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『DEATH』 Beyond Death(2011 Creation Books)

 僕は死の無謬性を唱導して歩く宗教請負人でも哲学者でもない。かといって不道徳や悪趣味の商人でも殺し屋のたぐいでもない。
 僕は例えばネットメディアで敵の首を誇らしげに掲げるイスラムやメキシコのテロリストに似ているかもしれない。表現者だ。
 僕は表現の自由にかけては原理主義者である。僕は芸術に不可能はないと信じている。芸術のためなら何をしてもいいと思っている。表現というものはどんなに反社会的であろうと、たとえヒトを傷付けようとも、絶対に規制を受けてはならない。これは僕の信念であり祈りだ。僕は芸術のためには悪魔に売り渡すこともやぶさかでない。
 そんな僕がジャーナリストであるはずがない。アーチストであって他の何物でもない。
 僕がなぜ死体を撮るのか? 愚問だ。
 古今東西例外なくヒトが最も目にしたくない見たくないと考えるもの、それが死体である。それほどパワフルな究極の対象を撮らないで、写真家としていったい何を被写体に選ぶべきだというのか。現場における肉体、血と骨、そして内臓のフォルムは芸術家として挑む価値のあるパラランゲージだ。
 そんな死体がその存在の過剰と能力特性のため強力な破壊力を持ち得るのは確かだ。それはポストモダン旅団の核兵器といえる。イスラムゲリラの趣味は世界に地下枢軸を激震させて、地球の裏側のメキシコの麻薬組織にインスピレーションを与えた。
 同時に死体はすでに体制や権力に利用されてきた事実がある。ロシアや中国では過激な死体映像が情報統制の道具として機能しており、蔓延したテレビニュースは政府にとって都合の悪い情報を覆い隠すのに十分すぎるほどショッキングで、国民の愚民化にすら加担させられている。こんな破廉恥をしでかすのは米英仏といった西側の大国でも全く同様である。ルーマニア革命を過剰な流血沙汰にしたのはティミショアラ事件にからみ、CIAが事件と全く関係のない死体をモルグからありったけかき集めて現場に転がし、大虐殺をあからさまに演出してメディアに報道させたからである。
 芸術家は世界中で激化する壮大で生臭い情報戦から自由であり得ると考える。意に反して為政者から利用されたり民衆に担がれたりすることはあるだろうが、主戦場であるネット上は表現が不特定多数の誰もに開かれているため、情報を独占してきた既成マスメディアに比べて職業表現者の必要性が低く、また特定イメージに縛られる危険も分散され、だからこそ横断的な表現の場を入れた芸術家本人の一個の発言や意図がかえって重要性を持つことになる。権力というは戦術が圧倒的に巧緻だが使用素材はしょせん下品なショックメディアがせいぜい、というか下品さを希求しさえする。 
 そんな体制や権力が世界の趨勢としてドラスティックな暴力表現の規制に動いているのだから笑わせる。威力ある危険物は独占したいと考えるのが体制であり権力というものだ。
 肉体の果てに対面するものは真の恐怖である。
 生が時限的であるように、肉欲に限界があるのは自明である。生きることが肉欲の連続とその追求であるとすれば、ヒトとして、死ぬという行為は生き恥をそそぐこと。
 裸に罪はなく、どころかそれを隠蔽することこそが犯罪だ。
 裸身が美しいからというだけでなく、芸術とは、わずかでも検閲されれば享受できなくなってしまうものなのである。しかし世界中の検閲当局は芸術を強姦し、切り裂き、あまたの作品をキズモノにして、いまだそうし続けている。
 欲望の果てに対面するものは被食の恐怖だ。エロスとタナトスは互いに不可分であり、同一ですらある。僕は死に可能な限り肉迫することこそが、美に殉ずる道だと信じている。
 死の現場はあらん限りの究極を提供してくれる。僕が追及しているのはただ一つ、究極の美だ。

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