は欺瞞と不合理に満ち溢れ、反自由主義と反知性が蔓延る糞壺と堕した。
 しかしながら私は、戦火のウクライナを訪れて改めて実感したのだ。確信したのだ。
 それでも世界は美しい。やはり世界は美しい。
 我々は神話の登場人物なのだ。
令和四年十月吉日
釣崎清隆

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